神の擬人化(1/5):神に対しての自然な信仰とは
- より ビラール・フィリップス博士
- 掲載日時 24 Jan 2011
- 編集日時 28 Feb 2011
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圧倒的多数の人類はこれまで常に、神の存在を信じ続けて来ました。古代文明から現代社会まで、神を中心とした諸宗教がそれらの人類文化の基礎を築いてきました。事実、神の存在の否定(無神論)は20世紀における社会主義の台頭まで、ごく僅かな人々のみに限定されていたのです。今日でさえ、西側世界の世俗主義社会においてダーウィンの進化論によって理論武装した近代社会学者たちは、神が単なる人類の集合的想像の産物であるとしていますが、圧倒的多数の市民、俗人、更には科学者でさえ、神への信仰を曲げることなく保ち続けているのです。
従って、神の存在を証明付ける圧倒的な老古学的データは、神への信仰(理神論)は生得のものであり、学ぶものなのではない、と一部の人類学者たちによって結論付けられているのです。大多数の社会学者たちは正反対のことを提言していながらも、近年の科学的発見は少数派意見である理神論が生得的なものであることをあたかも証明するかのようです。カリフォルニア大学サンディエゴ校のヴィラヤヌル・ラマチャンドラン博士による論文 “God Spot is found in the Brain”(神の部位の発見)では、神への宗教的信仰は、脳内の神経回路に組み込まれたものであると主張しています。
脳内における「神の部位」の発見スティーブ・コナー サイエンス・コレスポンデント誌 科学者らは脳内における「神のモジュール」の発見を確信しており、それが人類の進化過程において宗教を信じるようになった本能と関わっているのではないかとしています。 深い神秘的体験を経験することで知られるてんかん患者に関する研究によると、前頭葉における神経回路の中に、神を想念することによって活発化する部位があることが突き止められています。 科学者らによると、研究とその結論は依然として予備的なものながら、当初の結果は宗教的信仰という現象が脳内において「組み込まれた」ものであることを示唆しているのです。 脳の前頭葉からくる痙攣を患うてんかん患者によると、彼らは強烈な神秘的出来事を経験し、たびたび霊的宗教体験に没頭すると主張しています。 カリフォルニア大学サンディエゴ校の神経学者のチームは最も魅力的な説明として、「神のモジュール」と銘打たれた脳の部位の神経が、発作により過剰な刺激を受けるとしています。 チームは先週、学会でこのように発表しました:「側頭葉には宗教に特化された神経組織があるのかも知れません。これは社会において秩序と安定をもたらすべく進化したものだと考えることが出来ます。」 この結果は、人が宗教もしくは神を信じることは、この脳の部位がいかに活発であるかによるのではないか、ということを指し示しています。 研究チームのリーダーであるヴィラヤヌル・ラマチャンドラン博士は、この研究は一般からのてんかん患者と、非常に宗教的であるとされている人々との比較調査によって行なわれたと言います。 側頭葉の活動をチェックするため一般的に使われる、彼らの肌に取り付けた電子モニターは、てんかん患者そして非常に宗教的であるとされる人々は精神的信仰に関する言葉が言及された際、類似した反応を見せたとされています。 進化論科学者らは、世界中、そして歴史を通して人類社会における共通した特徴である神への信仰は、ダーウィン論の適用として、個々人による相互協力が促進されるために脳内の複雑な神経回路に組み込まれたものであると示唆しています。 もしもその調査結果が正しいものであり、「神のモジュール」が存在するのであれば、それは無神論者には異なる構造の神経回路があるかもしれないことを示唆します。 オックスフォード司教、リチャード・ハリーズのスポークスマンは、「神のモジュール」の有無は科学者に対する質問であり、神学者に対するものではないと言っています。その上で、「たとえ神によって信仰のための物理的構造が創られたのであっても驚くべきことではない。」と彼は言っています。1 |
