バイブルによるイエス神格性の否定(5/7):イエスの非神格性を承知していたパウロ
- より シャビール・アリー
- 掲載日時 25 Apr 2011
- 編集日時 25 Apr 2011
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テモテへ宛てた手紙のなかで、パウロは述べます:“神とキリスト・イエスと選ばれた天使たちとの前で、厳かに命じる。偏見を持たずにこれらの指示に従いなさい。”(テモテへの手紙一/5:21)
ここからは、神という称号はキリスト・イエスにはあてられていないことが明確になっています。次章で彼は、再び神とイエスを区別してこう述べています:“万物に命をお与えになる神の御前で、そして、ポンティオ・ピラトの面前で立派な宣言によって証しをなさったキリスト・イエスの御前で、あなたに命じます。”(テモテへの手紙一/6:13)
そしてパウロはイエスの再来について述べています:“わたしたちの主イエス・キリストが再び来られるときまで、おちどなく、非難されないように、この掟を守りなさい。神は、定められた時にキリストを現してくださいます。”(テモテへの手紙一/6:14−15)
ここでも、故意に神という称号がイエスから剥奪されています。ちなみに、多くの人はイエスが“主”と呼ばれると、それが“神”を意味するのだと勘違いしていますが、バイブルにおいてこの称号は主人または教師を意味しており、人間への呼称として使用されているのです(ペトロの手紙一/3:6参照)。
しかしより重要な点は、イエスが神ではないことを明確にした、次の章句におけるパウロの言葉に注目することでしょう:“神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。この神に誉れと永遠の支配がありますように。”(テモテへの手紙一/6:15−16)
パウロは、神のみが唯一の不死の存在であると述べたのです。不死とはもちろん、決して死なないということです。どのような辞書を引いてもそのように書いてあるはずです。それを踏まえると、イエスが死んだと信じる人物は、イエスが神であることを信じることが出来ないはずです。そういった信仰は、ここでのパウロの主張と矛盾するからです。さらに、神が死んだなどという主張は、神への冒涜に他なりません。神が死んだのであれば、世界を支配するのは誰になるのでしょう?パウロは神が不死であると信じていたのです。
またパウロは同じ章句の中で、神は近寄り難い光の中に住み、誰一人として見たこともなく、また見ることも出来ないものと述べています。パウロは何千人もの人々がイエスを見たことを知っていました。それにも関わらず、パウロは誰一人神を見たことがないと述べたのです。なぜなら、パウロはイエスが神ではないことを知っていたからです。これが、パウロがイエスは神ではなく、キリストであると教えた理由なのです(使徒行伝9:22と18:5参照)。
パウロはアテネにいたとき、神についてこう述べています:“この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造られた神殿などにはお住みにならない。”(使徒行伝17:24)そして彼はイエスをこのように見なしていました:“かれ(神)のお選びになった方。”(使徒行伝17:31)
明らかに、パウロにとってイエスは神ではなかったのです。もし彼が自分の著書が彼の信条とは正反対のことの証明として後に使用されたということを知れば、驚いたでしょう。さらに、パウロは法廷でこのように証言しているのです:“・・・私は父祖の崇拝していた神に仕えることを認めます・・・”(使徒行伝24:14)
また、使徒行伝によると、彼はイエスが神のしもべであると述べています:“アブラハム、イサク、ヤコブの神であり、わたしたちの父祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました。”(使徒行伝3:13)
パウロにとって、神とは父のみを指していたのです。パウロは述べています:“すべてのものの父なる神は唯一である。”(エフェソの使徒への手紙4:6)パウロは再度言います:“私たちには、父なる唯一の神のみがいますのである・・・また、唯一の主イエス・キリストのみがいますのである。”(コリント人への手紙一/8:6)
パウロによるフィリピ人への手紙(フィリピの信徒への手紙2:6−11)は、イエスの神格性を証明するものとしてたびたび引用されます。しかし、その章句自体がイエスの神格性を否定しているのです。その章句は、すべての膝は神にかがみ、すべての舌は神のみにこそ正義と力があることを証言しなければならないと神が言った、イザヤ45:22−24に合意していなければならないはずです。パウロはローマ人14:11においてそれを引用したため、その章句を承知の上でこう宣言しています:“私は御父の前にひざまずいて祈ります。”(エフェソの信徒への手紙3:14)
ヘブライ人への手紙(1:6)では、神の天使たちは子を崇拝しなければならないと記されています。しかしこの章句は七十人訳聖書版の申命記32:43に基づいているのです。この言い回しは現在のキリスト教徒たちによって使われている旧約聖書に見出すことは出来ず、七十人訳聖書も彼らによって既に有効ではないと見なされています。しかしながら、七十人訳聖書版自体、子を崇拝せよとは記述されていないのです。そこには、神の天使たちは神を崇拝せよ、と記されているのです。バイブルは神のみを崇拝せよと主張しています: “主はかつて彼ら(古代イスラエル人)と契約を結び、彼らに命じて言われた:「あなたがたは他の神々を敬ってはならない。また彼らを拝み、彼らに仕え、彼らに犠牲をささげてはならない。ただ大きな力と伸べた腕とをもって、あなたがたをエジプトの地から導き上った主をのみ敬い、これを拝み、これに犠牲をささげなければならない。またあなたがたのために書きしるされた定めと、おきてと、律法と、戒めとを、慎んで常に守らなければならない。他の神々を敬ってはならない。わたしがあなたがたと結んだ契約を忘れてはならない。また他の神々を敬ってはならない。ただあなたがたの神、主を敬わなければならない。主はあなたがたをそのすべての敵の手から救い出されるであろう」”(列王記下17:35−39)
イエス(彼に平安あれ)はこれを信じ、ルカ4:8においても強調していました。そしてイエスも地面に頭をつけ、神を崇拝していたのです(マタイ26:39参照)。パウロはイエスが神を崇拝していたことを承知していました(ヘブライ人5:7参照)。パウロは、イエスが永遠に神に従順であることを説いたのです(コリント人一/15:28参照)。
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