ブランドン・トロポヴ 元キリスト教徒の米国人(後編)

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説明: 聖書における最も真正なくだりであるとされる「Q資料」の研究が、彼をイスラームへと導きます。後編:クルアーンとの比較研究。

  • より ブランドン・トロポヴ
  • 掲載日時 12 Aug 2013
  • 編集日時 12 Aug 2013
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福音書のくだり

福音書のなかの最も古い部分が、Qとして知られる、極めて初期の口伝に反映されていることを示す研究成果、またイエス(神の慈悲と祝福あれ)の残した言葉のそれぞれが、それを取り囲む伝承の関連資料としてではなく、その功徳が検証されなければならないという研究に対し、私は特に興味をそそられました。

なぜなら、その伝承の関連資料は後年になって付け加えられたものだからです。

目撃者による証言?

事実、この分野について調べれば調べる程、ヨハネの福音書に関する聖職者との以前の会話が思い出されました。彼が私に何かを言うのをためらった(あるいは出来なかった)のは、ヨハネの福音書の著者が虚偽を記していたことだったのだと気付いたのです。これは目撃者による証言であると主張しているものの、実際にはそうではないのです。

私は微妙な立場に立たされました。私は献身的かつ敬虔な教会の同胞たちとの親睦をとても楽しんでいました。宗教的なコミュニティに属することは私にとっては重要だったのです。

三位一体論との格闘

この件について調べるにつれ、福音書において最も真正であるかに見えた三位一体の概念に対し、納得することが不可能となりました。私はいくつかの非常に困難な問題に直面しました。

福音書のどこで、イエスは「三位一体」と言ったのでしょうか?

三位一体論の言うように、もしイエスが神なのであれば、どうして彼は神を崇拝したのでしょうか?

そして、もしイエスが神なのであれば、なぜ彼は以下のようなことを言ったのでしょうか?

“なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。”(マルコ10:18)

彼はこれを言ったとき、自分が神であることを忘れたのでしょうか?

(ちなみに、ある女性とこのくだりについての議論をしましたが、彼女はこれは福音書からではないと断言し、私が実際にその章と節の番号を指し示して彼女自身に確認させるまで、そのことを信じようとしませんでした。)

聖クルアーン

2002年の11月に、私はクルアーンの翻訳本を読み始めました。

私はそれ以前に、クルアーンの英語訳全文を読んだことがありませんでした。ただ、非ムスリムによるクルアーンの概要を読んだだけでした(そしてそれは非常に誤解を助長させるものでした)。

この本が私に与えたとてつもない影響を言葉で的確に表すことは出来ません。11歳のときに私を虜にした福音書の魅力が、新たなそして絶対的な形でそこには存在していました。この本は、究極的な関心事についての事柄を、まるでイエスがそう語っていたかのように私に語りかけました。

真正の導き

クルアーンは、私が長年に渡って福音書から探し求めていた疑問の回答を、権威ある否定しがたい形によってもたらしました。

“啓典と英知と預言者としての天分を神からいただいた一人の人間でありながら、後になって人びとに向い、「あなたがたは神の外に、わたしを崇拝しなさい。」とは言えない。むしろ「あなたがたは、主の忠実なしもベとなりなさい。あなたがたは啓典を教えられているのである。それを誠実に学びなさい。」と(言うべきである)。かれは天使や預言者たちを主としなさい、と命じることも出来ない。あなたがたがムスリムになった後、かれがどうして、不信心をあなたがたに命じることが出来ようか。”(クルアーン3:79−80)

私がクルアーンの教えに惹かれたのは、それがイエスの教えをとても力強く確証することによって、真正であることが直感的に理解出来たからです。福音書は人の手によって改変されており、クルアーンではその失われた部分が手付かずで残っていると感じました。

驚くべき共通点

以下では、私が心を神の崇拝へと動かしたものの中から、いくつかの例を挙げてみましょう。福音書の節のそれぞれは、現存するメシアの教えに相当すると学者が見なす、Qとして知られる復元資料からのものです。これらがクルアーンの教えといかに類似しているかに注目してください。

クルアーンにおけるタウヒード(一神論)に同意するQ

Q資料において、イエスははっきりと一神論を語ります。

“イエスは(悪魔に)お答えになった。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。”(ルカ4:8)