人には「信仰のための物理的構造」が組み込まれているという説が強まってきていますが、神の概念は社会によって多大なる相違を見せており、一部の思想家、更には神を信じる者たちの間でさえ、宗教が人工のものであるという結論が出されています。しかし研究を通し、様々な諸宗教には一つの神学的共通性が見出されています。それは、最も多神教的な宗教システムの中でさえ見出される、様々な神の上に君臨する最高の存在への信仰、つまり一神教的な基盤です。たとえばヒンズー教では人類は元来一神教的であり、退化的過程によって多神教的になったという観点を持ちます。多くの神々や偶像があるにも関わらず、ヒンズー教にはそれらの頂点に立つ最高神ブラフマンが存在します。
伝統的に人類学者の大半は、宗教とは人類初期の自然現象に対する神格化を経て、それらの超自然的力の二極化という二つの主要な神による二元化(善の神と悪の神)、そして最終的には唯一の神への単純化したといったように、様々な段階を経て多神教から一神教に変化したのであると結論付けています。
従って、人類学者や社会学者らによると、宗教の起源は神によるものではなく、科学的知識の欠如に基づいた人類初期の迷信による単なる副産物であったとしています。それゆえ、そういった主張をする理論家たちは、科学がいずれは自然界の謎をすべて紐解き、宗教に関連付けず自然現象を説明し、いずれはすべての宗教が必然的に消滅すると信じているのです。
しかし人類の持つ至高の存在への生得的な信仰は、逆の見解を示しているかのようです。つまり、それは人類は一神教と共に始まったが、時の経過によって様々な形の多神教へと逸脱した、というものです。この見解はいわゆる原始の諸部族が、至高の存在への信仰を持っていたことが「発見された」ことによって支持されています。「発見」時の宗教的発展がどの段階であったかに関わらず、それらの大半はすべての神々や精霊を差し置いて至高の神を信じていたのです。唯一なる至高の存在といった概念は、大衆が唯一神に帰されるべき属性を他の創造物に結びつけることにより、それらを劣った神々や仲介者などに仕立て上げることによって、一神教から逸脱したという根拠を支持しているのです。至高の神はどのような形態をとろうとも、ほとんどの宗教における中核なのです。2
神の擬人化(2/5):神々、人格神、そして神による創造物への化身
- より ビラール・フィリップス博士
- 掲載日時 31 Jan 2011
- 編集日時 31 Jan 2011
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神々
とはいえ、神への信仰といった概念の側面に、人間のあらゆる論理と理性を無視しつつも、その信仰の根本理念とされるものが存在していることも事実です。それは神が人間の形をとるというものです。つまり、元来の神に対する一神教的信仰が、人間による探求を伝達する役割、もしくは現世における神の代理としての役割として人間と神の間に仲介者を仕立て上げ、彼らが崇拝の対象になるといった変質を見せているのです。仲介者とは、たびたび自然界の様々な現象の精霊といった形をとります。従って太古の人類は、森林、河川、大空、土壌などといった精霊を崇拝していましたが、それは今なお続いています。自然そのものもたびたび崇拝の対象とされ、時には自然を象徴するシンボルが崇拝されました。こうした種類の諸信仰から発展した宗教システムは、世界の未開地域において適応と地方化をし、現在もあちこちに散在しています。しかしこのような信念は人類史上、国際的な影響力を持つ一つの信念システムとして成立することは、知られている限りありませんでした。
他方では、一神教的信仰が肖像として象徴され、神の属性が仲介者という人格化を見せて退行し、それによる偶像が崇拝の焦点とされました。神の属性が神々となったのです。そのような信仰が古代、そして現代において国際的に影響力を持つ自然宗教として猛威を振るいました。古代エジプト、ギリシャ、そしてローマの諸宗教はキリスト教によるそれらの諸帝国の完全なる破壊によって死滅しました。しかしインドのヒンズー教はムスリムとキリスト教徒による支配から生き延び、今日も約10億人のインド人たちの国家宗教として存続しています。インドネシアのバリ島を除き、キリスト教とイスラームは極東の大半において国際的な影響力をもたらしました。しかし仏教の異なる宗派とその分派は、極東における何千万人もの人々の主な宗教となりました。こうしたヒンズー教による様々な改革運動は、西側社会において今日も広まりを見せています。
人間は神である
