マリヤの子イエス(パート4/5):イエスは本当に死んだのか?
説明: この記事では、イエスの磔刑に関するムスリムの信仰について大まかに説明すると共に、人類の原罪ゆえにイエスが犠牲を払う必要があったという観念を否認します。
- より アーイシャ・ステイスィー(ゥ 2010 IslamReligion.com)
- 掲載日時 13 Dec 2010
- 編集日時 13 Dec 2010
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イエスが十字架の上で死んだ、という観念は、キリスト教の信仰の中核です。それは、イエスが人類の罪のために死んだという信念を表しています。イエスの磔刑はキリスト教の中の重要な教義ですが、ムスリムはそれを完全に拒否します。イエスの磔の刑に関するムスリムの信仰をご説明する前に、ここで原罪の概念に対するイスラーム的見解を理解しておいた方が有益かもしれません。
アダムとイブが楽園で禁じられた木の実を食べたのは、蛇による誘惑のためではありませんでした。彼らを騙し、そそのかしたのは悪魔だったのです。そしてその際、彼らは自らの自由意志を用い、判断ミスをしました。イブだけがこの間違いにおいて責任を負うわけではありません。アダムとイブは、共に神に対する不服従を認識し、反省し、神の赦しを乞いました。そして神はその無限の慈悲と英知でもって、彼らを赦したのです。イスラームに原罪の概念はありません。各人は自らの行いに対してのみ、責任を負うのです。
「荷を負う者は、他の者の荷まで負わされることはない。」(クルアーン 35:18)
神であれ、その息子であれ、あるいは神の預言者であれ、人類の罪の贖罪のために自らを犠牲にする、などという必要はありません。イスラームは、このような見解を完全に拒否します。イスラームの基礎は、私たちが神以外の何ものも崇拝しない、ということを確信をもって知ることのもとに成り立っています。そして罪の赦しは、唯一の真の神のみによってなされるものですから、人が罪の赦しを乞う際には、真摯な反省をもって従順に神のもとに立ち返り、罪の赦しを乞い、二度とその罪を繰り返さないように約束しなければなりません。このようにしてのみ、罪というものは赦されるのです。
原罪と赦しに関するイスラームの理解を見てみれば、イスラームにおいては、イエスが人類の罪を贖うために到来したのではないと教えられていることが分かります。むしろ彼の目的は、それ以前の預言者たちのメッセージを再確認することだったのです。
「…神の他に、崇拝に値するものなど存在しないのだ…」(クルアーン3:62)
ムスリムは、イエスが磔刑にされたとも、また彼が死んだとも信じてはいません。
磔刑
イエスのメッセージは、ローマ帝国の権力者たち同様、イスラエルの民の多くからも拒否されました。彼の弟子として知られている信者たちは、彼の周りに小さな集団を作っていました。イスラエルの民はイエスに対して共謀し、彼を暗殺する計画を立てました。彼は、ローマ帝国で良く知られていた身の毛もよだつ特定の方法で、公開処刑される予定でした。つまり磔の刑です。
磔の刑は、恥ずべき死に方と見なされていました。そしてローマ帝国の「市民」は、この懲罰から免除されていました。それは死の苦痛を長引かせることだけではなく、身体の切断をも意図して創案されたのです。イスラエルの民は彼らのメシア、神の使者イエスに対し、この屈辱的な死を計画していました。しかし神はその無限の慈悲でもって、イエスに似ている者と彼を取り替え、この忌まわしい出来事を防止されたのです。そしてイエスは生きたまま、その肉体と魂と共に天国に召されました。クルアーンは取り替えられた人物に対しての詳細について何も語ってはいませんが、私たちは確信をもって、それが使徒イエスではなかったことを信じ、また知っているのです。
ムスリムは、神の崇拝と、神の命令に沿っての生き方において人間が必要とする全ての知識は、クルアーンと預言者ムハンマドの正統な伝承の中に含まれていると信じています。従って、そこに細かい詳細が説明されていないということは、神がその英知によって、そのような詳細は私たちにとって何のメリットもないと判断されたためなのです。クルアーンは神ご自身の言葉によって、イエスに対しての彼らの策略と、神によるその破棄、そしてイエスの昇天について説明しています。
「彼らは策謀したが、神も策謀された。しかし神こそは最高の策謀者であられる。」(クルアーン 3:54)
「また彼らの、“私たちは、神の使徒であるマリヤの息子、メシア・イエスを殺したのだ。”という言葉ゆえに(呪った)。彼らは彼のことを殺してもいなければ、磔刑にもしていない。彼に似た者を彼と思い込んだだけなのだ。彼について(見解を)異ならせている者たちは、実に疑念の中にある。彼らはそのことについて(確実な)知識もなく、ただ単に推測に従っているに過ぎない。彼らは決して、彼のことを殺してなどいないのだ。いや、神は彼を、かれの御許に上げられたのである。神は威光高く、この上なく英明なお方。」(クルアーン 4: 157−158)
イエスは死んでいない
イスラエルの民とローマ権力は、イエスを害することが出来ませんでした。神は、神自身がイエスをその御許へと召し、イエスの名において行なわれた虚偽の言明を暴露しています。
「“イエスよ、われはあなたを召し、われのもとに上げ、不信仰者たちから清めよう。”」(クルアーン 3:55)
上の節では、神がイエスを「召される」際に、「ムタワッフィーカ(mutawaffeeka)」という言葉を用いられています。アラビア語の豊富さに対する明確な理解と、多くの単語の意味のレベルに関する知識なしには、神の意図を誤解する恐れがあります。現代アラビア語において、「ムタワッフィーカ(mutawaffeeka)」は時に死亡を、また時には睡眠を示すことがあります。しかしクルアーンのこの句の中では、神がイエスを完全にかれの御許に召された、という語本来の包括的な意味で用いられています。従って、彼は昇天の際にはいかなる損傷もなく、肉体と魂と共に生きた状態であったのです。
ムスリムは、イエスが死んではおらず、審判の日の前の最後の日々にこの世に戻って来ることを信じています。預言者ムハンマドは、彼の教友たちに、こう言いました:
「マリヤの子イエスがあなた方のもとに降臨し、福音の法ではなくクルアーンの法によって人々を裁くことになる時、あなた方はどうなるのか?」(サヒーフ・アル=ブハーリーによる伝承)
神はクルアーンの中で、審判の日が必ず訪れる日であることを、私たちに確認します。またイエスの降臨は、それが間もなく到来することの予兆の一つであることに、警告を放つのです。
「実に彼は、(審判の)時の予兆の一つである。ゆえにそこにおいて疑念を抱かず、われに従うのだ。これこそは真っ直ぐな道である。」(クルアーン 43:61)
このように、イエスの磔と死に関するイスラームの信仰は明快です。イエスを磔にする姦計があったもののそれは失敗し、彼は死ぬことなく昇天したのです。そして彼は審判の日が起こるまでの最後の日々にこの世に回帰し、そのメッセージを継続するのです。
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