マーガレット・マルカス 米国出身の元ユダヤ教徒(1/5)
説明: マーガレットは、幼少期に通った日曜学校について、また全ての宗教団体を 蔑視するようになった経緯について、そして大学で取ったユダヤ教とイスラームのクラスについて語ります。
- より マーガレット・マルカス
- 掲載日時 21 Apr 2014
- 編集日時 21 Apr 2014
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Q:どのようにしてイスラームに興味を持ち始めたのか教えてください。
A: 私はマーガレット(ペギー)マルカスとして生まれました。幼少期から、私は音楽への強い関心を持ち、西側社会において洗練された文化と見なされるクラシック・オペラや交響曲が特に好きでした。学校では音楽のクラスが好きで、常に最も良い成績を収めていました。全くの偶然からラジオで耳にしたアラビア音楽をひどく気に入り、もっと聞きたいと思うようになりました。私は両親にせがんでニューヨークのシリア人街に連れていってもらい、アラビア音楽のレコードをまとめ買いしました。私の両親、親戚、隣人たちは皆、アラビア語とその音楽は酷く奇妙で耳障りであると感じ、私がレコードをかけると、彼らはそれが迷惑だと言い、私の部屋のドアと窓を閉め切るよう要求しました。私は1961年にイスラームに改宗した後、有名なエジプト人の朗誦家アブドル=バースィト師のティラーワ(クルアーン朗誦)を聞くためにニューヨークのモスクに行き、そこで魅了されたまま何時間でも座り続けることが出来ました。サラートル=ジュムア(金曜合同礼拝)では、イマームはテープを再生しませんでした。その日、特別ゲストが来たのです。ザンジバル出身の学生であると自己紹介した彼は、背が低く非常に痩せ、粗末な衣服を来た黒人の少年で、スーラトッ=ラフマーン(クルアーンの一章)を朗誦しました。私はあれ程までに見事なティラーワを、アブドル=バースィト師からでさえ聞いたことがありませんでした。彼は黄金の声を持っていました。預言者の教友で、一日5回の礼拝の呼びかけを任せられていたビラール(彼に神のご満悦あれ)は、おそらく彼のような声だったことでしょう。
私のイスラームへの関心は、10歳にまでさかのぼります。ユダヤ教改革派の日曜学校に通っていた私は、ユダヤ人とアラブ人の歴史的関係に興味を抱きました。ユダヤ教の教科書で、アブラハムはアラブ人とユダヤ人双方の父祖であることを知りました。また、その数世紀後の中世ヨーロッパにおいて、キリスト教徒による迫害に耐えられなくなった彼らはムスリム領スペインで歓迎されましたが、このアラブ・イスラーム文明の寛大さにより、ヘブライ文化の功績がピークに達するきっかけとなったのです。
シオニズムの真の性質に無頓着だった私は、ユダヤ人がパレスチナに帰還すれば、一神教の「従兄弟」との地域の密接な結び付きを強化するものだと思い込んでいました。ユダヤ人とアラブ人は結束し、中東における文化の新たな黄金時代を築き上げるのだと信じていました。
ユダヤ教の歴史への関心とはよそに、私は日曜学校を非常に嫌悪していました。当時の私は、自身をナチスによる迫害を受けたヨーロッパのユダヤ教徒と同一視しており、クラスメートたちやその両親たちが誰一人として宗教を真剣に受け止めていなかったことに衝撃を受けていました。シナゴーグでの集会で、子供たちは祈祷書に漫画本を忍び込ませたり、儀式を笑い飛ばしたりしていました。乱暴で騒がしい子供たちは教師たちの手に負えず、クラスの進行も非常に困難なものでした。
家庭内においても、宗教の実践はほとんど成立していませんでした。私の姉は日曜学校を嫌うあまり、母は文字通り彼女をベッドから引きずり出さねばならず、涙と激しい言葉の応酬抜きには家を出ることはありませんでした。最終的に、両親は音を上げて彼女が辞めることを許さざるを得ませんでした。ユダヤ教の祭日では、シナゴーグに行ったりヨム・キプールの断食をする代わり、私たちは学校を休んで家族ピクニックに行ったり、高級レストランのパーティーに参加したりするようになりました。というのも私と姉が、日曜学校がいかに酷く、私たちが悲惨な思いをしているかを両親に説得すると、両親はEthical Culture Movement(倫理的文化ムーヴメント)という不可知論者の人道団体に加わったのです。