ヒンズー教の基本的な概念として、あらゆるものが神とされています。根本的に、神とその創造物の区別はないのです。ヒンズー教の哲学によれば、すべての生き物にはアートマンと呼ばれる自我、もしくは魂が備わっており、一般的に魂は実質上、ブラフマンと呼ばれる神であると信じられています。ヒンズー教の信仰における真髄とは、アートマンとブラフマンが同一であるという観念、つまり人間の魂には神格があることです。さらに、人間社会はカーストと呼ばれる身分制度によって分割されており、そこではそれぞれのカーストが、ブラフマンという神のどの部分から存在として顕在化したかが象徴されています。上層階級であるブラフミンは、神の頭部から来たとされ、シュードラと呼ばれる下層階級は神の足から来たとされています。公式には四つのカーストのみなのですが、現実には多くの副カーストが存在します。四つの主要なカーストはそれぞれが何千ものより小さなカーストに細分化されています。ヒンズー教徒たちは、人間が死ぬと輪廻転生をすると信じます。死人の魂であるアートマンは不滅であり、生まれ変わります。現世で善い行いをした人物は来世においてより高いカーストを持つことが出来ます。対照的に、現世で悪い行いをした人物は、より低い階級に生まれ変わるとされ、ヒンズー教が年間に多くの自殺者を出す主な理由の一つでもあるのです。新聞各紙は毎日、家庭の天井の扇風機から首をつって自殺する個人や家族のニュースを定期的に掲載しています。最近ではある地方紙に、インド代表がクリケットの試合でスリランカに負けたため、ヒンズー教徒が自殺したというニュースがありました。人が輪廻転生という観念を信奉すると、人生の困難における安易な回避の方法として自殺が用いられてしまうのです。
人が輪廻を繰り返し、上層階級であるブラフミンに到達すると、輪廻転生のサイクルは終了し、彼はブラフマンと再結合します。輪廻におけるこの過程はモクシャ、仏教ではニルヴァーナ(涅槃)1と呼ばれます。アートマンがブラフマンと結合し、人は神となるのです。
神による創造物への化身
ヒンズー教の教義によれば、ブラフマンの性質は他の神々と同じく顕現するとされています。創造の属性は創造神であるブラフマーに帰属され、維持の属性は維持神であるヴィシュヌ、そして破壊の属性は破壊神シヴァに帰属されます。それらのうち最も人気のあるヴィシュヌは異なる時代によって様々な人間として権化するとされます。こういった転生はサンスクリット語で降臨を意味するアヴァターラと呼ばれます。それは、人間または現世における他の創造物として神が化身し、現世に降臨することを表しています。アヴァターラという用語は主にヴィシュヌ神による10の化身を指し示します。それらには魚の化身マツヤ、亀の化身クールマ、猪の化身ヴァラーハ、半人半獅子の化身ナラシンハ、矮人の化身ヴァーマナ、そして一般的に最も良く知られている、人間の化身ラーマが含まれます。ラーマはラーマーヤナという叙事詩の英雄であり、インドでは何本も映画化・放映されています。他の人気のある神はヴィシュヌによる別の人間の化身、クリシュナです。彼に関する叙事詩はマハーバーラタと呼ばれ、そこでは悪魔たちに抑圧され、人口爆発と分離の危機にある大地の女神が人間に変身した神々によって救われる様子が描かれています。2この信仰には輪廻が何回起きるのか、またどういった動物の姿をとるのかなどの様々な異説がありますが、一般的にそれらすべては上記の形に従います。したがってヒンズー教では、人類の5分の1が神、もしくは神の一部とされています。創造主とその創造物との相違は、単に外面上のものでしかないのです。
主流な仏教は、ヒンズー教と輪廻転生の概念を共有しますが、それに独自の修正を施しています。それによれば、意識を持つあらゆる生命体は「仏性」を持ち、誰もが仏になれる可能性がある、というものです。ブッダは初期の教え3において、真の人間的教師でした。しかし大乗仏教においては絶対的真理を伴なう「永遠なる」ブッダという概念が確立され、神の地位にまで押し上げられてしまいました。この永遠なるブッダは彼のメッセージを人類に啓示するため、初期のブッダとして時空を超えて色々な時代に現れ、人間と共に働き、生活するといわれています。従って仏教の創始者ゴータマ・シッダルタは初期の姿の一つであり、永遠なるブッダにより創られた幻影であるといわれます。4仏教は神々と諸天の要素をインドから組み込み、救世主の神々への帰依であるバクティ・ヒンズー教に対抗しました。至上性、または仏性は一部の人々によって、精神世界に存在する永遠なるブッダや菩薩5同様の顕在の要素を持つとみなされ、悟りに対して彼らの徳、守護、そして助けがそれらに献身的な追従者達によって求められました。
