ドナルド・W・フラッド/米国人の元キリスト教徒(4/4)
説明: 「ルーレットの類推」が、いかにこの元ラスベガス市民をムスリムにしたか。第四部:意味深長なビデオテープと、改宗への熟考。
- より ドナルド・W・フラッド
- 掲載日時 07 Oct 2013
- 編集日時 07 Oct 2013
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障害の克服
この時点で、私は8割方ムスリムになりたいと感じていましたが、何かがそれを妨げていました。それは、私がムスリムになったと知ったときの家族や友人たちの反応への心配でした。この懸念をあるムスリムに告げると、彼はこう教えてくれました。「審判の日、あなたの両親や友人たちは誰一人としてあなたを助けることは出来ない1のですよ。それゆえ、もしあなたがイスラームを真の宗教と信じているのなら、あなたはそれを受け入れ、あなたを創造した御方のご満悦を得るような生き方をしなければならないのです。」こうして、あらゆる魂は死を味わわねばならず、神への信仰や現世での行いについて責任を問われる2ため、私たちは皆、同じ境遇にあるのだということが明白になりました。
意味深長なビデオテープ
その時点で、私はイスラームを受け入れる直前まで来ていました。私は人生の目的について語る、あるイスラーム講座のビデオテープを見ました。この講座の主題は、人生の目的は「イスラーム(神の御意への帰依)」という一言で要約することが出来るというものでした。
別のポイントについては、イスラームは他宗教とは異なり、特定の人物や場所に結び付けられてはいない、というものでした。神はこの宗教を次の節によって命名されたのです。
“本当にアッラーの御許の教えは、イスラームである。”(クルアーン3:19)
イスラームを受け入れる者は、その人物の人種・性別・国籍などを問わず、誰であってもムスリムと呼ばれます。これが、イスラームが普遍的宗教である所以の一つなのです。
メディアによる継続的な偏向報道から、私は真実探求の前は、イスラームを選択肢の一つとしてさえ見なしていませんでした。同様に、イスラームはその特徴として高度な倫理規範を有しているものの、すべてのムスリムがそれに従っているとは限らないということも、このビデオテープによって明らかにされました。それは他宗教においても当てはまることです。人は誰一人として完全ではないため、その追従者によって宗教そのものを判断することは出来ないということを、私はようやく理解したのです。私たちはムスリムによってイスラームを判断すべきではなく、その啓示(聖クルアーン)と預言者ムハンマド(神の慈悲と祝福あれ)のスンナによって判断すべきなのです。
この講座から学んだ別のこととして、感謝の重要性というものがあります。神はクルアーンの中で、私たちは自分たちが創造されたという事実について感謝すべきであることを言及します。
“神はあなたがたが何も知らない時、あなたがたを母の胎内から生まれさせ、聴覚や視覚や心(知能感情)をも授けられた。必ずあなたがたは、感謝するであろう。”(クルアーン16:78)
また神は信仰への謝意を表し、また人々を罰することによってかれ御自身は何を利益を得たりしないこと、および人々がかれを称賛したり、信じたりすることによっても何の利益も得たりしないことを明らかにしています。かれはクルアーンにおいてこう述べます。
“もしあなたがたが感謝して信仰するならば、神はどうしてあなたがたを処罰されようか。”(クルアーン4:147)
自ずと明らかになる真実
ビデオテープを見終わると、真実が明らかになったと直感しました。私の肩から巨大な罪の重荷が降りた感じがしました。また、私の魂が地上を離れ、永久の歓喜のために現世の束の間の喜びを拒否する感覚にとらわれました。この経験は、長かった理屈の過程と合わせて、「人生というパズル」を解いたのです。それはイスラームが真実であることを解明し、私の「精神的景観」を信仰、目的、方向性、そして行為によって満たしました。こうして私はムスリムになるために要求される信仰宣言「アシュハドゥ・アッラー・イラーハ・イッラッラー、ワ・アシュハドゥ・アンナ・ムハンマダッラスールッラー(私は唯一なる神以外の神はなく、ムハンマドは神の使徒であることを証言する。)」をすることによって、イスラームの扉をくぐったのです。この儀礼的宣言は、すべての預言者・使徒たちへの信仰と共に、神のすべての(元来の形での)啓示への信仰を自ら確証するものであることから、それを通して最後の預言者(ムハンマド)と神の最終啓示(クルアーン)に対する信仰を更新し、自らの宗教を完成させるものだということを教わりました。また次の点は、私にとってとてつもなく明確なものとなりました。それはつまり、もしイエスが神の最後の預言者で、福音が最後の啓示だったのであれば、私はそれを証言したであろうということです。結果的には、私は自然と諸預言者の封緘なる者によって模範とされた、創造主の最終啓示を選んだのです。
新ムスリムの印象
真実探求の過程において、最も教訓となったこととしては、神以外の崇拝の対象はすべて虚偽に過ぎないものであるということでした。このことを明瞭に捉えることの出来る人にとって選択すべき唯一の道とは、自らの意思と行為を、創造主のそれと調和させることでしょう。神の御意に従うことは、私が創造主、他者、そして自分自身に対して安寧を感じることを可能とさせました。また、神のご慈悲によって無知の闇から救出され、真実という光の中に足を踏み入れることができたということに感謝せずにはいられなくなりました。あらゆる時と場所における真実の宗教であるイスラームは、人の現世における存在目的を満たすことのできるように導く、人生の完全なる規範であり、人が創造主へと戻りゆく日のための準備をさせるものです。この道に真摯に従うことは、神のご満悦と、楽園での神の元における永久なる悦楽、そして火獄における懲罰からの回避を可能とさせるのです。もう一つのボーナスとしては、そうした選択をすることにより、私たちの現世での日常生活がより幸福なものになることです。
