ジョシュ・ハサン 米国出身の元ユダヤ教徒

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説明: 「真理の探究者」によるイスラーム発見への道のり。

  • より ジョシュ・ハサン
  • 掲載日時 03 Aug 2015
  • 編集日時 03 Aug 2015
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Josh_Hasan__Ex-Jew__USA_001.jpg私はムスリムにならなかったかも知れません。14,321もの神々を崇拝するヒンズー教徒になっていた可能性もあります。

または、イエス・キリストを崇拝するキリスト教徒になっていたかも知れません。しかし、なぜ自らを神であると主張さえしなかった預言者を崇拝しなくてはならないのでしょうか。彼は知っていたはずです。そして私も知っています。イエスは神ではなく、神はイエスではないのです。

仏教徒になっていた可能性だってあります。しかし、どの宗派が正しいものなのでしょうか? それを知る人すらいるのでしょうか? ダライ・ラマは「3人の娼婦を連れてラスベガス旅行をする」と発言したように、私に人生を謳歌する教えを説くことを好んだのでしょうか?

上記の宗教のいずれにも正式に入信したことはありませんし、これからもそうすることはないでしょう。私はイスラームのことを殆ど知らないまま、その方向に進みました。そしてその1年後、シャハーダをして改宗しました。もっと早く改宗していればとさえ思います。これは私が10歳のときから始まる、私の改宗記です。

唯一神

10歳の頃、両親は私をユダヤ人口の多い地元マサチューセッツ州ブルックラインの正統派シナゴーグに登録しました。そこでヘブライ語とユダヤ教を学ぶためだったのですが、どちらもろくに学ぶことはできませんでした。そこの教師陣はイスラエル人でした。あまり良くは覚えていませんが、実際彼らはもっぱら改革派のユダヤ教を教えていました。10歳の私は真摯に神を信じており、トーラーと旧約聖書の物語をよく読み、両親よりも「敬虔」でした。私は礼拝したりはしていたものの、なぜか家族や友人たちは全くその重要性を理解していませんでした。それにも関わらず、私は内なるユダヤ性を大事にしました。その時期に、私はキリスト教についてすこし齧ってみたことがあります。なぜ人々がキリストという偉大な人物の名前を、何か起きた時に安易に使うのかが疑問でした。またイエス・キリストにはもっと敬意が払われるべきではないのか、そして彼は本当に神の子なのかを疑問に持ちました。

そしてまだ10歳だった頃のある日、私がユダヤ教やイスラエルについての読書をしていると、新たな宗教を発見しました。まず三日月と星のシンボルが目に入りました。さらに読み進めると、世界中にいるその宗教の10億人もの人々が私と同じ神を崇拝しているのを知り、驚愕しました。思い起こすと、それは本当に信じ難いことでした。全能なる神アッラーの宗教イスラームの追従者たちは、クルアーンと呼ばれるものを読み、巡礼をしたのです。それは至極興味をそそりました。

残念ながら、当時はイスラエルへの親近感から、さらにイスラームについて勉強することははばかれました。私はムスリムたちが、ダイナマイトでユダヤ人たちを吹き飛ばすテロリストだと洗脳されていました。ユダヤ人たちは「善良」で、アラブ人たちは「悪」だったのです。友人たちはそう言い、教師たちもそれを示唆しました。そして1999年まで、イスラームについては殆ど聞かなくなりました。

1994年が明け、1995年となりました。家族はシナゴーグや宗派を変更しました。彼らは正統派から「改革派ユダヤ教徒」に改宗したのです。私たちは非常にリベラルになりました。私たちの「ラビ」はコーシェルですらなく、彼はユダヤ教徒を神の道へと導く精神的指導者とは言い難い人物でした。ある夜の集会で、彼は私たちの眠気を覚まそうとして、近所のボストン大の女子学生をみだらに眺める趣味について言及しました。そのときは僅かな笑いしか取りませんでした。いま当時を思い起こしてみると、彼は自らの妻、トーラー、そして神の御前で「ハラーム(禁忌)」について語っていたのです。ユダヤ教に対する不満は高まり、宗教右派への移動は必然でした。ただし、正統派ユダヤ教徒にだけはならないと決めていました。

