バイブルによるイエス神格性の否定(4/7):バイブルとクルアーンに共通する最大の戒律とは
- より シャビール・アリー
- 掲載日時 25 Apr 2011
- 編集日時 25 Apr 2011
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一部の人は、イエスの神格性に関する議論は不要であると主張するでしょう。彼らにとって重要な点とは、イエスを個人的救世主として認めることです。その反面バイブルの著者は、救済されるためには神が何者かを知る必要があると述べます。これを理解しないことには、バイブルにおける第一かつ最大の戒律を破ることになるのです。この戒律はイエス(彼に平安あれ)によっても強調されています。モーゼの律法学者がイエスに質問したとき、彼はこう答えてました:“「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスは答えました。「第一の教えは、これである。『イスラエルよ、聞け、私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、あなたの神である主を愛しなさい」”(マルコ12:28−30)
イエスが申命記6:4−5に記されている、第一の戒律を引用したことは特筆に値するでしょう。イエスはこの戒律がまだ有効であるというだけでなく、すべての訓戒において最も重要であることを確証したのです。もしもイエスが自らを神であると信じていたのなら、なぜここでそのことを告げなかったのでしょうか?しかしそうする代わりに、彼は神の唯一性を強調したのです。イエスに質問した男はこのことを理解しており、ゆえに彼が次に発した言葉はイエスが神ではないことを明確にしています:“「先生、仰る通りです。『神は唯一である。ほかに神はない』と仰ったのは、本当です。」”(マルコ12:32)
もしイエスが神なのであれば、彼は男にそう告げたでしょう。その代わりにイエスは、男がイエス以外が神であると言及したことを許し、彼の英知を認めたのです:“イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。”(マルコ12:34)もしイエスは三位一体について知っていたのであれば、なぜここでそう言わなかったのでしょうか?なぜ彼は神は三つのうちの一つである、または一つが三つになる、と言わなかったのでしょうか。そうでなく、彼は神の唯一性を宣言したのです。イエスの真の追従者は、神の唯一性に関しても追従するはずです。彼らはイエスが決して言うことのなかった「三」という言葉を追加したりはしなかったのです。
果たして救済とは、この戒律に委ねられているのでしょうか?バイブルは、まさにこの点を主張しています。イエスは別の男が彼を訪ねて来た際、それを明確にしました(マルコ10:17−29参照)。男はひざまずいて、イエスにこう言ったのです:“善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、私を『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。」”(マルコ10:17−18)
そう述べることにより、イエスは彼自身と神とを明確に区別したのです。そして彼は、いかにして救済を得ればよいのかという男の質問に答えました:“もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。”(マタイ19:17、マルコ10:19)
すべての中でも最も重要な戒律は、神の唯一性を知ることである、とイエスは述べています。ヨハネによる福音書の中で、イエスはこのことをさらに強調しています。ヨハネ17:1において、イエスは天を仰ぎ神を父として祈りました。そして第三節で、彼は神にこう言いました:“永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。”(ヨハネ17:3)
これは、人が救済を得るには、イエスが祈っていた対象が唯一の神であり、イエスは神のみ使いであることを知らなければならないということを、疑いの余地もない程に証明しています。一部では父は神であり、子も神であり、聖霊も神であるとされています。しかしイエスは、父のみが唯一の真の神であると言っているのです。イエスの真の追従者はこれに関しても彼に従うはずです。イエスは真の追従者とは、彼の教えを守る者のことであるとも言っています:“私の教えにとどまるならば、あなたたちは本当に私の弟子である。”(ヨハネ8:31)彼の教えとは、人々が神が唯一であると強調する第一の戒律を特に守り、心と思いを尽くして神を愛することなのです。