Ethical Culture Movementはフェリックス・アルダーが19世紀末に創設した団体です。ユダヤ教の神学を学んでいたフェリックス・アルダーは、倫理的な価値観への献身こそが人為的かつ意義ある、現代世界に相応しいものであることを確信し、霊性や神学は無意味であると主張しました。私がEthical Cultureの日曜学校に11歳のときから通い始め、15歳で卒業する頃には、彼らの理念に完全に同調し、すべての伝統的・組織的宗教を蔑視するようになっていました。
私は18歳のとき、「ミツラチ・ハッツェール」と呼ばれる地元の青年シオニズム運動のメンバーになりました。しかし、ユダヤ人とアラブ人の間の敵意を煽るシオニズムの性質について知った私は、それに嫌気をさし、数ヵ月後に脱会しました。ニューヨーク大学の生徒だった20歳の頃は、選択科目の一つに「ユダヤ教におけるイスラーム」というクラスがありました。教授のラビ・アブラハム・イサク・カッチは、イスラームはユダヤ教から分派したものであるというユダヤ教の観点を生徒に説得しようとも試みませんでした。生徒たちは皆ユダヤ教徒で、彼らの多くはラビになることを目標としていました。そこで用いられた教科書は彼自身の著書で、クルアーンの節々を入念に辿り、それらがユダヤ教に依拠するものであるという説を展開しました。彼の真の目的は、ユダヤ教の優越性を生徒たちに証明することでしたが、それは私にとっては全くの逆効果でした。
私はシオニズムが、ユダヤ教における人種差別主義・部族主義的な側面の組み合わせに過ぎないものであることに気が付きました。シオニズムの指導者たちに実践的なユダヤ教徒が全くと言っていい程いないことを知った私の目に、近代の世俗・国家主義的シオニズムの信用はさらに失墜しました。イスラエルにおいてほど、正統派・伝統派ユダヤ教が強烈な蔑みの対象となっている場所は他にないのです。ほぼすべてのユダヤ教指導者たちがシオニズムの支持者であり、パレスチナのアラブ人たちに対する酷い不正に対して良心の呵責を少しも感じていないことを知った私は、心中では自分のことをユダヤ教徒であると見なすことが出来なくなっていました。
1954年のある朝、カッツ教授は授業中に、モーゼ(神の慈悲と祝福あれ)によって説かれた一神教と、彼に啓示された神の律法は、すべての高度な倫理的価値観における基盤として欠かせないものであることを、反駁不可能なロジックによって提示しました。Ethical Cultureや不可知論者、無神論者たちが主張するように、もしも倫理が真に人為的なものであるのなら、それは思いつき、便宜、状況に基づいて思い通りに変えてしまうことが出来るはずです。その結果、社会は混乱に陥り、破滅してしまうでしょう。ラビの教えるタルムードにおける来世への信仰は、単なる願望的思考ではなく、倫理的な必然性であるとカッツ教授は論じました。彼は、私たちのすべてが審判の日、現世での行いを清算されるため、そしてそれに応じて報奨または懲罰を受けるために神によって召集されるということを確信する者たちだけが、儚い欲望を犠牲にし、不滅の善を手に入れるため困難を耐え得る自己修養を有しているのだと述べました。
マーガレット・マルカス 米国出身の元ユダヤ教徒(2/5)
説明: マーガレットはユダヤ教徒のクラスメートがイスラームに改宗したこと、そして彼女自身もそれに続いたことを述べます。
- より マーガレット・マルカス
- 掲載日時 21 Apr 2014
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私がゼニータと出会ったのは、カッツ教授のクラスでした。彼女は私が出会った中でも最も風変わりで、魅力的な女の子でした。私は初めてカッツ教授のクラスに入ったとき、空席を探して教室内を見回しましたが、隣り合う2席をみつけた内、片方には綺麗に製本されたユースフ・アリー訳の注解付きクルアーン英訳の全3巻が置かれていました。私はそこに座ると、その本の所有者が誰なのか凄く気になっていました。ラビ・カッツの授業が始まる直前、色白で背の高く、痩せた赤毛の女の子が私の隣に着席しました。彼女の見た目は非常に特徴的だったため、私は彼女がトルコやシリアなどの近東諸国の出身ではないかと推測しました。他の生徒達の大半は、ラビになることを目指す正統派ユダヤ教の黒い帽子をかぶった青年たちでした。私たち2人は、クラスの中の紅一点でした。その日の午後、図書館を出るときに彼女は私に自己紹介をしました。彼女は正統派ユダヤ教の家庭に生まれ、両親は1917年の十月革命の数年前、迫害を逃れてロシアからアメリカに移住したのだと言いました。私は彼女の英語に微妙な訛りがあることに気付きました。彼女は、自分の家族とその友人たちは、イディッシュ語だけを使っており、彼女自身は公立校に入るまでは全く英語を学んだことがなかったと言いました。