永遠なる菩薩のなかでも主格級のものは、慈悲心の人格化である聖観音、そして英知の人格化である文殊菩薩とされます。永遠なるブッダの中には阿閦如来(不動の者)、阿弥陀如来(無限の光と命を持つ者)があります。
Footnotes:
1これはサンスクリット語で「吹き消すこと」を意味する単語であり、煩悩の根絶や救済を意味します。この用語はヴェーダ書物に起源を遡るもの(バガヴァッド・ギーター)ですが、仏教と関連付けられることが殆どです。小乗仏教において、この用語は終息を意味しますが、大乗仏教では至福の状態であるとされます。(Dictionary of Philosophy and Religion, p. 393)
2 叙事詩の神学的最重要部はバガヴァッド・ギーターです。(Dictionary of World Religions, p. 448)
3 古参の教理とされる上座部仏教は、本質的には自らの救済のために個人が実践する倫理規範です。奮闘を要する宗教的人生を生きることが出来る、体力と意志の強い僧侶だけがそのゴールにたどり着くことができ、それを達成した者は阿羅漢と呼ばれます。ニルヴァーナには二種類あり、一方には残余があり、もう一方にはそれがありません。前者は阿羅漢によって達成され、五つの集まり(五蘊:つまり肉体、感受、表象、意志、認識を含有するもの)は輪廻の続行の原因である欲求が依然として存在します。残余のないニルヴァーナとは、ブッダが沈黙する、阿羅漢の死後の状態のことを示します。一つのイオンには一人のブッダしかおらず、悟りは少数の精鋭のために留保されています。仏教におけるこういった側面は上座部仏教、または小乗仏教と呼ばれます。
ブッダの死後、上座部仏教の実践者らは厳しい戒律尊守の姿勢を批判されました。意見の相違が始まり、仏教は変化しました。その後、新しい形態であり「偉大な乗り物」を意味する大乗仏教が支配的となります。(Dictionary of World Religions, pp. 126-127)
4 Dictionary of World Religions, p. 129.
5元来、この用語はまだ悟りの探求をしていた頃の過去のブッダを示しました。大乗仏教において、菩薩は他の悟りを求めるすべての人間への扶助のため、最終的かつ完全な悟りとニルヴァーナを放棄します。(Dictionary of World Religions, p. 112)
神の擬人化(3/5):神が一人の人間となり、複数の人間が神とされるのはどうしてなのか
- より ビラール・フィリップス博士
- 掲載日時 07 Feb 2011
- 編集日時 07 Feb 2011
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神が一人の人間に
神の顕現というキリスト教の信仰は、古代ギリシャの信仰に元を辿ります。神が人間になるという用語はヨハネの福音書1:1と14に、“ 初めに、ことば(ロゴス)があった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。”そしてヨハネ書の著者はこう述べます:“ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。”ギリシャ語のロゴスは「ことば(word)」と訳されていますが、英語にはそれ(logos)に相当する単語が存在しません。その重要性は、紀元前六世紀から紀元三世紀までに専門用語として使用されたギリシャ哲学の言葉と、ユダヤ教、キリスト教思想家たち双方によって流用された事実に潜みます。 まずそれはヘラクレイトス(紀元前540−480年)によって宇宙の原理の表現として登場しましたが、アリストテレスの時代になると、実態のない力であるnousとして取って変わられ、それは物質的な力とされました。ロゴスは目的論の原理をロゴスと神であるとしたストア哲学者のシステムにおいて再現しました。アレキサンドリアで活躍したユダヤ人哲学者フィロン(紀元前50年没)は、旧約聖書の言葉をストア哲学者のロゴスを用いて解釈しました。それゆえ、ロゴスは神が世界でかれご自身を表現する方法として超越的な原理とされました。しかしロゴスは同時に贖罪的機能も持ちました。それはより高い精神的性質へ通じる手段だったのです。ヨハネの福音書においてロゴスは創造的であり贖罪的でもあります。後者の側面は前者のそれよりもより強く強調されています。1
