なぜヒジャーブをするのか?
- より スルターナ・ユースフアリ
- 掲載日時 12 Jul 2010
- 編集日時 12 Jul 2010
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私はおそらく“反抗者”というステレオタイプには合わないでしょう。私は目に見えるタトゥやピアスをつけてはいません。皮のジャケットが好きなわけでもありません。事実大抵の人は最初に私を見る時、“抑圧された女性”という印象でも受けるのでしょう。そして多少勇気のある人は、私にこのように私の服装のことについて尋ねます:“両親がそんな風にさせるの?”“不公平だと思わない?”
少し前、モントリオールで私のような服装をしている数人の女の子たちが学校から閉め出されました。小さな布切れがこれほどの論争を生み出すとはおかしなことのように思われます。多分彼らは、恐れているのは私がその下に銃でも潜ませているのではないかと怖がっているのでしょう!もちろん問題はただの布きれ以上のものです。私はヒジャーブをすることを選んだ世界中の他の何万人ものムスリム女性達と同じムスリマです。そしてヒジャーブの概念は、一般的意見とは対照的に実際は女性の権利の内の最も基本的なものなのです。
自分を覆う時、私は事実上、自分の容貌によって人から判断されることを拒んでいるのです。つまり私は自分の魅力や欠点によって分類されたりしないのです。
このことを今日の社会の生活において比べてみましょう;私たちは常に洋服や装飾品、髪型や化粧などによって他人を計っています。このような世界にどんな深さがあるでしょう?ええ、私には肉体があり、そこにはある種の身体的特徴があります。しかしそれは知性や強い魂の器に過ぎません。それは色目を使うために注目されるものでも、ビールから車まで全てを売るための広告に使われるものでもありません。
私たちが住むこのうわべだけの世界のせいで、外見が大変強調され個性はほとんど重用視されてはいません。今日の女性が自由であるというのは本当に謎です!道を歩くたび、常に全身を“チェック”しないといけないような自由をどのような自由だと言うのでしょうか?
私はヒジャーブをする時、このような全てのことから解放される気がします。誰も私のことを見たり、スカートの丈によって私の性格を推測したりされないので安心出来ます。そしてそれは、私と私を乱用しようとする人との間の障壁となるのです。私はまず一個の人間であり、どの男性とも平等で、自分の性別ゆえに弱いのだということもありません。
今の時代の一番悲しい真実の一つは、美への問いかけと女性の自己像です。人気のあるティーン向けの雑誌を読むと、どのような見た目がもてはやされているかが簡単に分かります。そして、もしあなたがそのような見た目でなければ、そのように変えなければならないのでしょう?結局、太り過ぎのまま美しくなることは無理なのです。
広告を見て下さい。女性が商品販売に利用されていませんか?彼女は何歳位ですか?魅力的でしょうか?どんなものを着ていますか?大抵の場合その女性は20代前半以下で、背が高く、細身で、平均よりも魅力的で露出の高い服を着ているでしょう。どうして私たちはこのように自分たちを操られることを許しているのでしょう?
90年代の女性は信じようが信じまいが、型にはまらされていました。彼女は自分の名誉を傷付けつけ、自分を売るようなことを強要されました。それゆえ13歳の少女は指をのどに入れ、思春期の肥満の子供たちは首をつるのです。
人々が私に抑圧されているように感じるかと尋ねる時、私は正直にいいえと言えます。私は自分の自由意思からこの結論を出したのです。他人の私への見方を自分自身が操っているという事実を気に入っています。私は誰にも何も見せず、女性を利用するファッション業界やその他の業界の流行の拘束からも解放されていることを楽しんでいます。
私の体は私自身の問題です。誰も私が美しいか、またはどのような格好をしなければならないかなどとは言えないのです。私は自分にはそんなことよりも大事なことがあるのを知っています。また私は、人から私の性が抑圧されているかのように感じるかと聞かれたら、快く“いいえ”と答えられます。私は自分の性をコントロール出来るのです。私は体重で苦しむこともなく、どの口紅が一番自分の肌色に合うかを探しまわることで苦しまなくてもよいことに感謝しています。私は私に優先権があることにおいて選択肢を選んだのであり、他人のためにそれを譲ったりは出来ないのです。だから次に私を見る時は、同情の目で見ないで下さい。私は脅迫されているわけでも、荒野のアラビア砂漠からきた男性崇拝の女捕虜でもないのです!私は解放されているのです。
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