メレク・ヤコヴ 米国出身の元ユダヤ教徒(後半)
説明: メレクは大学で様々な哲学を学び、また左翼的な思想にも影響されますが、パレスチナ問題の支持者であり続けます。9・11事件後、彼は偏見とあらゆるプロパガンダを捨て、クルアーンを読んだ後に求め続けていた真実を発見します。
- より メレク・ヤコヴ
- 掲載日時 16 Jun 2014
- 編集日時 16 Jun 2014
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私はアメリカ先住民の文化、そして白人開拓民による土地の略奪に対する彼ら先住民の勇敢さに魅了されていました。アメリカ先住民は開拓民から250以上もの条約を反故にされ、誰も住み着かないような荒地をあてがわれました。アメリカ先住民に起きたことは、パレスチナ人に起きたことと類似します。最初のパレスチナ人は、パレスチナの地に数千年間に渡って住んでいましたが、ユダヤ教徒たちが突如侵略し、先住民だった彼らパレスチナ人たちは難民キャンプでの生活を強いられ、今なおそこで暮らしているのです。私は両親に、パレスチナ人とアメリカ先住民の違いについて聞いてみましたが、「彼らはユダヤ教徒を皆殺しにして、海に放り込みたがっているんだよ」といった答えしか返ってきませんでした。パレスチナ人への理解は、私が一度は賢者と見なしていたユダヤ教徒たちと彼らの指導者たち、そしてラビたちよりも私を上にしたのです。善良なユダヤ教徒であれば、ユダヤ教徒たちの入植のためにパレスチナ人が殺戮され、その地から追放されたということを否定することなど出来ません。このような民族浄化を彼らに正当化させるものとは一体何でしょうか。それは、多くのユダヤ教徒たちがホロコーストで殺されたことなのです! または、バイブルがそこを「我々の」土地であると述べているからでしょうか? そうしたことを正当化する書物は何であれ不道徳であり、神によるものではありません。
私は高校生のときに哲学に興味を持ち始め、過去の偉大な思想家たちの著書をたくさん読みました。私は哲学書を愛読する良き友人たちと時間を過ごし、彼らとは真実への苦難の道を一緒に歩みました。私に影響を与えた哲学者の一人は、ユダヤ教徒として生まれたスピノザです。スピノザは17世紀のタルムード神学生で、(トーラーの中からはどこにも見受けられない信仰である)来世への信仰などを始め、教えられてきたことの全てに疑問を抱きました。事実、多くの初期ユダヤ教徒たちはそうした信仰(来世への信仰)を持ってはいませんでした。スピノザはその思想により、ユダヤ教徒のコミュニティから追放されました。私は彼の持つバイブルの見解を読むことが好きでした。バイブルは数多くの矛盾と諸問題を抱えており、それを文字通り受け止めることなど出来ないのです。
その後、私自身のユダヤ教へのわずかに残された共感を完全に払拭させた、2冊の重要な本を読みました。最初の本はアブラハム・レオンによる「On the Jewish Question(ユダヤ教徒の疑問について)」です。レオンは第二次大戦時にベルギーで共産主義者の地下組織を結成し、後に拿捕されアウシュヴィッツで死んだ人物です。彼の本は「なぜユダヤ教徒たちは生き長らえてきたのか」という長年存在している疑問に答えました。彼は古代から近代に渡るユダヤ教徒の歴史的報告を挙げ、その生存が奇跡によるものではないことを証明しました。カール・マルクスの言葉を借りると、「ユダヤ教徒たちは、その歴史にも関わらず生き残ったのではなく、その歴史のおかげで生き残ったのである。」まず彼は、エルサレムの破壊前にどれ程のユダヤ教徒が自らの意思でイスラエルを去ったのかについて示します。それから、中世時代の君主や貴族たちにとって、ユダヤ教徒たちが仲介人として貴重な存在であったことを説明します。そして資本蓄積の過程を通し、いかにユダヤ教徒の地位が下降線を辿り、やがて高利貸しによって迫害されるに至ったかを示します。
私に影響を与えた2冊目の本は、リチャード・エリオット・フリードマンによる「Who Wrote the Bible?(邦題:旧約聖書を推理する―本当は誰が書いたか)」です。彼はスピノザの歴史的命題を後継します。この本では、トーラーが実際には4人の手によって書かれたことが証明されます。またフリードマンは、古代イスラエル王国とユダ王国による2つの異なるバイブルの伝承が存在していたものの、編纂者がそれら2つを組み合わせ、現在私たちの手元にあるバイブルの形になったことを説明しています。
友達と哲学について読むこと以外にも、私たちは多様な政治的運動に参加しました。私たちは共和主義から共産主義まで、あらゆることを実験しました。私はマルクス、レーニン、スターリン、毛沢東、そしてトロツキーの全著作を読みました。私はマルキシズムから、人生に欠けていたものを見出しました。私はすべてに対する答えを見つけ出したと思い込み、自分が他人よりも優れた知能を持っているかのように感じていました。私たちの「哲学団(と私が呼んでいた集まり)」は、自分たちで小さな社交クラブを作りました。私たちは色々な社会運動家によるイベントや抗議集会、ストライキなどに参加しました。