この信仰には論理が必要とされ、原罪論と聖なる犠牲論といった概念が開発されました。アダムの罪はその子孫にまで受け継がれ、それはいかなる人間による犠牲によっても償いきれないほどに巨大なものとなり、神の犠牲が必要になると主張されています。従って神には人間の息子があり、彼自身も神の顕現であり、神そのものなのです。神の子はその後、人類の罪のため、神(つまり自分自身)への犠牲として十字架で命を落とします。神である息子はその後復活し、現在は神の玉座の右側に座り、この世の終わりに人類を裁くために待っているのです。よって人類の5分の1であるキリスト教徒にとり、神は歴史において一度だけ人間となり、彼の人間化についての信仰は救済において必須とされているのです。
人々が神に
イエスの人間性という観念から、彼が神であるというキリスト教信仰は一人の人間を神の地位に高めることと捉えることが出来ます。しかし、イスラームに追従する人々の中にも、ヒンズー教や仏教と同様、人間に神になる機会があるとする宗派があります。
彼らの信条は神秘主義に発端し、それは古代ギリシャの様々な神秘宗教にその起源を見出すことが出来ます。神秘主義とは神と結合する経験であると定義され、人の人生において最も重要な目的はその結合を求めることであると信じられています。ギリシャの哲学者プラトンはこの概念を彼の著作、特に「シンポジウム」の中で提言しています。その中で彼は、いかにして人間の魂が精神的なはしごを上り詰め、神と再び同一になることが出来るかを説明しています。2こういった信条の基礎となるものは、人間はこの物質的世界に閉じ込められてしまった神の一部であるという教えなのです。物質的な肉体は人間の魂を宿すとしています。従って彼らの信条では、魂は神性となります。この世界に閉じ込められている神の一部は物質的世界から開放され、神と再結合されなければならないといわれます。
ムスリムの中にもまさにこれと同じ概念を広めようとした宗派が誕生しました。その追従者たちは伝統的に「スーフィー」、彼らの信条システムは「スーフィズム」と呼ばれました。この用語は一般的に英語で「神秘主義」または「イスラーム神秘主義」と翻訳されました。それはギリシャの神秘主義と同じく、人間の魂は神性であり、それが神と再結合するには特定の精神的修行を行わなければならないという概念の上に成り立っています。様々なスーフィーの集団は「タリーカ」(道、または教団)
と呼ばれるカルト組織に発展しました。それぞれのカルトは実際の、または仮定の創始者にちなんで名付けられ、メンバーが厳しく従わなければならない独自の精神修行を持ちました。その大半は、追従者が規定された精神的・感情的・肉体的修行をすれば、神と同一になれると説かれたのです。この同一性は、アラビア語でファナー(融解)3、もしくはウォスール(到達)と名付けられました。「神との結合」という概念は主流のムスリム学者たちによって否定されましたが、一般大衆によって受け入れられました。10世紀のスーフィー修行者アル=ハッラージ(858−922)は彼自身が神であると公言し、様々な詩やキターブッ=タワースィーンという本などを著しました。その中で彼はこう書いています:「もしあなたが神を認識しないのであれば、最低限かれのしるしを認識しなさい。私が究極かつ絶対的真実であるのは、真実によって私は永久の真実であるからである。私の友であり教師はイブリースであり4、ファラオである。イブリースは地獄の業火によって脅かされたが、それでも彼自身と神の間の何者をも認めなかったし、私は殺され十字架に磔にされ、手足が切断されたが、私は自らの主張を取り消さない。」5
イブン・アラビー(1240年没)は神との同一性をさらに強調し、神以外には何も存在しないと主張しました。彼は著作の一つにこう記しています:「本質としてありながらもすべてのものを出現されたかれに讃えあれ。」6別の場所ではこう書いています:「かれは姿を見せるあらゆるものの本質であり、かれが姿をみせているとき、かれは隠れたものの本質なのである。かれを見るものはかれ以外にはないが、誰一人としてかれからは隠されていないのだ。なぜならかれが隠れているときでも、かれはかれ自身を表しになるからである。」7彼のこうした概念はワハダトル=ウォジュード(存在の同一性)と呼ばれ、ムスリム世界のスーフィー界において人気を博しました。
なぜ?
