どのようにして私はヴェールを愛するようになったか
説明: タリバンに拿捕され、アフガニスタンで牢獄生活を送ったイギリス人女性記者が、ヴェールについて、そしてイスラームにおける女性についての現状を、彼女の視点から伝えます。
- より イヴォン・リドリー(ワシントン・ポスト紙)
- 掲載日時 05 Jul 2010
- 編集日時 05 Jul 2010
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私はタリバンに捕まるまで、ヴェールを被った女性というのは物静かで、抑圧されている存在だと印象を常々持っていました。2001年9月、米国同時テロから僅か15日後、私は頭から足元までをすっぽり覆う青いブルカの身なりでアフガニスタンに潜入し、圧制政権の実体を新聞記事で暴こうとしたのです。しかし私は発見されてしまい、逮捕され10日間の抑留を受けました。私は刑務官へ唾を吐き、罵りました。彼らは私を“悪い”女性と呼びましたが、私がクルアーンを読み、イスラームを勉強するという約束をすると解放してくれました(正直言うと私の解放をより喜んだのは彼らなのか私自身なのか、どちらかよく分かりませんでした)。ロンドンに帰り、私はイスラームを勉強するという約束を果たしました。私は自分の発見にとても驚きました。私はクルアーンとは、どのように自分の妻を虐待すべきか、または娘を抑圧すべきかが記されたものだと予想していましたが、逆に女性の解放を促す章句を発見したのです。抑留された2年半後に私はイスラームへ改宗し、そのことによって友人や家族から驚き、失望、励ましなどの様々な反応を引き起こしました。
今、ここ英国で、元外務大臣ジャック・ストロー1がムスリムのニカーブ -両目だけをあらわにする顔のヴェール- について、それが統合への障壁であり、歓迎することは出来ないと述べ、トニー・ブレア首相、作家サルマーン・ルシュディー、さらにはイタリアのロマーノ・プロディ首相までもが彼を擁護しようと躍起になっているのを目にしてうんざりし、狼狽しています。私はヴェールの両側に立ったことのある者として、イスラーム世界における女性の抑圧を嘆く西洋の男性政治家やジャーナリストの殆どは、彼らが一体何のことを話しているのかさっぱり分かっていないと断言出来ます。彼らはヴェール、若年結婚、女性割礼、名誉殺人、強制結婚に関して延々と語り、それら全てをイスラームの責任として不正に押し付けようとしているのです。彼らの傲慢さはその無知さを上回っています。これらの文化的、伝統的問題は、一切イスラームとは無関係なのです。クルアーンを慎重に読み解けば、西洋のフェミニストたちが1970年代に求めていたほぼ全てのことは、既にムスリム女性たちへ1,400年以上も前に提供されていたことが分かります。イスラームにおける女性は、精神性、知性、価値に関しては男性と同等であると見なされており、出産や育児といった祝福を授けられているため、重宝される存在なのです。イスラームは女性に対して多くを提供しているにも関わらず、なぜ西洋人男性はムスリム女性の服装に対する執着心を示すのでしょうか?英国政府の大臣であるゴードン・ブラウンやジョン・リードでさえ、ニカーブを軽蔑する発言をしています。彼ら自身、スカートを履く慣習を有するスコットランド系であるというのに。
私がイスラームに改宗してスカーフをまとった時、その反響は非常に大きなものでした。私はただ、頭と髪の毛を覆っただけなのです。しかしその瞬間、私は二等市民に格下げされてしまいました。イスラモフォビア(イスラーム恐怖症)の偏屈者が何かを言ってくるであろうことは予期していましたが、赤の他人からこんなにも堂々とした敵意を示されることは想定外でした。ある日の夜、“空車”のランプが点灯するタクシーが私のすぐ側を通り過ぎたり*、また別のタクシーは白人の客を私の目の前で降ろした後、私が窓越しに話しかけようとすると、ジロリと私を見てサッと走り去ったりしました。またあるドライバーは、“後部座席に爆弾を置いて行くんじゃないぞ”などと言い放ち、更に“おい、ビンラディンはどこなんだ?”と聞いて来たりもしました。ムスリム女性が謙虚な服装をするのは宗教的義務ですが、私が知る大多数のムスリム女性は顔を隠さないヒジャーブの着用を好み、ニカーブを選択するのはごく少数派です。それは個人的な意思表示なのです。私の服装は、私がムスリムであり、私が敬意をもって対応されることに期待していることを示します。それはウォール街の銀行家の重役にとって、ビジネススーツの質が真剣さの表れであるのと同じようなものです。そして特に私のような信仰に入った改宗者にとっては、女性に対して不適当ないやらしい目つきで迫って来る男性たちの態度は堪え難いものなのです。