私たちはイエスを愛しますが、それは彼を神として愛するということではありません。今日多くの人々は神を愛するよりもイエスを愛します。これは彼らが、神が彼らに懲罰を与えることを望む、復讐に燃える存在と見なしていることによります。そして一方イエスのことは、神の怒りから彼らを救った救世主だと見ているのです。しかし、私たちの唯一の救世主は神以外に他なりません。イザヤ43:11によると、神はこう述べています:“ただわたしのみが主である。わたしのほかに救う者はいない。”またイザヤ45:21−22で、神はこのように述べています:“わたし、すなわち主ではなかったのか。わたしの他に神はない。わたしは義なる神、救主であって、わたしの他に神はない。地の果てなる諸々の人よ、わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われる。わたしは神であって、他に神はないからだ。”
クルアーンは第一の戒律を確証し、全人類にそれを伝えます(聖クルアーン2:163参照)。また神は、かれを愛する真の信仰者たちは、他の何よりもかれを愛すると宣言しているのです(クルアーン2:165)。
バイブルによるイエス神格性の否定(5/7):イエスの非神格性を承知していたパウロ
- より シャビール・アリー
- 掲載日時 25 Apr 2011
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テモテへ宛てた手紙のなかで、パウロは述べます:“神とキリスト・イエスと選ばれた天使たちとの前で、厳かに命じる。偏見を持たずにこれらの指示に従いなさい。”(テモテへの手紙一/5:21)
ここからは、神という称号はキリスト・イエスにはあてられていないことが明確になっています。次章で彼は、再び神とイエスを区別してこう述べています:“万物に命をお与えになる神の御前で、そして、ポンティオ・ピラトの面前で立派な宣言によって証しをなさったキリスト・イエスの御前で、あなたに命じます。”(テモテへの手紙一/6:13)
そしてパウロはイエスの再来について述べています:“わたしたちの主イエス・キリストが再び来られるときまで、おちどなく、非難されないように、この掟を守りなさい。神は、定められた時にキリストを現してくださいます。”(テモテへの手紙一/6:14−15)
ここでも、故意に神という称号がイエスから剥奪されています。ちなみに、多くの人はイエスが“主”と呼ばれると、それが“神”を意味するのだと勘違いしていますが、バイブルにおいてこの称号は主人または教師を意味しており、人間への呼称として使用されているのです(ペトロの手紙一/3:6参照)。
しかしより重要な点は、イエスが神ではないことを明確にした、次の章句におけるパウロの言葉に注目することでしょう:“神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。この神に誉れと永遠の支配がありますように。”(テモテへの手紙一/6:15−16)
パウロは、神のみが唯一の不死の存在であると述べたのです。不死とはもちろん、決して死なないということです。どのような辞書を引いてもそのように書いてあるはずです。それを踏まえると、イエスが死んだと信じる人物は、イエスが神であることを信じることが出来ないはずです。そういった信仰は、ここでのパウロの主張と矛盾するからです。さらに、神が死んだなどという主張は、神への冒涜に他なりません。神が死んだのであれば、世界を支配するのは誰になるのでしょう?パウロは神が不死であると信じていたのです。
またパウロは同じ章句の中で、神は近寄り難い光の中に住み、誰一人として見たこともなく、また見ることも出来ないものと述べています。パウロは何千人もの人々がイエスを見たことを知っていました。それにも関わらず、パウロは誰一人神を見たことがないと述べたのです。なぜなら、パウロはイエスが神ではないことを知っていたからです。これが、パウロがイエスは神ではなく、キリストであると教えた理由なのです(使徒行伝9:22と18:5参照)。
パウロはアテネにいたとき、神についてこう述べています:“この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造られた神殿などにはお住みにならない。”(使徒行伝17:24)そして彼はイエスをこのように見なしていました:“かれ(神)のお選びになった方。”(使徒行伝17:31)
明らかに、パウロにとってイエスは神ではなかったのです。もし彼が自分の著書が彼の信条とは正反対のことの証明として後に使用されたということを知れば、驚いたでしょう。さらに、パウロは法廷でこのように証言しているのです:“・・・私は父祖の崇拝していた神に仕えることを認めます・・・”(使徒行伝24:14)
