フセイン・アブドル=ワヒード・アミーン/アイルランド出身の元カトリック教徒(2/4):キリスト教の資料の調査
説明: フセインは聖書調査の実体験を通し、自ら出した結論について語ります。
- より フセイン・アブドル=ワヒード・アミーン
- 掲載日時 22 Jul 2013
- 編集日時 22 Jul 2013
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聖パウロと初期キリスト教会
当時のイスラームの調査において、可能な限り尽力した後、歴史的イエスと原始キリスト教会について本格的に調べてみることにしました。私は、自分が得た情報に驚愕しました。それは、カトリック学校の14年間に渡る宗教教育の中には全く含まれていなかったものでした。私は知識が増すにつれて、原始キリスト教における福音書の著者の一人で、通常「聖パウロ」や「使徒パウロ」として呼ばれる「タルソスのパウロ」によって捏造された教義を否定するようになりました。パウロは使徒などではありませんでした。事実、彼はイエスに会ったことすらなかったにも関わらず、イエスの霊を見たと主張することにより、生前のイエスを知り、彼に従った者たちによる一次史料と神学的知識を置き換えたのです。パウロによるモーゼの法の廃止は、イエスの直弟子のユダヤ人たちによって構成された、ペトロ率いるエルサレム教団によって非難されました。彼らは自分たちを、割礼や食規定などを受け入れるユダヤ教の一派として見なしており、ユダヤ教に改宗しない限りは異教徒の入団を認めませんでした。イエスの直弟子のユダヤ人たちにとり、神の子という概念は逐語的にも物理的にも、十戒の第一戒に真っ向から反する、絶対に受け入れることの出来ない冒涜的な概念だったのです。出エジプト記20:2−5からは、次のような記述を見出すことが出来ます。
“わたしは主、あなたの神…あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない…あなたはいかなる像も造ってはならない…あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。”
また、申命記6:4には、このようにあります。
“聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。”
他にも、
“主なる我らの神は、唯一の神である。”
さらに、
“我らの神、主は唯一である。”
そこからは、「神の子」や三位一体の概念をうかがい知ることは出来ず、キリスト教の一宗派にとってのみの「父」なる神、またはムスリムにとっての「アッラー」しか記述されていません(「アッラー」とは単に、アラビア語で「神」を指す単語です。一部の欧米人が間違って信じているような、その他の神々の一つではありません。アラビア語を話す中東のユダヤ教徒やキリスト教徒たちは、「アッラー」という単語を使っており、その単語はアラビア語の聖書を通して使用されているのです。)
逐語的・物理的な神の子が、ユダヤ教徒にとって冒涜的であるという理解は、後日、ユダヤ教の大学教授との個人的な会話によって確信へと変わりました。彼はユダヤ教におけるメシアの理解としてこう述べました。「その人物は明確な人間であり、神格性を持たず、神の子でもない。」
聖パウロによる布教活動は、総じて地中海北部の多神教徒・偶像崇拝者たちへと向けられたものでした。コリントで、唯一なる神への崇拝に信仰を貫いたユダヤ教徒たちに対し、彼は憤激し、彼らへの布教を断念しました。使徒言行録18:6で、パウロはユダヤ教徒たちにこう宣言しています。
“あなたたちの血は、あなたたちの頭に降りかかれ。わたしには責任がない。今後、わたしは異邦人の方へ(布教しに)行く。”
