ポンカルダス・ロマス フィリピン出身の元キリスト教徒

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説明: 強いキリスト教の影響下に育ったポンカルダスは、真実の発見に衝撃を受けます。

  • より ポンカルダス・ロマス
  • 掲載日時 03 Aug 2015
  • 編集日時 03 Aug 2015
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私は1959年の12月2日、フィリピンのカウスワガン地方北ラナオ州カウィットに生まれました。私が生まれた当時から、両親は数多くあるキリスト教の一宗派であるセブンスデー・アドベンチスト教会の熱心な信奉者でした。私自身、セブンスデー・アドベンチスト教会(以下SDA)の福音伝道者でした。私は幼少の頃から1981年にムスリムになるまで、SDAに深く関わっていました。

父の経歴

私の父は、独裁者だった元大統領フェルディナンド・エドラリン・マルコスによって組織されたILAGAとCHDF(民間人祖国防衛隊)の元メンバーでした。イロンゴ・領土奪取協会(ILAGA)とは、ムスリムの土地を略奪し、南フィリピンのムスリム人口を壊滅させるための訓練を施された、キリスト教徒のカルト・グループに与えられた名称でした。ILAGAのメンバーたちは透明の防弾チョッキを身にまとっていると信じており、一部では彼らに弾丸は当たらないと信じられています。彼らは文字通り敵対者の右耳を切り取り、それを焼いて食しました。そして食べ残しの灰をお守りとして香水の瓶に混ぜたのです。ILAGAのメンバーは、ムスリムたちを殺せば殺すほど、彼らに力が宿ると信じていました。

幼少時の洗脳

幼少時、私はムスリムたちが多神教者であると吹き込まれて(洗脳されて)いました。私たちはムスリムが好戦的・反逆的で、非ムスリムの殺人を厭わず、無法で、人類のあらゆる負の性質がムスリムの教義に詰め込まれていると信じていました。私がキリスト教徒だったときは、イスラーム・ムスリム・モロスの区別がつかず、それらすべては多神教の同義語だと思っていました。私がムスリムについて知っていたことといえば、彼らが「多神崇拝の愚劣な人間」だということだけでした。

私の経歴

私は保守的なキリスト教徒の教育機関(教会学校)で育ちました。幼少の頃から日夜、私たちはバイブルをいかに素早く開き、章句の意味を説明するかという訓練を受けていました。また、説教壇で可能な限りの知的なスピーチをする訓練も受けました。そして少年時代にセブンスデー・アドベンチスト教会の聖職者としての職務を数えきれないほどこなしました。私は南ダバオ州マナガの南ミンダナオ学院、南コタバト州トゥピのマトゥトゥム・ビュー学院、ジェネラル・サントス市のノートルダム、南アグサン州バユガンのフォレスト・ヒルズ学院で学んだ後、ドゥマゲテ市のシリマン大学で学位を取得しました。フィリピン大学の姉妹校であるシリマン大学は、米国人プロテスタント信者の慈善家によって設立・後援されました。私はスピーチ・演劇を専攻して教養学士号、そしてマスコミュニケーションの准学士号を取得しました。若い頃、私は非正規軍事組織の訓練における部隊司令官で、その後上級生生徒会長となり、青年組織の議長や科学クラブの部長、安息日学校の監督者などを務めました。

訓練背景

1981年、私はパガディアン市で、特にムスリム・コミュニティを対象とした宣教法についての広範な訓練を受けました。それは再降臨派の医学書の販売という大義名分を口実としたものでした。その後、私たちは複数のグループに分かれ、南フィリピンのザンボアンガ市における家宅・職場訪問の福音伝道活動に従事しました。私たちの主な目的は資金の調達と、教義を伝播してムスリムたちをキリスト教徒(再臨派信者)に改宗させることでした。現在もミンダナオ島のムスリム・コミュニティの中心には、ムスリムたちを徐々にキリスト教徒化させることを主要な目的とするキリスト教団体が複数存在しています。

