ハリール・イブラーヒーム・アブドゥル=マジード 米国出身の元キリスト教徒(上)
説明: サウジアラビア王国に旅した際、いかに神は彼を祝福したか。
- より ハリール・イブラーヒーム・アブドゥル=マジード
- 掲載日時 08 Jun 2015
- 編集日時 08 Jun 2015
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1998年、私は内科医として働いていた父と一緒にサウジアラビア王国での仕事に参加しました。彼はサウジアラビアで、私は米国にいました。その同じ年にサウジアラビアに出張した際、ダーラン市に滞在し、アル=コバールも訪問しました。そこでは多くのことでとても刺激を受けましたが、アザーン(礼拝の呼びかけ)を初めて耳にした時は、私の中の深い部分の何かが呼び覚まされた感じがしました。辺りの店舗は一斉に閉店したものの、店主たちは扉を施錠すらせず礼拝へ出かけていて、私は「これは一体どういうことだ?」と疑問に思ったものです。ムスリムたちは礼拝して戻ってくると、一様にリフレッシュした面持ちでした。私はそれを見て考えされられました。また、サウジでの身元引受人ムハンマド氏に多くの質問をしていると、市内の大モスクへ連れて行ってくれ、私は後方で見学することになりました。緊張はしたものの、私の目と心は大きく開かれました。それまで私の父を含む誰一人として、そこに招待された人はいませんでした。ムハンマド氏は、当時は私自身も気づいていなかった何かを私の中に見出したのかもしれません。彼からは、聖クルアーンの英訳本ももらいました。その出張で米国に持ち帰った品物の中でもクルアーンを最も大事なものとして扱いました。残念ながら、当時はそれを本棚に見栄えのする単なる所蔵本の一冊として扱い、読むことはないという大きな過ちを犯してしまったのです。しかし、過去に全く知る機会のなかった土地の鮮明な記憶は残り、私の中に刷り込まれました。
数年後、私は妻と2人の息子という自分の新たな家族を連れて戻ってきました。皆、サウジアラビアでの生活にすぐに溶け込みました。私の生活は仕事、家族そしてエクササイズを中心に回っていました。私が行っていたお祈りといえば、すべて個人的なものであり、多くとも1日1回だけでした。誤解して欲しくはないのですが、当時の私はキリスト教徒で、キリスト教徒であることに多くは求められません。ただ、大半の人よりは色々と行いました。私は従業員たちが礼拝の前後で見せる仕事への影響を観察していました。心の底ではアッラーが私へ呼びかけているのを感じていましたが、信仰的なムスリムが沢山いるリヤドの病院のモスクのすぐ横で働いていたにも関わらず、私はそれを無視していました。私は自らのキリスト教的理解を固持し、反抗的とも言えるほど人を寄せ付けませんでした。年月は過ぎ、礼拝への興味は失せ、ただ神との直接的な絆をまれに保っていただけでした。やがてサウジアラビアでの滞在は2001年に終わり、私の家族は米国のフロリダ州に帰国することになりました。
米国にいた際、私の家族は教会に通い出しましたが、私自身はもう同じ人物ではありませんでした。三位一体の概念を理解しようと必死に試みたものの、他人に対する「証人」となるほどまでには受け入れることができなくなっていました。何かがおかしかったのですが、具体的に何がおかしいのかは分かりませんでした。よって、私は神に直接語りかけました。かれご自身がすべてを創造したのですから、なぜ誰か他の人物を通してかれへ祈りを届けてもらわなければならないのでしょう? 当時、私の人生には罪が重くのしかかってきていました。それは私自身によるものと、現在の私にとっての元妻からもたらされたものです。私は人生の中で最も意気消沈する時期にありました。私が通っていた地獄への道は広く容易なもので、天国への道は狭く渡るのが困難なものです。正直言うと、私は地獄へ向かっていたのではなく、地上の地獄に生きていました。私は常に祈りによって物事のバランスを取り、ときおり嫌々教会に1時間ほど出席したものでした。この状態は、ここアル=コバールにある病院の任務を引き受けることになるまで、数年間続きました。
昨年は、アル=コバールにやって来る以前の数年間の悪い状態が一因となり、23年間続いた婚姻関係が終焉したことにより、涙と悲しみに満ちた年でした。あれ程までに落ち込むことになるとは思いもよりませんでしたが、神はすべてを持ち去り、私をそれ以上はない底辺に連れて行きました。私の周辺にいる人は、私がいつも沈痛な面持ちで、私の人生も空っぽであることを知っていましたが、日に日に状態は向上してはいました。私は日課の朝のお祈りを欠かさず行い、頻繁にバイブルを、時に一度に数冊を読み通しました。職場での個人的な生活も向上しつつあり、それは離婚手続きで米国に戻らなくてはならなかった期間でも同様でした。米国から戻って来てしばらくすると、私の上司の一人がイスラームについての情報誌をくれ、私は歓迎したものの、それを読むどころか目もくれず、それは引き出しの中に直行しました。それにも関わらず、上司と私の周辺の同僚たちは私から私自身も気づいていなかった何かを見出していました。あるとき、スタッフの一人が私にお祈り用の数珠をくれました。私はそれを毎日右ポケットの中に入れ、右手でそれを一日中何度も何度も数えていました。それを指で転がしていると、最も困難なミーティングでも冷静さを保ち続けることができませんでした。人生は一進一退の状態が続いていましたが、生活と仕事は続きました。そして去年の11月、私は離婚裁判と家族の訪問で米国に一時帰国しました。良い時も悪い時もありましたが、故郷の心地よさのようなものは全く感じられませんでしたし、教会にも足を運ぶことはありませんでした。
12月の始めにサウジに戻ってきた時、私は落ち着くことができませんでした。決断を下すのが困難だったため、それを下せずにいました。それゆえ、私は自分の心と精神に耳を傾け、リラックスすることを心がけていました。何日にも渡り、多くの人々は私が何かに心を奪われていたと思っていたらしく、私が何を考えているのか不思議がっていましたが、私は身を軽くしようと無駄なものを一層ずつ切り捨てたり、何が返ってくるかは未知数だったものの、質問やメッセージを繰り返し送ったりしていました。病院ではモスクの近くまで行ってアザーンを聞いたり人々が出入りするのを眺めていました。彼らはそこに立って周りの世界に無頓着に会話にいそしんでいましたが、彼らがそこに入る前と後では明らかに様子が異なりました。私はそこに惹き付けられましたが、同時にそれを拒否しました。こちらの道からあちらの道への溝は、渡り切るには幅が広すぎ、それをどうやればいいのか見当もつきませんでした。そして私は物思いに耽りました。
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