私は長きにわたり西洋的なフェミニストでしたが、ムスリムのフェミニストたちは世俗主義の反対勢力よりも更に過激であることを知るに至りました。私たちはけばけばしい美人コンテスト出場者たちが大嫌いです。2003年のミス・アース大会では水着姿のミス・アフガニスタン、ヴィダ・サマザイの登場に際し、それを審判員たちが女性の解放における大きな一歩であると大歓迎したときには笑いをこらえることが出来ませんでした。彼らはサマザイに対して“女性の地位向上における勝利の代表者”として、特別に表彰した程でした。一部の若いムスリム・フェミニストたちはアルコールのがぶ飲み、性的淫蕩、ドラッグの使用などに対する西洋的価値観の否定として、ヒジャーブとニカーブを政治的シンボルと見なしています。女性のスカートがいかに短いかや、豊胸手術による胸の大きさによって判断されること、あるいは性格と知性に基づいた判断のどちらがより解放的でしょうか?イスラームでは信心深さが最高の特性であるとされます。美、富、力、権威、性別などではありません。
イタリアのプロディ首相が先週のディベートで、ニカーブの着用は社会関係を“より困難なものにする”ため、そのようなものを着用しないことは“一般的常識”だと宣言した時、私は叫ぶべきか笑うべきか分かりませんでした。そんなことはナンセンスだからです。もしそうなのであれば、なぜ携帯電話、固定電話、Eメール、テキスト・メッセージやファクスが日常的に使用されているのでしょうか?提示者の顔が見えないからと言って、ラジオの電源を切る人がどこにいるでしょうか?イスラームの元で、私は敬意を示されます。それは未婚か既婚かを問わず、私に教育を受ける権利、知識を求める義務があることを教えます。イスラームの枠組みにおいては、女性が男性のために洗濯や掃除、料理をしなければならないとはどこにもありません。ムスリム男性がその妻に暴力を振るっても良いという風に一般的に信じられていることに関しても、それは単に事実に反するものです。イスラームを批判する人々は通常、どこからかクルアーンの章句やハディースを持ち出して来て、その脈絡を無視して印用します。もしも男性が指先一本でも妻に対して上げるのであれば、彼女の身体にその跡を残してはならないのです。それはクルアーンにしてみれば、“馬鹿者、妻に暴力を振るうでない”と言っているのです。女性への処遇と地位を再考しなければならないのは、何もムスリム男性に限ったことではありません。先の全国家庭内暴力調査ホットラインによれば、12ヶ月の期間中、400万人ものアメリカ人女性がその夫か恋人による深刻な暴行を受けていることが判明しています。毎日、3人以上の女性が夫か恋人によって殺害されています。これは9/11以来、5,500人近くに上るのです。
暴力的な男性は特定の宗教や文化的カテゴリーから来るものではありません。調査ホットラインによれば、世界中の女性の内、3人に1人は人生の中で暴力、強姦、または虐待を受けているのです。これは宗教、富、階級、人種、文化に関係なく起きる、世界的な問題なのです。しかし西洋では、それに対する抗議があるにも関わらず、男性は未だに自分たちが女性よりも優れていると信じています。彼らは依然として、そこが郵便仕分け室または会議室であろうと、同じ仕事量にも関わらず女性よりも高額を得ます。そして女性たちは依然として、外観によって直接的な影響と力を与える、性的な商品として捉えられています。また、敢えてイスラームが女性を抑圧していると執拗に主張する人々に対しては、パット・ロバートソン師による、力ある女性に関しての視点を念頭に入れて頂きたいと思います:彼によると、フェミニズムとは“夫から去り、子供たちを殺し、魔術を実践し、資本主義を破壊し、同性愛者になるよう女性を勧める、社会主義的で、反家族的な政治活動なのである。”では今、誰が文明的で誰がそうでないかお答え下さい。
(イヴォン・リドリーはロンドンのIslam Channel TV編集者であり、“In the Hands of the Taliban: Her Extraordinary Story.”『タリバンに捕われて:彼女の驚くべき物語』の共著者です。)
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