また、使徒行伝によると、彼はイエスが神のしもべであると述べています:“アブラハム、イサク、ヤコブの神であり、わたしたちの父祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました。”(使徒行伝3:13)
パウロにとって、神とは父のみを指していたのです。パウロは述べています:“すべてのものの父なる神は唯一である。”(エフェソの使徒への手紙4:6)パウロは再度言います:“私たちには、父なる唯一の神のみがいますのである・・・また、唯一の主イエス・キリストのみがいますのである。”(コリント人への手紙一/8:6)
パウロによるフィリピ人への手紙(フィリピの信徒への手紙2:6−11)は、イエスの神格性を証明するものとしてたびたび引用されます。しかし、その章句自体がイエスの神格性を否定しているのです。その章句は、すべての膝は神にかがみ、すべての舌は神のみにこそ正義と力があることを証言しなければならないと神が言った、イザヤ45:22−24に合意していなければならないはずです。パウロはローマ人14:11においてそれを引用したため、その章句を承知の上でこう宣言しています:“私は御父の前にひざまずいて祈ります。”(エフェソの信徒への手紙3:14)
ヘブライ人への手紙(1:6)では、神の天使たちは子を崇拝しなければならないと記されています。しかしこの章句は七十人訳聖書版の申命記32:43に基づいているのです。この言い回しは現在のキリスト教徒たちによって使われている旧約聖書に見出すことは出来ず、七十人訳聖書も彼らによって既に有効ではないと見なされています。しかしながら、七十人訳聖書版自体、子を崇拝せよとは記述されていないのです。そこには、神の天使たちは神を崇拝せよ、と記されているのです。バイブルは神のみを崇拝せよと主張しています: “主はかつて彼ら(古代イスラエル人)と契約を結び、彼らに命じて言われた:「あなたがたは他の神々を敬ってはならない。また彼らを拝み、彼らに仕え、彼らに犠牲をささげてはならない。ただ大きな力と伸べた腕とをもって、あなたがたをエジプトの地から導き上った主をのみ敬い、これを拝み、これに犠牲をささげなければならない。またあなたがたのために書きしるされた定めと、おきてと、律法と、戒めとを、慎んで常に守らなければならない。他の神々を敬ってはならない。わたしがあなたがたと結んだ契約を忘れてはならない。また他の神々を敬ってはならない。ただあなたがたの神、主を敬わなければならない。主はあなたがたをそのすべての敵の手から救い出されるであろう」”(列王記下17:35−39)
イエス(彼に平安あれ)はこれを信じ、ルカ4:8においても強調していました。そしてイエスも地面に頭をつけ、神を崇拝していたのです(マタイ26:39参照)。パウロはイエスが神を崇拝していたことを承知していました(ヘブライ人5:7参照)。パウロは、イエスが永遠に神に従順であることを説いたのです(コリント人一/15:28参照)。
バイブルによるイエス神格性の否定(6/7):ヨハネの福音書からの証拠
- より シャビール・アリー
- 掲載日時 02 May 2011
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第四の福音書であるヨハネの福音書は、イエスが天に召されたおよそ70年後に現在の形をとりました。この福音書の最終版には、過去の福音書三部には述べられていなかったイエスに関する記述がなされています。それは、イエスが神の言葉である、というものです。ヨハネは、イエスは彼を通して神がすべてを創造した、神の代理人であると主張します。これが、イエスが神自身であったとたびたび誤解される元になっています。しかしヨハネは、パウロがすでに述べていたように、イエスは神の最初の創造であると主張したのです。バイブルのヨハネの黙示録では、イエスに関してこう述べられています:“神による最初の創造”(ヨハネの黙示録3:14、またコリント人8:6、ころ再任1:15も参照)
神の言葉は、神とは別の人物のことである、と主張する者は、神の言葉も創造されたものであることを認めなければなりません。なぜなら、バイブルにおいて神の言葉はこう記されているからです:“主は、その道の初めに私を造られた。いにしえの御業になお、先立って。”(箴言8:22)
福音書は、イエスの非神格性を明確に説くのです。もし福音書がこの教えを説き続けていなかったのであれば、他の福音三書との矛盾を招き、イエスは神ではないことを明確に確立したパウロの手紙とも袂を分かつこととなります。ここでは、イエスが父と同等ではなかったことを見出すことが出来ます。イエスは述べました:“・・・父は私よりも偉大な方だからである。”(ヨハネ14:28)