啓典の民

私はキリスト教のスピリチュアリズムに共感を覚えていました。それが力強いものだと感じていたのです。ユダヤ教が腐敗した宗教であることは確信していたものの、依然として神だけは信じていました。ひょっとすると、キリスト教徒たちは本当に神を信じているかもしれないと思いました。

合同礼拝に赴き、聖職者と話してみましたが、イエスに神格性があることだけはどうしても信じることができませんでした。それゆえ、無理やり信じ込むことにしました。私は「御子」へ祈っていたのです。とんでもないことをしていました。ひたむきに頑張ってはみたものの、それに対する答えはありませんでした。理解することができないまま「教理問答書」を学び、「主の祈り」を捧げていました。まだ洗礼されてはいなかったので、カトリックではありませんでした。カトリック教徒になるには、9ヶ月間の学びが必要とされます。聖職者が私への洗礼を拒否したため、カトリックになる前に死んだとしたらどうなるのでしょうか? 私はキリスト教の教義の欠陥ばかりに目が行くようになりました。聖職者たちもそれらに気付いてはいたようでしたが、それにも関わらず説教を続けていました。

1999年の1月26日、私は堅信礼のクラスを辞めることにしました。私はまだキリスト教徒でもなかったのですが、キリスト教を辞めました。私は「救済」されなかったことになりますが、気にも留めませんでした。両親はそれをとても喜びました。ただ、私は唯一神の存在を信じ続けていました。今日でも、それがいかにすぐ起きたかに驚かされます。教会を去って一週間もしないうちに、神の「最終宗教」について学ぶことになったのです。

恐ろしいほどの遅延

父は私のキリスト教に対する興味の喪失に歓喜し、両手を広げて歓迎しました。しかし彼にとって運の悪いことに、彼は私を図書館へ連れて行きました。そこで私はブリタニカ百科事典を紹介されました。その中でムハンマド(神の慈悲と祝福あれ)について読んだのです。その記事では、彼がアラビア半島のユダヤ部族を虐殺したと記されていました。それを読んだ私は深く悲しみ、怒りと混乱が同居した感情にとらわれました。私はこのイスラームの預言者がユダヤ教徒を虐殺したことに、どうすればよいのか分からない感情と共に憤慨しました。イスラームを除外したものの、神を信じ続けていました。もう後戻りはできない状態でした。ユダヤ教とキリスト教が腐敗していることは知っていました。ブリタニカ百科事典も腐敗しているに違いないと感じました。

そのため、地元のモスクを探すことにしてみました。偶然、近所にモスクがあるのを発見しました。インターネットでも検索しました。ボストンという文字を目にすると、すぐさまマウスをクリックし、正しく神を崇拝する道へと続くものが見つかるよう望みました。ゆっくりと反応の鈍いモデムに忍耐強く待ち、遂にサイトが開きました。

マウスのボタンをクリックすると、アッサラーム・アライクムという挨拶に迎えられました。住所をメモし、訪問計画を立てました。ボストンでモスクを見つけることができた私は、エジプトやヨルダン、イエメンまで旅せずに済んだと喜々としました。

それは1999年の2月28日でした。ある通りを歩いて行くと、モスクが見えました。正面に着き、扉を開こうとすると、看板にこう書いてありました。「女性用入り口」――女性用の入り口が何を意味したのか分からなかったため、モスクの反対側に行けば男性用の入り口があるかも知れないと思い、実際に見つけると急に緊張してきました。私は宗教的なムスリムとは一度も出会ったことがなかったため、彼れが私と会った時の反応が全く未知数でした。私は自分のユダヤ教徒としての出自を隠すべきか迷いました。深呼吸をして、扉を開きました。