アメリカの左翼団体が取り囲んでいるカルト集団のすべてと出会った後、私たちは皆、真実を拒絶した行いをする彼らに対し、「このような人々のいる国家では革命など起きやしない」と嫌悪感を抱くようになりました。過去の手法に頼るのでは、社会的変化のための闘争に勝つことは出来ないのです。
私は革命のための闘争は諦めましたが、パレスチナ支持団体の幹事として活動するようになりました。私はこの運動に自分の情熱を注ぎ込みました。私たちの団体は非常に小さなもので、主流派から攻撃されたりもしましたが、そのことは私たちに誇りを持たせました。私は世界に対し、すべてのユダヤ教徒たちが悪者ではないことを知って欲しかったのです。私は過去に尊敬していた人々がイスラエルの抑圧政権を支持していることを恥じていました。イスラエルによって発せられる嘘は、ホロコーストの否定に他ならないのです。
私はユダヤ教を棄て、現世こそが人間の目標なのだと見なしていましたが、無神論者になることはありませんでした。しかし、私はすべての諸宗教に対して憎悪し、それらは権力者が人々の行動を監視するための道具に過ぎないと思っていました。アメリカにおいて、科学を否定したり、古い白人的価値観を支持したりするキリスト教原理主義者たちの行いを見ていれば、なぜ私があらゆる宗教に対して懐疑的であったかが分かることでしょう。ユダヤ教徒たちがパレスチナ人に対して行っていることも、そうした考え方に拍車をかけました。頭の片隅ではまだ神を信じ続けていたものの、宗教をなくした私は大きな空虚感にとらわれていました。時には宗教的な人の方が、幸福な人生を送ることが出来ているのではないかと感じていた程でした。
正直に言うと、長年に渡る強い反宗教的感情を持っていたが私が、何をきっかけにイスラームに興味を持ち始めたのか覚えていません。子供のとき、母がイスラームについて、ムハンマド(神の慈悲と祝福あれ)が私たちと同じ神を崇拝し、ユダヤ人とアラブ人がアブラハムを通して関係があることを話していたのは覚えています。それゆえ、ある意味ではイスラームのことを、神を崇拝するもう一つの宗教として認めていたと言えるかもしれません。また、(ハシディック派の)従兄弟が私に、「もしユダヤ教徒がユダヤ教徒としての人生を棄て、ムスリムのように生きたのであれば、彼は罪を犯すことはなくなるだろう」と語っていた記憶があります。過去を思い返してみて、そのような言葉を耳にしていたことに自分自身驚いています。
9・11事件が起きたとき、ニュースによる反イスラーム的プロパガンダが急増しました。私は最初から、それらすべてが嘘であることが分かっていました。なぜなら、メディアはそれを支配する人々の利権を保護するものという視点を既に持っていたからです。イスラームに対する最も好戦的な人々がキリスト教原理主義者たちだということに気付いた私は、イスラームにより興味を抱くようになりました。私は活動家としての時期に学んだことについて、神に感謝しなければなりません。社会とメディアについての知識なくしては、テレビでイスラームについて見聞きしたゴミを全て信じ切ってしまったことでしょうから。
ある日、誰かがバイブルにおける科学的事実について話すのを聞いた私は、クルアーンにもそのような科学的事実があるのかどうか知りたいと思いました。インターネットで検索すると、多くの驚異的な事実を見つけました。それからは、イスラームの様々な側面に関する記事を読むことに多くの時間を費やすようになりました。私はクルアーンが一貫して論理的であることに驚きました。クルアーンを読み進め、その倫理的教えをバイブルのそれと比較し、いかにクルアーンの方がより優れているかについて理解するようになりました。また、クルアーンはバイブルのように退屈ではなく、楽しんで読むことが出来ました。5ヶ月に渡る集中的な勉強を経て、私はシャハーダ(改宗のための信仰宣言)をし、公式にムスリムになりました。
私の過去の宗教と異なり、イスラームはそのすべてが理にかないました。礼拝やラマダーンの断食などの実践もより良く理解出来るようになりました。私は様々な戒律を従うことにおいて、イスラームはユダヤ教のようなものだろうと思い込んでいましたが、それは間違いでした。私の自分自身の世界への理解も、イスラームの教えと調和しました。それは、すべての諸宗教は同一であったものの、人によって時代と共に腐敗させられた、というものです。神は、ユダヤ教やキリスト教という名前をつくり、人類にご自分を崇拝させるようにしたのではありません。神は人類にイスラームを教えたのです。それはつまり、彼のみに服従するということです。それは至極明白かつ単純なことです。
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