イスラームにおける崇拝行為(1/3):崇拝行為の意味とは
説明: 崇拝行為の意味とその仕組み、そして崇拝行為の内的側面について。
- より IslamReligion.com
- 掲載日時 06 Dec 2009
- 編集日時 12 Dec 2009
- プリント数: 352
- 観覧数: 20,284 (日平均: 4)
- 評価者: 0
- メール数: 0
- コメント日時: 0
イスラームにおける崇拝行為の概念や意義は、現存するいかなる宗教のそれとも異なっています。イスラームの崇拝行為においては、俗と精神、個と社会、魂と肉体がそれぞれ密接につながっています。そして崇拝行為はイスラームにおいてかけがえのない役割を担っており、その遂行によって人はその全人生を神の意思に調和させる真のムスリム(イスラーム教徒)であるとみなされるのです。
崇拝行為は、イスラーム以前の諸宗教でも定められていたという事実を鑑みても、その重要性を知ることが出来ます。クルアーンにおいて、神はこのように仰っています:
“本当にわれは、各々の民に一人の使徒を遣わして「アッラーに仕え、邪神を避けなさい」と(命じた)。”(クルアーン16:36)
イスラームにおける崇拝行為は多種多様に渡り、それらをここで全て説明することは非常に困難です。しかしイスラームにおける崇拝行為の最も一般的な意味は、信仰事項に関わることであれ肉体的な諸事であれ、神をご満悦させるあらゆる事柄を含みます。つまりそこには私たちの知覚、思考、意図、感覚、言行などが全て含まれるのです。また神が私たちに要求する外的、内的、あるいは相互関係なども、そこに当てはまります。またここには儀礼と共に、信仰、仕事、社会的活動、個人的素行なども含まれます。これは人類全体が一つの大きな体に例えられ、そしてその身体の各部はお互いに影響を及ぼしているからです。
なお、崇拝行為は二種類に分類されます。
1)特定の信念や感情、そして神への敬意という見地から捧げられる、神が命じた可視的行為。
2)ムスリムの人生において推奨される、その他の一般的善行。
の献身
崇拝行為におけるこの側面では、神の宗教において神自身により命じられている特定の行為の履行が義務付けられます。それが内的あるいは外的、または義務行為あるいは任意的行為であるかということは、関係ありません。またこの側面には神の戒律に従うことだけではなく、神が禁じたものを避けることも含まれてきます。この意味では、神への服従行為として何かを信じ、感じ、行なうものが崇拝行為であると定義されるでしょう。
この点に関して言えば、崇拝行為とは従属であるとも言えるでしょう。というのもそれは本質的に言って奴隷が主人の望むままに生きることと同様に、人が神の命令に従い、神の禁じたものを避けることにより、神に対する完全な服従状態において人生を送ることを意味しているからです。全創造物は神が全ての創造に対して定めた法の中に組み込まれていることから、好むと好むまいと本質的には神のしもべなのです:
“天と地において、慈悲深き御方のしもべとして、まかり出ない者は唯の一人もないのである。”(クルアーン第19:93)
“天と地にあるものは、好むと好まざるとを問わず、只かれに服従、帰依し、かれ(の許)に帰されるのである。”(クルアーン3:83)
しかし崇拝行為と従属の違いとして、崇拝行為には愛情、畏敬の念、そして敬意が伴わなければならないという点があります。それらの感情が伴わない限り、いかに従属していたとしても崇拝行為とはみなされないのです。私たちは崇拝行為の対象を愛し、畏れ、敬意の念を抱かねばなりません。
これらの理由により、この問題を扱う際には神のみが崇拝行為を受ける権利を有することが強調されなければなりません。イスラームは最も厳格な一神教の形を維持し、神以外へのいかなるものに対しても崇拝行為を向けることを容認しません。私たちに服従を命じるのは神のみであり、私たちが敬愛する価値のあるものもアッラーだけなのです。それがいわゆる半神半人であれ、預言者であれ、天使であれ、聖人や殉教者、または彼らの遺品、偶像、肖像画であっても、神以外のいかなる妄誕無稽な“神々”への崇敬は一神教の侵害であり、それを実際に行なうのであれば、その人物はイスラームの枠組みから外れることになるのです。たとえその聖人たちの神に対する徹底した従属の功績ゆえに彼らを崇敬したのであっても、イスラームは直接・間接的、または上流・下流の崇拝行為といった区別はしないため、全ての崇拝行為、崇敬行為、忠誠、従属は神のみへと向けられなければならないのです。
▶内面的崇拝行為の形式
上記のように、神によって定められた崇拝行為とは内面もしくは外面的に行なわれるものです。内面的な崇拝行為をするということは、信念と情念によりそれを行なうということです。人間はイスラームの信仰箇条により論じられている特定の究極的真実を信じるよう命じられており、これは崇拝行為における最も重要な側面です。人が感じること、行なうことは自己の信仰に基づいています。つまり行為や感情は信仰の反映によるものなのです。もしも人の信仰が弱かったり、正しくなかったりすれば、その人は自分の感情・行動によって求める結果は出せないでしょう。例えば、もし人が単に信仰のみによって彼の犯した罪を神によって赦されるのだと誤解するのであれば、その信仰は心にあるべき望ましい感情、または畏敬の念を生み出さないばかりでなく、誠実な行動を起こすことを妨げ、犯罪を犯すことを抑止することすら出来ないでしょう。
また神は私たちに対して、神とその創造物に対して、確立された情念を維持するよう命じられました。ムスリムは神に対して愛情を持ち、畏敬の念と敬意を示し、信頼をもって崇拝しなければなりません。ムスリムは同胞を愛し、彼らに同情を寄せ、誠実さを尊び、罪を憎むことも命じられています。これらは全て根本的な戒律の履行であり、内向的崇拝行為であると見なされます。そしてムスリムはそれらの実践によって報奨を受けるのです。
コメントを付ける