恩寵・信仰・所業(3/4):神の恩寵
説明: イスラームにおける内的信仰と行いとの関係。第三部:人が天国を“獲得”するのは、内的な信念と善行のみによるものだとする間違った概念について。
- より J.ハーシミー (ゥ 2011 IslamReligion.com)
- 掲載日時 12 Dec 2011
- 編集日時 12 Dec 2011
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神の恩寵
一部の人々は、イスラームでは行いによって天国が獲得できるのだと説いていると勘違いしています。これは事実ではありません。イスラームでは、人が天国へ入れられるのは信仰によるものでも、行いによるものでもないとされます。私たちが天国へ入れられるのは、神の恩寵と慈悲によるものだけなのです。そうでないと信じることは、神の御力と完全なる王権に異議を唱えることを意味します。神こそはお赦しを授ける者であり、人が自らに赦しを与えると主張することは、神の御名と性質の一つが自らに属していると主張することです。それは自らの地位を創造主の地位に押し上げることであり、神の栄光と御力に同位者を配すること、すなわちイスラームで最も重い罪であるシルクにあたります。
この現世で家を買うには、一定の値段を支払う必要があります。より大きく、より良い家である程、その値段は高額になります。邸宅は一般住宅よりも費用がかかり、宮殿は邸宅よりも費用がかかります。天国の宮殿がいかに高くつくかは想像することもできません。もし私たちの所業が通貨となるのであれば、それをどんなに貯蓄しても、天国の敷地の1平方センチですら決して手に入れることは出来ないでしょう。人が善行を貯めることが出来ないのは、私たちが既に多大な負債を抱えていることがその理由の一つです。いかなる量の善行をもってしても、視力や聴力など、全能なる神によって私たちに与えたものを返済するようなことは出来ないのです。したがって、いかなる人間であれ、自らの徳行によって天国を勝ち取ることは出来ないという結論に辿りつくのです。
誰一人として、自らの信仰や行為をもって永遠なる救済を得ることは出来ず、それはただ神の恩寵によって与えられるのです。預言者ムハンマド(神の慈悲と祝福あれ)はこのように言っています:
“…あなたがたの内の誰一人として、自らの徳行から救済を得ることは出来ないということを承知しなさい。”
人々は彼に尋ねました:“神の使徒よ、あなたでさえそうなのでしょうか?”
預言者は応えました:“私でさえ、神の慈悲と恩寵がもたらされない限りは、そうなのだ。”
人類において最も誠実な者が、預言者ムハンマドであったということは承知の事実ですが、彼でさえ神の恩寵によってのみ天国に入るのだということを、ここで私たちは知ります。このことは、人生を通して善行をし続けたため、それによって神の恩寵抜きに天国に入ると思い込んだという、預言者の言行集(ハディース)におけるある男の逸話によってさらに明白となります。傲慢にも自らの行為によって天国が与えられると思い込んだその人物は、神の恩寵を信じなかったため、地獄に放り込まれることになったのです。
しかし、このことが信仰と行いの重要性を損なうということではありません。全能なる神は、信仰して善行する者に対してその恩寵と慈悲を与えるのだ、とムスリムは信じます。全能なる神はこのように述べています:
“かれ(神)は信仰して善行に勤しむ者に答えて、恩寵を増やされる。”(クルアーン42:26)
全能なる神は、かれの恩寵、慈悲、そして愛は“信仰”して“善行”に励む者に与えられるのだと私たちに告げ知らせます:
“信仰して善行に励む者には、慈悲深い御方は、かれらに慈しみを与えるであろう。”(クルアーン19:96)
善行に励む者を神は愛し、悪行に耽る者を神は厭うのである、とムスリムは信じます。これはキリスト教徒による、神は邪悪な者、不道徳な者、罪深い者さえも愛するという主張と相反します。この概念はバイブルの中でも否定されているものです:
“神は邪悪な者に対してはいつもお怒りである。”(欽定訳聖書 詩篇7:11)
“神に逆らう悪人の灯が消され、彼らに災いが襲い、神がその怒りをもって苦しみを与えられることが何度あろうか。”(ヨブ記21:17)
神がすべての人間を愛するという概念は、いわばネオ・ヒッピー的な理想かもしれませんが、それは神の教えによって証明されてはいません。キリスト教徒も神によって地獄が創られたこと、そして一部の人々はそこに送られることを信じています。神は、みずから地獄へと落とし永遠の罰に処する者を愛しているのでしょうか?もしそうなのであれば、それはどういった愛なのでしょうか?もし神が、罪深い者ではなく罪だけを真に厭うのであれば、地獄に落とされるのが罪ではなく、罪人なのはなぜなのでしょうか。
神が邪悪な者を愛されないことは確かです。一体どのような神がアドルフ・ヒトラー、スターリン、ファラオをはじめとする邪悪な圧制者を愛されるというのでしょう?神は殺人鬼、強姦犯や犯罪者を愛されはしません。神が邪悪な者を愛すると信じるということは、神の正義に異を唱えることなのです。神は善のみを愛し、悪を厭うのであると私たちは主張します。ただ「最も慈悲深き者」は神の性質の一つであるため、邪悪な者が真摯な悔悟によって神に向き合うのであれば、かれはすぐさまそれをお認めになるでしょう。
神によって愛でられる者は誰であれ天国に入り、真の誠実さによって信じ、善行に励む者に対し、神はその愛と恩寵を授けるということがこの問題の結論です。神が恩寵を与えるのは、それを得ようと励む者に対してのみです。神の恩寵を得ようと望みながらも自分では神の戒律に従おうとしない者が、どうしてそれを得ることが出来るというのでしょうか。
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