虚偽の快楽
私はイスラームを受け入れることによって、人生の儚い性質についてのより深い見識を得ました。たとえば、イスラームの基本的目標の一つに、人類の解放があります。これが、ムスリムが自らを「アブドッラー(神のしもべ)」と呼ぶ理由です。なぜなら神への隷属は、その他すべてのものへの隷属からの解放を意味するからです。現代人は自らが解放されていると見なしていますが、現実には欲望のしもべとなり下がっています。そうした人物は、一般的に現世によって欺かれており、富・情欲・暴力・酒などの虜となっているのです。しかし何にもまして、人は即座に欲求を満たさなければならないと感じさせらる、偽の必要性に基づいた発明、資本主義制度によって支配されています。神はクルアーンにおいてこのように述べます。
“あなたは自分の思惑を、神として(思い込む)者を見たのか。あなたはかれらの守護者になるつもりなのか。それともかれらの多くは耳を傾け、または悟るとでも思っているのか。かれらは家畜のようなものに過ぎない。いや、それよりも道から迷っている。”(クルアーン25:43−44)
それゆえ、私たちは現世を楽しみたいという脆く儚い一時の情熱によって、来世での永遠なる祝福を危機に陥れてはなりません。神はクルアーンにおいて述べています。
“様々な欲望の追求は、人間の目には美しく見える。婦女、息子、莫大な金銀財宝、(血統の正しい)焼印を押した馬、家畜や田畑。これらは、現世の生活の楽しみである。だが神の御側こそは、最高の安息所である。言ってやるがいい。(ムハンマドよ)。「わたしはこれらよりも善いものを、あなたがたに告げようか。神を畏れる者たちには、主の御許に楽園があり、川が下を流れている。かれらはその中に永遠に住み、純潔な配偶を与えられ、神の御満悦を被るのである。」”(クルアーン3:14−15)
それゆえ、現世における真の競争とは、富の蓄積や名声の獲得などではなく、合法的な範囲内で現世を楽しみつつも、神を満悦させるための善行における切磋琢磨なのです3。
神への正しき道
人には多くの宗教的選択肢が提供されており、どれを選ぶかは人それぞれに委ねられています。人は、目の前に数々の商品を抱える商人の様であり、その中からどれを取り引きするかはその人の自由です。もちろん、誰しも最も利益が得られる物を選ぼうとするでしょう。しかし、商人は事前に確証を得ることが出来ず、繁栄の保証もありません。その商品は市場価値があるかも知れず、魅力的な利益を生み出すかも知れませんが、同時にすべてを損失としてしまう可能性も十分にあります。対照的に、神の唯一性を信仰する者は、神の御意に帰依し、導きの道(クルアーンと預言者ムハンマドのスンナ)に従うことが、間違いなく成功し、最終的な報奨があることを確信しています。幸いなことに、そうした成功は道の始まりから続くのです。
アブー・サイード・アル=フドリー(神のご満悦あれ)は、神の使徒がこう述べたと伝えています。「もしも、ある人物が真摯にイスラームを受け入れたのなら、神はその人物のすべての罪をお赦しになり、清算はその後の時点から始まるのです。その人物による善行の報奨は10倍から700倍にまで増加し、悪行に関しては神がお赦しにならなければ、そのままで記録されるだけなのです。」(ブハーリー)
エピローグ
真実探求の結果、私は神への信仰と行いによって、来世の行き先が決められるという結論に至りました。私たちの創造主は、私たちの状況に関わらず、審判の日に備えるための等しい機会を私たちに与えているのです。クルアーンは以下のように述べます。
“神と使徒に従いなさい。そうすればあなたがたは、慈悲を受けられるであろう。あなたがたの主の御赦しを得るため、競いなさい。天と地程の広い楽園に(入るために)。それは主を畏れる者のために、準備されている。”(クルアーン3:132−133)
もし私たちが真摯にイスラーム(神の御意への帰依)というこの世の真実を求めるのなら、神はそこへお導きになるのです。神は私たちを、人類にとっての最善の模範である預言者ムハンマドの人生とスンナへの調査に導きます。さらに、神は私たちをクルアーンの調査とその中のお言葉の熟考へと導きます。クルアーンは正に、現世での生活に浸り切っているために熟睡してしまっている者を呼び覚ますような、鋭い呼びかけであることが分かるでしょう。それは私たちを起こして周囲の観察を促し、考えさせ、神の存在とその計画、試練、清算、報奨、厳しい懲罰、そして永久なる祝福について認識させるのです。
この世界を生きるための最善の方法が、誠実なムスリムとしてあることだとは、明白なことです。イスラームが真実であるという結論に至れば、ムスリムになることを遅延すべきではありません。なぜなら、いつ来るか分からない死が訪れてしまえば、もう手遅れとなるからです4。
イスラームに改宗した数ヶ月後、私は米国人ムスリムが私に以前告げた、いかに人が生き、死ぬべきかについての、クルアーンからの二つの節を見つけ出しました。
“アブラハムは、このことをその子孫に伝え、ヤコブもまた(それにならった)。「わたしの子孫よ、神はあなたがたのために、この教えを選ばれた。だから必ずムスリム(服従、帰依者)となって死なねばならない。」”(クルアーン2:132)
“あなたがた信仰する者よ、十分な畏敬の念で神を畏れなさい。あなたがたはムスリムでなくして死んではならない。”(クルアーン3:102)
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