何が古代の人々に、神が人となったり、神と人が同一であるということを信じさせたのでしょうか?その根本的な原因とは、神が虚無からこの世界を創造したという理解と容認の欠如です。彼らは神が彼ら自身と同様に、すでに存在するものから創造するのであると知覚していました。人間は何かを創るとき、すでに存在する物質の姿形を変え、違う働きをする物質に加工します。 例えば木製のテーブルは過去、森林に存在する樹木で、釘やネジは地表下の鉱石から採れる鉄でした。人間は樹木を切り倒し、木材を卓上や支柱の形にし、また鉄鉱石を掘り出し、それを溶かして鋳型に流し込み、釘やネジを作ります。それから各部品を組み立てて様々な用途に使用出来るテーブルを作り上げるのです。同様に、人が座るプラスチック製の椅子は、過去には地球の深部に貯蔵されていた液体である石油だったのです。 人は誰かが椅子に座るように、石油に座ることを想像することが出来ません。 しかし、石油の化学成分を加工する人間の能力を通してプラスチックは精製され、人が座ることのできる椅子が製造されるのです。これは人間活動の本質であり、私たちはすでに存在する物質を単に加工・変形させているだけなのです。人は樹木や石油を創り出しているのではありません。私たちは石油の生産に関して議論しますが、それは実際には石油の採掘のことを指します。石油は何百万年もの昔に地質学的過程によって創り出されたものであり、人間はそれを地下から掘り出し、精製しているだけなのです。人間は樹木を創造したわけでもありません。たとえ私たちがそれらを植え付けたのであっても、種子という本質部分を創り出した訳ではないのです。
従って、人間は神の存在への無知から神が自分たちと同じような存在であると思い込みがちなのです。例えば旧約聖書では、「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造した。」と書かれています。ヒンズー教において、プルシャは創造神であるブラフマーを人間化したものであり、人間が身の回りの世界の物質を加工することによって物を創造することから、創造神も同じでなければならないとされます。
ヒンズー哲学において、プルシャはブラフマーの子孫であり、二千の頭に千の目を持つ巨人です。彼からその女性の片割れであり、創造過程の配偶者であるヴィラージュが発生しました。プルシャ神は犠牲としての奉納(vv. 6-10)でもあり、その切断された肉体から四つのカースト(ヴァルナ)が生まれたのです。8「リグ・ヴェーダ」10:90に収められたプルシャ賛歌によれば、ブラフミンがプルシャの口であり、クシャトリヤがその両腕、ヴァイシャがその両腿、そしてシュードラがその両足であったとされています。9神がこの世界を虚無から創造したことに対するヒンズー教の理解の欠如は、神が世界と人類を自らの肉体から創りだしたという虚構の概念をもたらすことにつながったのです。
観念や概念を理解する人間の能力には制限があり、それは有限です。人間は無限というものを把握し、理解することが出来ません。神がアダムに教えた信仰とは、神が虚無からこの世界を創造したということです。かれが何かの存在をお望みであれば、単に「在れ」と言う命令だけで過去に存在しなかったものが存在することになるのです。この世界とここにあるものはかれご自身の体から創られたものではありません。事実、神が自分の体から世界を創造したという概念は、神ご自身の存在を、他のものから何かを創りだす、創造物と同じレベルまで引き下げることになるのです。こういった信条を掲げ、それに固執する人々は神の唯一性を捉えることは出来ないでしょう。かれは唯一無比であり、かれに似通ったものは何一つありません。もしかれが世界をご自分の体から創造したというのであれば、かれは自らの創造物と似通った存在であるということになるのです。
Footnotes:
1 Dictionary of Philosophy and Religion, p. 314.
2 Colliers Encyclopedia, vol. 17, p. 114.
3 Ihyaa ‘Uloom ad-Deen, vol. 4, p. 212.
4 イスラームにおけるサタンの正式名称。
5Idea of Personality, p. 32.
6 Al-Futoohaat al-Makkiyyah, vol. 2, p. 604.
7Fusoos al-Hikam, vol.1, p. 77.