人々はこの事実を忘れ去り、イエスは父と同等であると主張します。私たちはイエスと人々のどちらを信じればよいのでしょう?ムスリムとキリスト教徒はどちらも、神が自存者であることを信じます。これはかれの存在が何者にも委ねられないことを意味します。しかし、ヨハネは私たちに、イエスの存在は父に委ねられていると語りかけるのです。イエスはこの福音書の中で述べます:“・・・私は父によって生かされている・・・”(ヨハネ6:57)
ヨハネは私たちに、イエスは彼一人では何も出来ないということを述べます。彼はイエスに関するこのような引用をしています:“ 私は自分では何もできない。”(ヨハネ5:30)これは、他の福音書に記述されていることと一致します。たとえばマルコ伝には、イエスが奇跡を行ったのは、彼自身にはコントロールの出来ない力からによるものであると記されています。これは、ある女性が不治の病を癒されたときに明確にされています。この女性はイエスの背後から近づき、彼の外套を触れると即座に癒されました。しかしイエスは、誰が彼に触れたのか気づいていませんでした。マルコはイエスの行動を記しています:“イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「私の服に触れたのは誰か」と言われた。”(マルコ5:30)彼の弟子らは満足のいく返答を出来なかったため、マルコはこう記しています:“しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。”(マルコ5:32)ここからは、女性を癒した力はイエスのコントロール下にはなかったことが分かります。彼は力が出ていったことは知っていましたが、それがどこに行ったのかは分からなかったのです。何らかの知的な存在が、それを必要としていた女性に癒しを授けたのです。その知的な存在とは、まさに神だったのです。
使徒行伝の中では、神がイエスを通して奇跡を行ったということが明らかにされています(使徒行伝2:22)。
神は他者を通して驚くべき奇跡を行ないましたが、それによってその他者が神となるわけではありません(使徒行伝19:11参照)。それなら、なぜイエスは神とされたのでしょうか?イエスは彼の友であるラザロを死から蘇らせたときでさえ、神の赦しを乞い願ったのです。ラザロの姉であるマルタはこのことを知っており、イエスに言いました:“・・・あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、私は今でも承知しています。”(ヨハネ11:22)
マルタはイエスが神ではないことを知っており、この伝承を承認したヨハネもまた同様でした。イエスには神がおり、彼は天に召される前にこう言っています:“私の父であり、あなたがたの父である方、また、私の神であり、あなたがたの神である方のところへ私は上る。”(ヨハネ20:17)
ヨハネは、誰一人として神を見たことはないが、大勢の人々はイエスを見たことを承知していました(ヨハネ1:18、ヨハネの手紙一/4:12参照)。事実、イエス自身は群集に対して、彼らが父を見たことはなく、父の声を聞いたこともないと告げているのです(ヨハネ5:37)。もしもイエスが父だったのであれば、その言葉は虚偽であることになります。ヨハネの福音書における、唯一の神とは何者なのでしょうか。それは父のことを指しているのです。
イエスはユダヤ人たちの神は父であると宣言したときに、このことを証言しています(ヨハネ8:54)。また、父こそのみが真実の神であると確証しているのです(ヨハネ17:1−3参照)。そしてイエスは彼の敵にこう言っています:“・・・今、あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているこの私を、殺そうとしている。”(ヨハネ8:40)それゆえ、ヨハネによるとイエスは神ではなく、ヨハネの著したいかなるものも、彼が神である証拠と捉えられるべきではないのです。ヨハネに反対するのでない限りは、ですが。
バイブルによるイエス神格性の否定(7/7):神とイエスは二つの異なる存在である
説明: 多くの人々は、バイブルの特定の章句を引用し、イエスの神格性を証明しようと試みます。しかしながらこれらの章句の全ては、文脈に従った理解をすると正反対の事実を示すのです。
- より シャビール・アリー
- 掲載日時 02 May 2011
- 編集日時 02 May 2011
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たとえばマタイ9:2において、イエスはある人物にこう告げています:“子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される。”このことから、一部では神にして罪を赦すことは出来ないため、イエスが神であったはずだと主張します。しかしそこからの数節を読み進めるのであれば、人々の反応はこうだったのです:“・・・人間にこれほどの権威をゆだねられた神を賛美した。”(マタイ9:8)ここからも、人々はイエスが神からの権威を授けられた唯一の人物であったことを知っており、マタイもそれに同意していたことが明らかになっています。