最初の遭遇

ある日、私はザンボアンガ市サンタ・バーバラ地区のアル=マリーン海運会社事務所に伝道師として派遣されました。そこで、初めてムスリムの知識人との遭遇をしました。彼の名はナジーブ・ラズール・フェルナンデスといい、彼も元セブンスデー・アドベンチストの福音伝道者でした。私たちは幼少期に近隣に住んでいた者同士だったことが分かり、私たちの両親と彼の叔父の家族は親友かつ隣人同士でした。

正式な遭遇

私はナジーブ・ラズール・フェルナンデス氏に自己紹介しました。彼は温かい歓迎をしてくれ、私による事務所訪問の目的を尋ねてきました。彼は当時、アル=マリーン海運会社事務所の連絡員でした。彼はこう聞いてきました。「あなたはセブンスデー・アドベンチストでしょう?」

「はい、そうです。」

「あなたはイエス・キリストを信じていますか?」

「もちろんです!私たちはイエス・キリストを信じ、従わなければセブンスデー・アドベンチストではありませんから。」

彼は続けました。「あなたの宗教はセブンスデー・アドベンチストですが、イエス・キリスト自身もセブンスデー・アドベンチストだったのですか?」

私がもしも「はい」と答えていれば、その次の質問が「あなたのバイブルからイエス・キリストがセブンスデー・アドベンチストだったという証拠を見せてもらえないですか?」となることは分かっていました。バイブルにはイエス・キリストがアドベンチストだったという明文がないのは知っていました。私は人生でそのような質問を受けたことが一切なく、衝撃を受けました。私は質問を無視して話題を変えることに必死でした。彼は私の目をまっすぐ見据えて質問を繰り返すと、こう言いました。「その質問に答えることができないのなら、あなたのチームリーダーにその質問を示し、彼の返答を教えて下さい。」

衝撃的な事実

それから彼は、イエス・キリスト(神の慈悲と祝福あれ)の真の名前と人生について語りました。彼の名はムスリム世界においてはイーサー・アル=マスィーフ・イブン・マルヤムだと言うのです。イエスは預言者であり、神の使徒だと言います。そしてムスリムの宗教とアッラーの預言者たちの宗教はイスラームだと述べました。さらに、アッラー(神)の預言者たちは皆ムスリムだったと主張しました。彼はまた、イスラームが復活の日、審判の日、楽園と地獄、天使たち、預言者たち、道徳、天啓書などについて説いていることを強調しました。それらの言葉は、まるで私を深い眠りから呼び覚ました強烈な電撃でした。私はそのことをチームリーダーに実際に伝え、マリア、ヨセフ、そしてイエス・キリストの宗教が何だったのか尋ねました。彼はその質問に返答する代わりに、私がもうフェルナンデス氏とは会ってはならないこと、そうでなければ破門されるという警告を受けたのです。チームリーダーの反応は、イスラームとは何なのかという調査に私を突き動かしました。そしてセブンスデー・アドベンチストという信仰に対する疑念を私に植え込んだのです。

私の信仰が本当に真実なのであれば、別の宗教と関わることを怖れるべきではないはずなのです。

私は彼の警告を無視しました。私はフェルナンデス氏を再度訪問すると、彼は私に尋ねました。「あなたがたセブンスデー・アドベンチストたちがそうするように、ヨセフ、マリア、12使徒たちはイエスを神として崇めていたのでしょうか?」私は言葉を発することができませんでした。私はザンボアンガ市の支部に戻り、チームリーダーと議論を交わしました。その衝突の直後に、私は直ちに荷物をまとめて立ち去るよう命令されました。そのときは、自分がムスリムであることを受け入れることはできませんでしたが、チームリーダーを始めグループの全員は私にムスリムの烙印を押し、私がもうコミュニティにおける任務をこなすことができなくなったと主張しました。涙と混乱と共に、私はSDAの同僚を去ることを余儀なくされました。このことが私によりイスラームのことを調べさせ、数ヶ月後の1981年9月、バシラン州イザベラでムスリムに改宗するターニングポイントとなりました。