8 Dictionary of World Religions, p. 587.
9 The New Encyclopedia Britannica, vol. 20, p. 552.
神の擬人化(4/5):神は人になったのか、そしてそれは可能なのか
- より ビラール・フィリップス博士
- 掲載日時 14 Feb 2011
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神は人になったのか?という質問がまだ答えられていません。論理的にはその答えは「いいえ」となります。なぜなら神が人になるということは「神」という言葉の持つ意味に相反するからです。一般的に、神は全能であると言われます。かれがお望みであれば、それが何であれ起きるのです。キリスト教の聖書によれば、こう書かれています:「...神にとってはどんなことでも可能です(マタイ伝19:26、マルコ伝10:27、14:36)。」
また、ムスリムのクルアーンはこう述べます:
「...本当にアッラー(神)は、すべてのことに全能であられる。」(クルアーン2:20)
ヒンズー教の経典にも、同様の意味を持つテキストがあります。
すべての大宗教の経典には、神の全能性についての一般的な概念が記されています。かれはあらゆるものよりも偉大であり、かれによってあらゆるものは可能になる、とされます。この一般的概念が実践に移されるのであれば、まず神の基本的な特性を見極め、理解しなければなりません。大多数の社会において、神は永久なる存在であり、始まりも終わりもない者であることを認めています。では、神にとってあらゆることが可能であることを踏まえ、神は死ぬことがあるのかと誰かが質問したとすれば、それに対する答えは何でしょうか?死ぬことは「あらゆること」の一部に含まれるため、「もしもかれがお望みであれば」と答えるでしょうか?もちろん、それは不正解です。
ここで問題が発生します。神は不死であると定義され、終わりのない存在であり、死ぬことは「終わりが来る」ことを意味します。従って、かれが死ぬことが可能であるかどうかを問うことは、実際には無意味な質問なのです。それを自己矛盾しているからです。同様に、神が生まれるかどうかを質問することも、かれは永久なる存在であり、始まりがないことから不合理な質問なのです。生まれるということは始まりを持つことであり、存在しなかった状態から存在するようになることを意味します。同じような文脈から、無神論の哲学者たちは有神論者にこう尋ねます:「神は自分でも持ち上げられないような重い石を創ることが出来るでしょうか?」もしも有神論者が「はい」と答えれば、それは神は自分よりも偉大なものを創りだすことが出来ると答えることになってしまいます。そしてもし彼が「いいえ」と答えれば、神は全能ではないということにされるのです。
従って、「神はすべてのことに全能であられる」というフレーズの中の、「すべてのこと」という言葉は不条理さを排除しているのです。そこには、神の性質に矛盾すること、つまり忘却や睡眠、悔悟、成長、食事などの、かれを神以下の存在にするものが含まれる余地がありません。その代わり、そこにはただかれが神という存在としての首尾一貫した「すべてのこと」のみが含まれます。これが「神はすべてのことに全能であられる」という既述が意味するところなのです。それは絶対的な意味としてではなく、条件付きで理解されなければならないのです。
神が人間になったという主張もまた、不条理なものです。神が人間の特質を持つようになるということは、神が自らの創造物になることを意味するため、神という存在に似つかわしくありません。創造という行為は、創造者による創作の産物です。もしも創造者が自らの創造物になったのであれば、それは創造者が自らを創り出したことになり、明らかに道理に反します。被造物となるには、まずその前に存在しなかったことになるでしょう。存在しなかったのであれば、いかにして創造することが出来るでしょう?さらに、もし彼が創造されたものだったのであるとすれば、それはかれに始まりがあったということになり、かれの永遠性に矛盾が発生することにもなります。定義上、創造には創造者が必要とされ、創造された存在は、その存在のために創造者によって存在をもたらされる必要があります。神は創造主であり、創造者を必要としないため、そこには明白な矛盾が発生します。神がその創造物になるという主張には、かれ自身に創造者が必要になるという概念を意味します。それは神が創造主であり、創造される必要がなく、被造物ではないという基本的概念に反します。
人は神となれるのか
人間は有限の存在(被造物)です。人は生まれ、かつ死にます。これらの特性を神に当てはめることは、それによって神とその創造物を同等のものとするため、可能ではありません。従って神は決して人間となることはなく、過去にそうなったこともないのです。一方、人間も神となることは出来ません。被造物がその創造主になるということはあり得ないことです。被造物には存在しなかった時間があります。被造物は、常に存在する創造主による創造という行為によってその存在をもたらされたのです。存在しないものが自らを創造をすることは出来ません。
