ムハンマド・ナズィーフ・ハーリド エジプト出身の元キリスト教徒

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説明: ムハンマドは他の諸宗教からは見出すことのできなかった、イスラームの興味を駆り立てたてられた側面について述べます。

  • より ムハンマド・ナズィーフ・ハーリド
  • 掲載日時 31 Aug 2015
  • 編集日時 31 Aug 2015
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Muhammad_Nazeeh_Khalid__Ex-Christian__Egypt_001.jpg私はエジプト・アラブ共和国のマンスーラ市で、宗教をあまり重要視しない一般的なキリスト教徒の家庭に生まれました。私たちは祝祭日以外には教会に行くことはありませんでした。私たちにとって宗教とは必要な時に行う一連の儀礼でしかありませんでしたし、それらの儀礼における言語も理解していませんでした。それらを理解してはいなかったものの、私の家族は無知な者たちが陥るような盲目的な狂信の状態で、その価値を知らないにも関わらず、それを失うことを怖れていました。私自身は、一時たりともそうした感情を持つことはありませんでした。教会の集会はあまりにも退屈すぎたため、一度も最後まで座り通したことはありませんでした。私はいつも倦怠感と焦燥感にとらわれており、自分は彼らの一員ではないということに確信を抱いていました。いにしえの偶像崇拝者たちの寺院のように絵画やイコン、偶像で満たされた場所に、私は違和感を感じていました。その後私は絶えることのない欲望と情熱から読書に熱中するようになり、それによって私の能力や知覚は刺激を受けるようになりました。

数々の疑問が私の頭に浮かぶようになりました。それは未開拓の地に甘美な果実をもたらす良質の種を蒔くために鋤を起こしているかのようでした。そのときから、自分が生まれ育った宗教に対する疑念を抱くようになり、それは私の考え方を暴力的に、そして完膚なきまでに叩き壊しました。全能なる神が人間という形をとって地上に降り立ち、罪人たちが彼に暴力をふるい、彼の顔に唾を吐き、最終的に拷問した上に十字架に磔にしたという(キリスト教側の)主張に対し、私の心は感情的に、私の頭は論理的にそうした概念を拒絶しました。たとえ、それがキリスト教徒たちが言うように、彼らの父であるアダムの罪を赦すためという名目であったとしてもです。神には三位一体という概念があることも、それを真実としては認めませんでした。なぜなら神が唯一であるなら、何一つとして神に比べ得るものはないはずだからです。

三位一体論とは、最終的には神の唯一性を分割させてしまうもので、神の栄光はそうした誤解とは遠く無縁なものです。イエス・キリストの十字架への磔が人類に対する贖罪となること、そして父・子・聖霊から成り立つ三位一体といった信条が、キリスト教、言い換えるならイエス・キリストの神格性における根本教義です。私はそうした信条を自分の考え方や信念、確信の中から完全に排除しました。そうして全ての偽りや誤信を取り除いたのです。

彼らは、知恵を通して健全な信仰を得ることは不可能であるといいます。なぜなら、それは人間の頭脳が計り知るには崇高すぎるからだそうです。しかし私は、もし人間が正しく知性を駆使し、欲望や固定概念、既成のイデオロギーを除外するならば、確実にアッラーへの揺るぎない信仰という富を、かれの至高なる全能性とかれのまばゆいしるしの中から見出すことができるはずだと確信しています。それらを知るのであれば、私たちは羞恥心と無力感の中に服従するしかないのです。それゆえ、私は確固たる信仰へ続く疑念の山を乗り越え、イスラームというアッラーの真の宗教に辿り着いたのです。

啓示宗教

私はユダヤ教やキリスト教だけでなく、仏教、道教、ゾロアスター教なども学びました。それらの一部からは、人間を正しい行いへと導く高い論理性や哲学のようなものを見出すことができました。しかし、アッラーの定義を明確に述べることに関しては、それらは世界の諸事の一部をそれぞれ受け持って司る神々の存在を肯定するか、もしくはアッラーを地球上の生物に似通った有形の存在として提示します。それらの神々は重要な活動だけでなく悪ふざけのような復讐にも興じ、怒りをあらわにしたり、飲食をしたり、一般的に生き物がとるような行動をとります。

しかしイスラームは自然な宗教です。全能なるアッラーは、それをいかなる物理的・有形さからも清め、精神性・清浄性における最高の段階にまで高めました。イスラームは、アッラーが意思、叡智、裁量、知識と権威を有していることを確証します。イスラームによれば、アッラーの数々の美名は、かれの存在からいかなる状況においても切り離すことのできない特質であるとされます。また、イスラームは他のいかなる存在とも共有されることのないかれの唯一性、そして以下の112章で述べられているように、その存在の永遠性も強調します。

“言え、「かれはアッラー、唯一なる御方であられる。アッラーは、自存され、御産みなさらないし、御産れになられたのではない、かれに比べ得る、何ものもない。」”

このように、私は崇高かつ神聖な宗教であるイスラームに惹かれました。啓示諸宗教の中でも最も純粋かつ完全に昇華された宗教であるイスラームは、背教的または顕現の教義とは無縁なのです。

イスラーム改宗

ラマダーン月の8日、私は2人の知人と共に初めてモスクに足を踏み入れました。私の魂と意識は、偉大なる信仰の場において浄化されました。私はそこで甘美な心地よい経験をし、救済への扉が開かれました。私の身体のすみずみにまで敬虔さの鼓動が天国の高みから脈打ちました。そこでは一切、嫌悪感や困惑を感じることはありませんでした。そのまばゆい光は私を内側からも外側からも照らし、本当の私が誰なのかを気づかせてくれました。優しく、柔らかく、旋律的な内なる声が、これから人生の終わりまで、私の道はイスラームなのだよと私にささやきかけました。時の頂点を遥かに超えるその瞬間において、私は唯一無比にして全能者であり赦し深いアッラーの御前に立ちました。かれのいと高き魂は私を抱擁し、長きに渡った喪失と不幸を終えてかれの庇護へと立ち返るよう求めてきました。礼拝が終わった直後、私はアル=フセイン・モスクの門で聖典を手に取り、その聖なる章句と明確な叡智の海からの啓蒙に完全に圧倒されました。これは“疑いの余地なき”神の書であり、そこに“虚偽は、前からも後ろからも、近付ことは出来ない”(クルアーン41:42)のです。

それは世界の終わりまで、歪曲や改変されぬままの状態を保ち続けます。

“本当にわれこそは、その訓戒を下し、必ずそれを守護するのである。”(クルアーン15:9)

その聖なる、溢れんばかりの恩寵に飛び込んだ私は、2つのシャハーダ(証言)をし、アッラーへのイスラーム(服従)を宣言しました。私の信仰を確固たるものとし、自身への影響をより強くするため、私はアラブ世界やその他ムスリム諸国に影響力を持つ、現代ムスリム思想家たちの著作を読み始めました。

私が心と魂を込めて最後の避難の場として受け入れたイスラームを、アッラーがお受け入れになるよう、私は謙虚に祈るしかありません。わたしは神への愛情、そして荘厳なる地位を持ち、無比なる卓越した性格を持つかれの預言者への愛情と共にイスラームという宗教に入りました。私は常に預言者を敬愛し、彼こそが愛すべき最も偉大な人物であり、世界史において消えることのない跡を残した人物であったと堅く信じています。

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