比較してみてください。

“アダムの子孫よ、悪魔に仕えてはならないと、われはあなたがたに命令しなかったか。かれはあなたがたの公然の敵である。あなたがたはわれに仕えなさい。それこそ正しい道である。”(クルアーン36:60−61)

クルアーンにおけるアカバ(険しい道)に同意するQ

Q資料は、正しい道とは険しいものであり、不信仰者はそれに従わないであろうことを述べます。

“狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。”(マタイ7:13−14)

比較してみてください。

“現世の生活は、不信心な者たちにとり魅惑的である。そしてかれらは信仰する者たちを嘲り笑う。だが(主に対して自分の)義務を果たす者は、復活の日にかれらの上位に立つであろう。”(クルアーン2:212)

“険しい道が何であるかを、あなたに理解させるものは何か。(それは)奴隷を解放し、または飢餓の日には食物を出して、近い縁者の孤児を、または酷く哀れな貧者を(養うこと)。それから信仰する者になって忍耐のために励ましあい、互いに親切、温情を尽しあう(ことである)。”(クルアーン90:12−17)

クルアーンにおけるタクワ(神への畏怖心)に同意するQ

Q資料は、神の審判のみを畏れるよう私たちに警告します。

“友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。”(ルカ12:4−5)

比較してみてください。

“天と地とにある凡てのものは、かれに属し、また服従は絶えずかれに対してだけある。それであなたがたは、神以外に(何を)畏れるのか。”(クルアーン16:52)

クルアーンにおけるドゥンヤ(現世)の罠に同意するQ

Q資料では、イエスが人類に対し、現世での成功と満足が、人生の目的であってはならないことを警告します。

“しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である。あなたがたはもう慰めを受けている。今満腹している人々、あなたがたは、不幸である。あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である。あなたがたは悲しみ泣くようになる。”(ルカ6:24−25)

比較してみてください。

“あなたがたは(財産や息子などの)多いことを張り合って、現を抜かす。墓に追い立てられるまでも。いや、やがて(死後)あなたがたは(その真実を)知ろう。もう一度言おうか、いや、やがてあなたがたは知ろう。いや、あなたがたは(今に)はっきり知るとよいのである。あなたがたは必ず獄火を見よう。その時あなたがたはそれを明確に目で見ることであろう。その日あなたがたは、(現を抜かしていた)享楽に就いて、必ず問われるであろう。”(クルアーン102:1−8)

天国が確約されたものではないことを警告するQ

また、すべての人を謙虚にし、精神的事柄における傲慢さを取り除き、一神教徒の同胞への攻撃を止めさせるであろう、メシアによる以下の言葉について考えてみてください。

“言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、天の国を所有していると思い込んでいる者たちは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。”(マタイ8:11−12)

これは明らかに、すべての善意ある人々にとって重要な教えであり、記憶に留められておくべきものでしょう。

十字架へのはりつけや犠牲について全く言及しないQ

歴史的に最古の節々であるとされるQ資料は、クルアーンの教えと通底します。また、特筆すべきこととしては、Q資料が十字架へのはりつけや、犠牲としてのイエスの役割について全く言及していないという事実です。それは、実に興味深いことなのです。

この驚くべき初期の福音書は、(非ムスリムの)学者たちが歴史的にイエスに最も近いと見なすものです。この福音書には以下の特徴があります。

神の唯一性の非妥協性におけるクルアーンとの一致。

現世の行いに基づいた、救済または火獄という来世の存在におけるクルアーンとの一致。

現世の魅力や快楽に惑わされてはならないというクルアーンの警告との一致。

そして、

十字架におけるイエスの死、復活、そして人類のための犠牲になったとされることに関する記述の完全な欠如。

これは、現在の最も優れた(非ムスリム)学者たちが特定した福音者であり、この福音者は私たちに、クルアーンと全く同じ方向性を指し示しているのです。

親愛なるキリスト教徒の兄弟姉妹の皆さん、私はあなたたちにお願いがあります。次の疑問について、全能なる神の導きを祈ってください。「これは単なる偶然に過ぎないのでしょうか?」

そしてこれを共有してください。

私は2003年の3月20日にムスリムになりました。私にとっては、出来るだけ多くの思慮深いキリスト教徒たちにこのメッセージを共有することが明確となったのです。

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