彼女の名はゼニータ・リーバーマンだったものの、アメリカ化するために、両親が性をリーバーマンからレーンに変えたことを話しました。父親によって幼少の頃からヘブライ語の手ほどきを受け、学校でもそれを学んだ彼女は、現在は時間さえあればアラビア語の勉強に励んでいると言いました。しかし、私はそのクラスの全課程を修了したものの、彼女は途中で全くの予兆なく出席を止め、二度と戻ってきませんでした。数カ月が経ち、私がゼニータのことを忘れかけていたとき、突然彼女は電話をかけてきて、メトロポリタン美術館で特別展示中の、精巧なアラビア書道とクルアーンの初期の彩飾写本を一緒に見に行かないかとせがんできました。美術館での鑑賞中、彼女はパレスチナ人の友人を証人として、イスラームに改宗していたことを私に告げました。
私は尋ねました。「なぜムスリムになることを決めたの?」彼女は、重度の腎臓炎を発症して病床にあったため、カッツ教授のクラスに出席できなかったことを明かしました。その症状はあまりにも致命的だっため、両親は彼女が生き延びることが出来ないと思っていたそうです。「ある昼下がり、高熱で苦しんでいたとき、私はベッドの隣においていた聖クルアーンを手に取って朗誦しはじめると、それは私の心を強く揺さぶって、私はむせび泣いたのだけど、そのとき自分の回復を確信したの。ベッドから立ち上がれる程良くなると、私はすぐに友人のムスリムを2人呼び出して「シャハーダ」、つまり信仰宣言をしたのよ。」
私はゼニータとシリア料理のレストランで食事をするようになり、その風味に虜になりました。お金に余裕のあるときはクスクス(地中海料理)や、羊のローストにライス、またはジューシーなミートボールの浮かぶスープにピタパンをつけて食べたりしました。また、あまりお金のないときはアラビア式にレンズ豆とライス、または黒豆、にんにく、玉ねぎのふんだんに入った「フール」と呼ばれるエジプトの国民的料理を食べました。
カッツ教授が授業中に教えていたように、私は頭の中で旧約聖書とタルムードで読んだものと、クルアーンとハディースによる教えを比べ、ユダヤ教というものが非常に不完全なものだと気付いたため、イスラームに改宗することにしました。
Q:あなたがムスリムたちから受け入れられないことを危惧したことはありませんでしたか?
A:私のイスラーム、そしてイスラーム的価値観への傾倒は、私の知るユダヤ人たちを激怒させました。彼らは私が最悪の方法で彼らを裏切ったのだと見なしました。「そのような評判は、ただお前の先祖代々の家系に恥を塗り、人々からの憎悪の対象となるだけなのだぞ」と彼らは私に告げました。彼らは、たとえ私がムスリムになろうとしても、決して彼らからは受け入れられることはない、と警告しました。私はムスリムによって、自分のユダヤ教徒という出自から汚名を着せられたことは一度もなかったため、そうした危惧は全く根拠のないものだったことが証明されました。私はムスリムになってすぐ、すべてのムスリムたちから彼らの一員として熱烈な歓迎を受けたのですから。
私がイスラームに改宗したのは、自分の家系や人々を嫌っていたからではありません。それは実現すべき欲求の拒否ではありませんでした。私にとって、それは偏狭さから躍動的かつ革命的な信仰への移行だったのです。
Q:あなたがイスラームについて学ぶことを家族は反対しなかったのですか?
A:私は1954年からムスリムになりたいと思っていましたが、家族は私の説得に成功していました。ユダヤ教やキリスト教と違い、イスラームはアメリカ社会の一部ではないことから、それは人生を困難にさせると私に警告されていました。また、イスラームは私を家族やコミュニティから孤立させるとも告げられていました。当時、私の信仰心はそれらのプレッシャーに耐え得るほどのものではありませんでした。こうした内的な確執もあって私は病を患い、大学を中退せざるを得ませんでした。その後の2年間、私は個人的なメディカルケアのもとに家に閉じこもっていましたが、病気は悪化の一途を辿りました。1957〜1959年の間、私は両親によって病院に閉じ込められていましたが、もし退院出来るまでに回復したのなら、私はイスラームに改宗することを誓いました。
退院が許された後、私はニューヨーク市でムスリムに会うことの出来るあらゆる機会を探索しました。幸いなことに、期待を上回る程の洗練されたムスリム男女に会うことが出来ました。また、私はムスリムの雑誌に記事の投稿を始めました。
Q:あなたがムスリムになった後の両親と友達の反応はどうでしたか?
