バイブルによるイエス神格性の否定(6/7):ヨハネの福音書からの証拠
- より シャビール・アリー
- 掲載日時 02 May 2011
- 編集日時 02 May 2011
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第四の福音書であるヨハネの福音書は、イエスが天に召されたおよそ70年後に現在の形をとりました。この福音書の最終版には、過去の福音書三部には述べられていなかったイエスに関する記述がなされています。それは、イエスが神の言葉である、というものです。ヨハネは、イエスは彼を通して神がすべてを創造した、神の代理人であると主張します。これが、イエスが神自身であったとたびたび誤解される元になっています。しかしヨハネは、パウロがすでに述べていたように、イエスは神の最初の創造であると主張したのです。バイブルのヨハネの黙示録では、イエスに関してこう述べられています:“神による最初の創造”(ヨハネの黙示録3:14、またコリント人8:6、ころ再任1:15も参照)
神の言葉は、神とは別の人物のことである、と主張する者は、神の言葉も創造されたものであることを認めなければなりません。なぜなら、バイブルにおいて神の言葉はこう記されているからです:“主は、その道の初めに私を造られた。いにしえの御業になお、先立って。”(箴言8:22)
福音書は、イエスの非神格性を明確に説くのです。もし福音書がこの教えを説き続けていなかったのであれば、他の福音三書との矛盾を招き、イエスは神ではないことを明確に確立したパウロの手紙とも袂を分かつこととなります。ここでは、イエスが父と同等ではなかったことを見出すことが出来ます。イエスは述べました:“・・・父は私よりも偉大な方だからである。”(ヨハネ14:28)
人々はこの事実を忘れ去り、イエスは父と同等であると主張します。私たちはイエスと人々のどちらを信じればよいのでしょう?ムスリムとキリスト教徒はどちらも、神が自存者であることを信じます。これはかれの存在が何者にも委ねられないことを意味します。しかし、ヨハネは私たちに、イエスの存在は父に委ねられていると語りかけるのです。イエスはこの福音書の中で述べます:“・・・私は父によって生かされている・・・”(ヨハネ6:57)
ヨハネは私たちに、イエスは彼一人では何も出来ないということを述べます。彼はイエスに関するこのような引用をしています:“ 私は自分では何もできない。”(ヨハネ5:30)これは、他の福音書に記述されていることと一致します。たとえばマルコ伝には、イエスが奇跡を行ったのは、彼自身にはコントロールの出来ない力からによるものであると記されています。これは、ある女性が不治の病を癒されたときに明確にされています。この女性はイエスの背後から近づき、彼の外套を触れると即座に癒されました。しかしイエスは、誰が彼に触れたのか気づいていませんでした。マルコはイエスの行動を記しています:“イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「私の服に触れたのは誰か」と言われた。”(マルコ5:30)彼の弟子らは満足のいく返答を出来なかったため、マルコはこう記しています:“しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。”(マルコ5:32)ここからは、女性を癒した力はイエスのコントロール下にはなかったことが分かります。彼は力が出ていったことは知っていましたが、それがどこに行ったのかは分からなかったのです。何らかの知的な存在が、それを必要としていた女性に癒しを授けたのです。その知的な存在とは、まさに神だったのです。
使徒行伝の中では、神がイエスを通して奇跡を行ったということが明らかにされています(使徒行伝2:22)。
神は他者を通して驚くべき奇跡を行ないましたが、それによってその他者が神となるわけではありません(使徒行伝19:11参照)。それなら、なぜイエスは神とされたのでしょうか?イエスは彼の友であるラザロを死から蘇らせたときでさえ、神の赦しを乞い願ったのです。ラザロの姉であるマルタはこのことを知っており、イエスに言いました:“・・・あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、私は今でも承知しています。”(ヨハネ11:22)
マルタはイエスが神ではないことを知っており、この伝承を承認したヨハネもまた同様でした。イエスには神がおり、彼は天に召される前にこう言っています:“私の父であり、あなたがたの父である方、また、私の神であり、あなたがたの神である方のところへ私は上る。”(ヨハネ20:17)
ヨハネは、誰一人として神を見たことはないが、大勢の人々はイエスを見たことを承知していました(ヨハネ1:18、ヨハネの手紙一/4:12参照)。事実、イエス自身は群集に対して、彼らが父を見たことはなく、父の声を聞いたこともないと告げているのです(ヨハネ5:37)。もしもイエスが父だったのであれば、その言葉は虚偽であることになります。ヨハネの福音書における、唯一の神とは何者なのでしょうか。それは父のことを指しているのです。
イエスはユダヤ人たちの神は父であると宣言したときに、このことを証言しています(ヨハネ8:54)。また、父こそのみが真実の神であると確証しているのです(ヨハネ17:1−3参照)。そしてイエスは彼の敵にこう言っています:“・・・今、あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているこの私を、殺そうとしている。”(ヨハネ8:40)それゆえ、ヨハネによるとイエスは神ではなく、ヨハネの著したいかなるものも、彼が神である証拠と捉えられるべきではないのです。ヨハネに反対するのでない限りは、ですが。
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