イエス自身も、自らの権威によっては発言をしないと強調しており(ヨハネ14:10)、自らは全くの権威を持たないが、父によって教えられたことのみを発言すると述べています(ヨハネ8:28)。ここでイエスが行ったことは、以下の通りです。イエスは男に対し、神が彼をお赦しになったことを、神から授かった知識として伝えたのです。
留意すべきこととして、イエスは“私はあなたの罪を赦す”とは言わずに、“あなたの罪は赦される”と言ったことであり、それは神がその男(とユダヤ人の聴衆者たち)を赦したことを意味しているのです。イエスに罪を赦す力はなく、その逸話において彼は自らを“人の子”(マタイ9:6)と呼んでいるのです。
またヨハネ10:30において、“私と父とはひとつである。”とイエスが言ったため、それは度々イエスの神格性の証明であるとされています。しかしそこから6節先まで読み進めると、イエスが彼の敵たちに、自らの神格性を主張していたというのは間違いであるとイエスが説明する場面を見出すことが出来ます。ここで明らかにイエスが意味しているのは、彼と父が目的においてひとつであるといういうことです。またイエスは、彼と父がひとつであるように、弟子たちもひとつであるよう祈っています。彼は弟子たち全員がひとりの個体となることを祈っていた訳ではないのです(ヨハネ17:11、22参照)。そしてルカが弟子たちはひとつであると報告したのは、彼らがひとりの人間になったことを意味するのではなく、彼らはそれぞれ独立した人間ですが、目的において共通していたという意味なのです(使徒行伝4:32参照)。イエスが「ふたりによる証言」と述べていることから、実存性においてイエスと父はふたりなのです(ヨハネ8:14−18)。ひとりは他方よりも偉大であるということからも、彼らはふたりでなければなりません(ヨハネ14:28)。イエスが十字架からの救出を祈ったとき、彼は言いました:“父よ、御心なら、この杯を私から取りのけてください。しかし、私の願いではなく、御心のままに行ってください。”(ルカ22:42)
イエスは父の御心に従ってはいましたが、ここからもそこにはふたりの個別の意思があったことが分かります。ふたりの意思とはふたりの存在を意味します。
さらに、イエスはこのように言ったことが報告されています:“わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか”(マタイ27:46)どちらか片方がもう片方を見捨てたのであれば、そこにはふたりの別々の存在がなければならないはずです。
また、イエスはこのようにも言っています:“父よ、私の霊を御手にゆだねます。”(ルカ23:46)片方の霊がもう片方の手に渡るということは、それらは別々の存在でなければなりません。
これらのすべての事例において明確に、イエスは父に従属するものとして描かれています。イエスが膝まずいて祈ったとき、彼は自分に祈っていたのではありません(ルカ22:41参照)。彼は神に祈っていたのです。
新約聖書を通して、父のみが神と呼ばれています。事実、“父”と“神”の呼称はひとりの存在にあてがわれており、それは三つでもなく、イエスでも決してないのです。このことは、マタイが彼の福音書の中で、“父”という呼称を最低でも二ヶ所において“神”という呼称に代替した事実からも明らかです(マタイ10:29採るか12:6、そしてマタイ12:50とマルコ3:35を比較のこと)。もしマタイがその行為において正しいのであれば、父のみが神であることは明らかです。
イエスは父だったのでしょうか?いえ、違います。なぜならイエスはこう言っているのですから:“また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。”(マタイ23:9)イエスがこう言ったのは、地上に立っていたときであるゆえ、イエスは父ではないのです。
クルアーンは、イエスと彼の真の弟子たちが説き続けた正しい信仰に人々を呼び戻します。その教えとは、神が唯一であるとする第一の律法の遵守を強調するものです。クルアーンにおいて、神はムスリムがバイブル読者を真の信仰に呼び戻すよう命じています。神はクルアーンでこう述べます:
言え:“啓典の民(キリスト教徒/ユダヤ教徒)よ、私たちとあなたがたとの間の共通のことば(の下)に来なさい。私たちは神にだけ仕え、何ものをもかれに列しない。また私たちは神を差し置いて、他のものを主として崇ない。”(クルアーン3:64)
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