私は考えました。ムスリム世界の中心は中東です。西洋と東洋が預言者たちの人生、特にイエス・キリストのそれを知るのであれば、預言者たちの生まれ故郷であり、アブラハム(神の慈悲と祝福あれ)によって建築された神の館を擁し、ムスリムたちが祈りを捧げる土地である中東ではどうなのでしょうか? 世界中には20億人に達そうというムスリムたちがおり、他のどの宗教よりも人々は日々イスラームへ改宗しています。なぜなのでしょうか? この動向は中東の歴史、そして最後の預言者の人生について私を調べさせました。

ムスリムたちによる神への信仰

私は既述されたことも含め、ムスリムたちが神を信じているという事実を全く知りませんでした。私が以前信じていたことは、ムスリムたちが地獄に落ちる運命にあるということだけでした。一部の非ムスリムたちは、ムスリムを発展諸国・平和社会にとっての脅威的な、ドブネズミのような存在であるとみなします。これが、一部諸国が組織的に民族浄化を遂行し、ムスリムたちから人権を奪っている理由なのかも知れません。そうした国家規模の虐殺は、ボスニア、コソボ、カシミール、チェチェン、ミンダナオ島、そして本来はパレスチナ人たちに属するはずのイスラエル占領下の土地でも行われています。私の故郷には、次のような有名な格言があります。「良いムスリムとは、死んだムスリムである。」

私がイスラームを受け入れたのは、イスラームこそが神によって規定され、預言者たちに受け継がれた、人生における真の道(宗教)であること、そしてクルアーンこそが唯一改ざんのない完全なる神の書であることを知ったからです。私は非ムスリムたちに対して、クルアーンと真正の伝承を通してイスラームを知ってもらうよう訴えかけています。

悲しい現状

私がこの記事を書いている現在、フィリピンの人口は9,500万人に達しており、その中でムスリム人口は10%に過ぎません。これは、8,000万人以上が非ムスリムで、それら非ムスリムの大半はキリスト教徒です。フィリピンにおけるイスラーム宣教者の大半は、生活のためムスリムのアラブ諸国に出稼ぎに出てしまいます。もしもアラブ人ムスリムの同胞たちがイスラームの教えの伝播に本気なのであれば、なぜ彼らはフィリピン人たちを援助し、イスラーム宣教のために送り返さないのでしょうか?

サウジアラビアでのイスラーム改宗者たちの90%はフィリピン人です。フィリピン人の元来の文化と伝統はイスラームに根ざしているため、フィリピン人たちにとってイスラームを理解することは容易です。歴史的に見ると、フィリピンにイスラームが伝えられたのは、キリスト教のそれを200年遡る1380年です。キリスト教がフィリピンにもたらされたのは1521年の3月16日です。ムスリム人口が少数派に留まったのは、絶え間ない内戦、そして独立闘争が、キリスト教徒の伝道者たちによって財政支援されていたからです。初期のキリスト教徒たちがキリスト教を受け入れたのは、彼らがキリスト教そのものを理解し、受け入れたからではありません。彼らはスペイン人キリスト教徒たちによって持ち込まれた銃や大砲によって強制的に改宗されられたのです。

個人的に、キリスト教徒たちへイスラームを伝播することは取り組みがいのある試みであると感じています。私はSDAの活動的な伝道者だったという背景から、公私にわたってイスラームを伝播することにおいても情熱を持っています。アルハムドゥリッラー。私は光が暗闇を照らすためのものであると強く信じています。同様に、非ムスリムたちはその光を目の当たりにし、真理を受け入れるためにイスラームを必要としているのです。

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