神が子を持つといった概念は、ギリシャ人のような異邦人たちにとって非常に一般的なものでした。おそらくパウロは、彼らにとって受け入れ易いようにイエスの教えを歪曲し、現地で手っ取り早く多くの改宗者を勝ち取ろうとしたのかも知れません。その証拠は、使徒言行録17:22−23において見て取ることが出来ます。パウロはアテネで、人々をギリシャの宗教から自分の新興宗教へと呼びこもうとしています。また、パウロがユダヤ教の啓典からの典拠を出すことなく、またイエスの教えに基づいたものでもない、全く新奇な独自の概念を捏造した証拠も存在しています。コリント信徒への手紙一7:25では、未婚の人々からの質問に対し、自分が「主の指示を受けていない」ことをパウロは認めています。それにも関わらず、彼は独断で持論を繰り広げ、自らを「主の憐れみにより信任を得ている者」とさえ主張しているのです。
新約聖書の有効性における疑問
カトリックの家庭、カトリックの学校という環境で育った私は、聖書を常に無条件で神の言葉と見なしていました。大人になり、聖書の執筆と編纂の歴史を学んだ結果、特に新約聖書に対しての強い疑念を抱くようになりました。それは、パウロと彼の追従者たちがその大半を著したものです。使徒言行録では16章以降、イエスの直弟子だったバルナバではなく、彼と共に伝道したパウロの記録が述べられています。バルナバは、キプロスにおけるキリスト教会の設立者として認知されており、最も初期のキリスト教徒たちによって認められていた福音書の著者でもありました。しかし彼の福音書は、新約聖書が初めて公式に編纂された際、イエスの時代から3世紀後のローマ皇帝コンスタンティヌス1世の命令によって、独断的に排除されました。バルナバは、エルサレムのイエスの弟子たちがパウロから距離を置いたとき、彼の人柄を保証しましたが、その後の口論によってパウロとは袂を分かちました(使徒言行録15:36−40)。
キリスト教世界において(西暦325年のニケア公会議以降)、正典として認められている福音4書に関しては、イエスの死からはるか後になって、信頼性のない第三者・第四者の報告を元に編纂されたものです。
福音4書の成立年:
マルコ 西暦65−75年
ルカ 西暦80−85年
マタイ 西暦85−90年
ヨハネ 西暦95−140年
典拠:カルガリー大学宗教研究学科1
それが真の「神の言葉」であれば、なぜそこには二つの異なる系図(マタイ1:1−17、ルカ3:23−38)が存在しているのでしょうか? また、イエスが逐語的にも物理的にも「神の子」なのであれば、なぜ一族の系図そのものが必要となるのでしょう? イエスが人々にパンと魚を与えた人数についても、2つの福音書で数が異なっています。実際の数に関しては相対的に些細な詳細ですが、これらの例は重要な点を照らし出しています。それは、イエスの人生と彼の教えについての福音書の信頼性の低さ、そして教義の根幹としての福音書の不相応性です。
さらに重要なのは、福音書は同時代の人々による報告の記録ではなく、西暦66−74年のユダヤ人による対ローマ戦争中あるいは敗戦後の、ユダヤ教分離・ローマ帝国迎合の風潮において著された回顧録であるという事実です。対照的に、バルナバによって著された、より初期の、より信頼性のある福音書は、公式の聖書から除外され、パウロ派の占める教会権威によって4世紀以降、隠蔽されました。
それに加え、指摘するまでもないでしょうが、イエス、12使徒、そして弟子たちは皆、ヘブライ語の聖書を持つユダヤ人たちでした。しかし、新約聖書はギリシャ語で著されています。そしてカトリック教会が公認したGood News Bibleの付録では、福音書での15の場面を含む、合計85の場面で、新約聖書の著者たちが旧約聖書のヘブライ語原典からのテキストではなく、紀元前200年にエジプトで作成された、ギリシャ語の翻訳版である Septuagint版から、イエスや初期キリスト教中心的人物からの引用、意訳、言及箇所を使用しているのです。その付録にはこう記述されています。
この版には、ヘブライ語のマソラ本文の意味とは著しく異なる場面がいくつか含まれています。
イエスと彼の追従者たちが、ユダヤ教におけるヘブライ語の原典からではなく、著しく意味の異なる外国語の翻訳から引用しているという事実は、それが信頼に値するものではないということをはっきりと浮き彫りにしています。このことは、新約聖書の正確性に更なる疑問を付加させ、教義の根幹としての新約聖書の有効性を損なうものです。
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