その類似概念である、人間の魂に神性があるという主張は、人が神になれるということを意味しています。こういった哲学はギリシャ、キリスト教、ムスリムによる神秘主義だけでなく、またヒンズー神学の基礎をも築いており、すべての人間のみならず、場合によってはすべての生物にその神性を与えるのです。それは宇宙の歴史におけるある時点で、神の破片が物質的肉体によって包囲され、地上に閉じ込められた、という前提で始まります。別の表現をすれば、永遠性が有限性によって封じ込められたことになります。こういった信条は神に純粋悪という性質を付属し、善と悪の意味を完全に除去してしまいます。人間の魂が悪を意図し、神の許しによってそれを実行したのであれば、そういった行為は懲罰を受けるにふさわしい純粋悪です。それゆえ、カルマ(業)という概念が開発されたのです。つまり自業自得の観念です。不可解な苦しみは前世の悪行による結果であるとカルマは説明します。神はいかなる悪であれ、最終的には人間の内に潜む神性によって、その体の部位によって罰を与えますが、人の魂が神からは独立した意志を持っているのであれば、同時に神であることは不可能なのです。したがって、人間はそれぞれが神となる、とされているのです。
神の擬人化(5/5):神は子をもうけたのか
- より ビラール・フィリップス博士
- 掲載日時 14 Feb 2011
- 編集日時 14 Feb 2011
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もし神が人間にならなかったのであれば、かれは子をもうけたことになるのでしょうか?かれにはあらゆることが可能であることから、子をもうけることも可能かもしれません。しかし、それは神を被造物と同じ低い地位に引き下げるのです。生き物は出産をすることによって繁殖し、それら子孫もやがて成長して同じように繁殖を繰り返します。犬は子犬を、猫は子猫を、牛は仔牛を、そして人間は子供を持ちます。そうであれば、神は子神を持つとでも言うのでしょうか?神は神々を生み出さなければならないでしょう。しかし神が子を持つためには、かれ以外のもう一人の神がいなければならないはずです。神が子をもうけるということは、神と被造物の関係が同等となることを意味し、それは神という存在にとって相応しくありません。
神以外のあらゆるものは、神の命令によって存在がもたらされるのであり、神もしくは神の一部が創造物になるということではないのです。神は自らの創造物にはなりませんし、神は創造物を生み出すのでもありません。神は創造主であり、人間と宇宙のあらゆるものはかれによる創造なのです。人間は無からの創造という概念を理解することが出来ませんが、これこそが神の行いというものなのです。無から創造する者はかれのみであり、それが彼の独自性、そして被造物からの区別をもたらします。かれによる創造という行為は、人間のそれとは全く異なるものです。
これは神が人類に遣わしたアブラハム、モーゼ、イエス、ムハンマドに代表される真の諸使徒・諸預言者によるメッセージの真髄であり、同様に世界中に遣わされたにも関わらず、現在では人類にその名の知られていない者たちも含まれます。彼らに神の平和と祝福がありますように。今日においても、神による人類への最終啓示であるクルアーンにおいて、まさにそのメッセージを見出すことが出来ます。そのメッセージはクルアーンにおいてのみ、1,400年前と寸分違わない形を今なお保っているのです。
神はクルアーンにおいて、かれをかれの創造物と同等(またはその反対)であるとみなす人々に関してこのように述べています:
『...かれに比べられるものは何もない...』(クルアーン42:11)
またかれは、かれに子を結びつける者に関してこう述べています:
『子を設けられることは、アッ=ラフマーン(慈悲深き御方)にはありえない。』(クルアーン19:92)
かれは更に、かれが自らの体から世界を創ったと信じる者たちに関して述べています:
『何かを望まれると、かれが「有れ。」と御命じになれば、即ち有る。』(クルアーン36:82)
多神教徒に関してはこう述べます:
『...またかれと一緒の他の神もない。そうであったら、それぞれの神は自分の創ったもので分裂しお互いに抜き出ようとして競い合う...』(クルアーン23:91)
無神論者にはこう尋ねます:
『かれらは無から創られたのではないか。それともかれら自身が創造者なのか。』(クルアーン52:35)
イエスとその母マリアに関して、単純明快にこう述べ、彼らの人間性を確証します:
『...彼ら両人は食べ物を食べていた...』(クルアーン5:75)
神は人間にならないという概念を理解するのは、すべての人々にとって非常に重要なことです。なぜならそれはイスラームと現存するその他すべての諸宗教との違いにおける根本を成しているからです。他のすべての諸宗教は神に関しての概念を多少なりともねじ曲げています。理解しなければならない最も重要な観念とは、神が擬人化をしなかったということなのです。神は唯一無比であり、かれのみが被造物によって崇拝される権利を有します。人が神である、または人が神になったと信じ、その人物を崇拝することは、この地上において人間に出来うる最も大きな罪であり、最も邪悪な行為です。こういった理解が重要なのは、それが救済の根幹であるからです。それによって以外、救済はあり得ないのです。しかし、こう信じること自体は、救済の鍵とはなりません。正しい信条は実践に移されねばならず、それが真の信仰となるには、ただ単に知識として留まっているだけでは事足りません。人が救済を得るには、正しい信条に基づいた、誠実な人生を送らねばなりません。そしてその出発点とは、神が誰であるかを知ること、そして神は決して人間にはならなかったこと・ならないことを知ることです。
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