女性の地位向上(1/5):世界的見解
説明: カナダのマギル大学で行われた、イスラームがいかに女性の地位を向上させたかについての講義の抄録。第一部:女性に関して西側世界とイスラーム世界の間に横たわる根本的相違に関する説明。またギリシャと初期キリスト教による女性観とはどういったものだったか。
- より アリー・アッ=タミーミー
- 掲載日時 21 Feb 2011
- 編集日時 02 Aug 2015
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イスラームは女性の地位を向上させました。こう聞くと多くの人々は、イスラームは女性の地位を向上させるどころか逆に抑圧しているではないか、と矛盾を感じるかもしれません。これに関し、現代社会には主に二つの見解が存在していることを述べなければなりません。これら二つの見解はたびたび衝突を見ますが、それは各人が私的な選択をする個人的レベルにおいてだけでなく、これら二つの世界的見解についての正当性と信頼性に関する議論の場である国際的レベルにおいてもそうなのです。
世界的見解の一つは西洋の自由主義社会のものです。この見解は、その起源がユダヤ・キリスト教の伝統に翻るものとされますが、調査の上ではおそらく宗教改革後に出てきた理念にそのはっきりとした起源が見出されます。それは世俗主義と、啓蒙思想の理念を元としたものです。
そして二つめのものは、ムスリムによるものです。それはイスラーム世界の見解であり、この見解ではその起源と理念は神(アラビア語のアッラー)によってムハンマド(彼に神の慈悲と祝福あれ)に下された啓示を元としています。この見解を公言する人々は、それがあらゆる時代に適用可能なものとし、その関連性と有益性は特定の時代、場所や人種に限定されたものではないとします。同様に、一つめの見解である西洋世俗主義および自由主義の伝統においても、彼らは自分たちの世界的見解、理念、伝統、および文明は人類にとって最良のものであると信じています。日系米国人作家のフランシス・フクヤマは、“The End of History and the Last Man”(「歴史の終わり」)という本を著しており、彼はその本の中で、国際社会においては自由・世俗主義が最終的に勝利し、それ以上の社会制度の発展が終結するという仮説を打ち立てています。また彼はその中で、この世俗的見解を受け入れていないのはイスラーム世界だけであり、こうしたイデオロギーによる確執が起こるだろうと付け加えています。
こう簡潔に紹介された上で、これら二つの世界的見解による論争トピックの一つとして、西洋世俗自由主義と伝統的イスラームにおける女性問題があります。女性の地位とは何でしょうか?女性はどのように見られているのでしょうか?女性は一方の文化では高い地位を有し、もう一方では抑圧されているのでしょうか?
西洋の見解とは、女性は西洋社会においてのみ良い待遇を享受し、時代と共に更なる権利を獲得しているのであり、イスラーム世界における彼女らの姉妹は依然として抑圧されている、というものです。しかしムスリム側から見れば、実際に男女に等しく本当の自由を提供するのはイスラーム的システムであり、西洋世界における女性は男性と同様、現実的には存在しない自由があると思い込まされているのだと主張します。
イスラームにおける女性理解は、哲学的根拠、または観念的理解と呼ばれているものを明確に理解しない限り、適切な形で理解されないでしょう。なぜなら、これは現実的には神学的概念であるからです。
まずは相対関係における差異を比較するため、西洋社会においての女性像とその理解が正確にはどのようなものであるかを再考してみましょう。西洋社会では、預言者イエス・キリスト(彼に平安あれ)以前から存在するギリシャの伝統を後継していることが自認されているため、そこにおける知的伝統はアリストテレスやプラトンなどによる初期ギリシャの著作から見出すことが出来ます。
女性はどのように見られていたのでしょうか?女性に関するアリストテレスとプラトンによる理念とはどのようなものだったのでしょうか?彼ら初期ギリシャ哲学者たちによる著作を精査すると、彼らは女性に関して非常に蔑んだ見方をしていたことが分かります。アリストテレスは自らの著書の中で、女性は完全な人間ではないと論じ、女性の性質は非人間的であると書いているのです。したがって女性は生来不完全であり、信頼されるべきではなく、蔑視に値するというのです。事実、ギリシャ社会における自由民女性は、ごく僅かな貴族階級の女性を除き、奴隷や動物と同じような位置付けであったという記録があるのです。
アリストテレス学説による女性観は、その後初期カトリック教会の伝統に受け継がれました。トマス・アクィナスはその著で、女性は悪魔の化身であると主張しています。アダムとイヴの問題は、アリストテレスによる初期ギリシャの理念にひとつの重要性を与えています。それはつまり、女性こそが男性の破滅の原因であり、それゆえサタンの化身であり、彼女らによって最初に人類は凋落し、悪はまず女性からもたらされるのであるため、彼女らに対しては用心深く警戒しろ、というものです。この種の思想は教会の神父たちの書物によって中世を通して根付いていました。彼らの書物からは、この論題が様々な角度から議論されていることを見出すことが出来ます。しかしながらプロテスタントによる宗教改革の後、ヨーロッパはカトリック教会の束縛の鎖から自らを解き放つことを選択しました。啓蒙運動、または啓蒙時代と呼ばれた思想によって、彼らはそれらの多くの理念から脱却しなければならないと感じ始めたのです。それら理念の一部は太陽が地球の周りではなく、地球が太陽の周りを公転していることを認める科学的な性質のものや、マルチン・ルターの著作に代表される神学的なもの、また社会における女性の地位といった社会的なものが含まれました。しかしながら、啓蒙思想の著者たちは依然として女性は完全な人間ではないとする古い見解から根本的には脱却出来てはいませんでした。ルソー、ボルテールのようなフランス革命時の作家などは、女性は管理が必要な、重荷となる存在であると見做していました。それゆえルソーは著作「エミール」において、女性は男性に理解出来ることを理解することが出来ないため、彼女らには違った形式の教育を施すべきであると提言しているのです。
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