最初に目についた男性に「失礼します」と言いました。「イスラームについて興味があるのですが」と言い、案内してくれるのか、追い返されるのかと彼の反応を探りました。靴はもう棚にしまっていました。男性は開口一番、「すみません、私は英語ができません」とだけ言い、礼拝堂に入って行きました。私は彼に付いて行きました。私は彼が私を置き去りにしたのかどうか分かりませんでした。周りを見回すと、信仰者たちがアッラーへの崇拝に額ずいていました。それに感動しましたが、次に何をすればよいのか分かりませんでした。そうしていると、例の男性が他の信仰者たちと一斉に戻ってきました。私は座りました。彼らは50人近くはいたでしょうか。彼らはほとんど一斉に私に話しかけてきました。それには圧倒されましたが、悪い気はしませんでした。それはムスリムたちにとっていかにイスラームが重要であるかを示していました。彼らは「イスラーム理解の図解付きガイド」をくれ、それにはシャハーダ(改宗のための信仰証言)の仕方が載っていました。それはこう証言することです。「ラー・イラーハ・イッラッラー、ムハンマドゥッ=ラスールッラー(アッラーの他に神はなく、ムハンマドはアッラーの使徒である)。」 私には、その場でその準備ができていました。カトリック教徒になるには9ヶ月、そしてユダヤ教徒になるにはさらに時間がかかるでしょう。しかしイスラームではその場で即座に改宗することができるのです。

「本気ですか? 別に今そうしなくてもいいのですよ。」友好的なものの、注意深い同胞が言いました。私は驚きました。それはよく考える程大掛かりなことなのでしょうか? ムスリムになることは遅延すべきなのでしょうか?

結局その日、私はムスリムになりませんでした。しかし、それは素晴らしい土曜日でした。そこでは世界中の同胞たちと出会いました。彼らは様々な出自ではあったものの、明白な共通の目的を持っていました。それはつまり、アッラーへ完全な帰依をすることです。

私がムスリムになるのには1年以上かかりました。その年、私は家族の車でブロンクスを通過中、銃撃を受け、弾丸は後部の窓ガラスを粉々にし、私の頭すれすれを横切りました。私は傷ひとつなく無事でしたが、事件後、そのことはそれ程長く心に留まることはありませんでした。

2000年の5月6日、私はいつも乗っているケンブリッジのモスク方面行きの電車に乗っていました。そのときは、アラビア語を学習するための本を持参していました。当時はそうすることが私の哲学でした。イスラームを包括的に学びたかったのです。シャハーダをする頃にはイスラーム博士にでもなっているのを目指していたのかもしれません。そこでは、数ヶ月間顔を合わせていなかったムスリムに出くわしました。彼は、私がもうムスリムになったのかと尋ねてきました。そしてしばらく会話をしました。彼は私が路上を歩いている時に交通事故に会えば、非ムスリムとして死んでしまうのだと言いました。それは来世が地獄になる可能性を意味します。彼は全く同じことを1999年の12月にも言っていたのですが、ブロンクスでの事件直後だったにも関わらず、私はそれを真面目に受け止めることができませんでした。しかしそのとき、イスラーム改宗をそれ以上遅延することがもうできませんでした。

同じ日の午後、私はモスクでムスリムたちが正午の礼拝を行うのを座って見ていました。私は彼らの額ずく姿を凝視していました。それは悪魔が拒否した姿勢です。私はそれ以上、耐えられませんでした。もし、今ムスリムになればどうなるだろうかと思いましたが、私はもう決意していました。礼拝の直後、私は同胞にムスリムになりたい旨を伝えました。これを書いている現在、それから3ヶ月経ちましたが、シャハーダをしたのは人生で最良の決断でした。もっと早くそうしていればと悔やまれます。

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