私はイスラームに改宗すると、それ以外のことを考えたり話したり出来なかったため、両親、親族、そして彼らの友人たちは私を狂信者と見なしました。彼らにとって宗教とは、純粋に個人的な関心事に留まるべきもので、趣味などと同様の文化的活動の一部でなければならなかったのです。しかし、私は聖クルアーンを読んだ途端、イスラームは趣味などではなく、生き方そのものであることを確信したのです。
マーガレット・マルカス 米国出身の元ユダヤ教徒(3/5)
説明: マーガレットは、クルアーンが彼女の人生に与えた影響について語ります。
- より マーガレット・マルカス
- 掲載日時 28 Apr 2014
- 編集日時 28 Apr 2014
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Q:どのような形で、聖クルアーンはあなたの人生に影響を与えたのですか?
ある夕方、私が寝不足でひどく疲れていたとき、部屋に来た母が、図書館ヘ行くから何か欲しい本はないかと聞いてきました。そのとき私は聖クルアーンの英訳があるかどうか見てきてくれないかと頼みました。数年に渡るアラブへの情熱、そして彼らに関するすべての図書館の本を読み尽くした後も、なぜかそれまでは聖クルアーンについて読んでみようとも思わなかったのです。母はその一冊を手に帰宅しました。私は嬉しさのあまり、文字通り彼女の手からそれをもぎ取り、一晩中読み漁りました。そこには幼少の頃から慣れ親しんだ、バイブルの逸話があちこちにありました。
8年間の初等学校、4年間の中等学校、そして1年間の大学生活において、私は英文法・作文、現代フランス語、スペイン語、ラテン語、ギリシャ語、算数、幾何学、代数、ヨーロッパとアメリカの歴史、初等科学、生物学、音楽、美術を習いましたが、神については全く習わなかったのです。私による神への無知さは、ペンフレンドだったパキスタン人の弁護士との対話のなかで、私が無神論者なのは「神が天の王座に腰をおろす、長く白い髭をはやした老人だということを信じることが出来ないから」と告白させたほどでした。そのようなでたらめをどこで学んだのかと聞かれた私は、ライフ誌でミケランジェロの「創造」と「原罪」の、システィーナ礼拝堂の描写で見たのだと答えました。私はメトロポリタン美術館で友人と見た、老人としての神の肖像画や、キリストの十字架の絵画について説明しました。聖クルアーンにはこのように述べられています。
“アッラー、かれの外に神はなく、永生に自存される御方。仮眠も熟睡も、かれをとらえることは出来ない。天にあり地にある凡てのものは、かれの有である。かれの許しなくして、誰がかれの御許で執り成すことが出来ようか。かれは(人びとの)、以前のことも以後のことをも知っておられる。かれの御意に適ったことの外、かれらはかれの御知識に就いて、何も会得するところはないのである。かれの玉座は、凡ての天と地を覆って広がり、この2つを守って、疲れも覚えられない。かれは至高にして至大であられる。”(クルアーン2:255)
“しかし信仰のない者は、そのすることなすこと、砂漠の中の蜃気楼のようなもので、渇き切った者には水だと思われる。だがやってくれば何も見出せない。そこではアッラーの御前であり、かれの勘定が払われることを知るであろう。アッラーは清算に迅速であられる。また(不信者の状態は)、深海の暗黒のようなもので、波がかれらを覆い、その上に(また)波があり、その上を(更に)雲が覆っている。暗黒の上に暗黒が重なる。かれが手を差し伸べても凡んどそれは見られない。アッラーが光を与えられない者には、光はない。”(クルアーン24:39−40)
聖クルアーンを読んだ後の私の最初の感想は、これは完全に真摯かつ誠実で、それは安っぽい妥協や偽善を一切許さない唯一の真の宗教に違いない、というものでした。
1959年、私は余暇の殆どをニューヨーク公立図書館での読書に費やしていました。私はそこでミシュカート・アル=マサービーフの英訳全4巻を見つけました。それによって、私は聖クルアーンの正しく詳細な理解は、それに関連したハディースの知識なくしては可能ではないということを知ったのです。聖典の正しい解釈は、それが啓示された預言者以外には出来ないのです。
ミシュカートを勉強した私は、聖クルアーンを神の啓示として認め始めました。クルアーンが神によるものであり、ムハンマド(神の慈悲と祝福あれ)による創作ではないことを納得させたのは、そこ以外では見つけることの出来なかった、人生における重要な諸問題への納得のいく答えでした。
子供だった私は、死を異常なまでに恐れていました。特に自らの死については悪夢を見る程で、夜中に泣きじゃくりながら両親を起こしに行くこともありました。なぜ死ななければならないのか、そして死んだ後には何が起こるのかを彼らに問うと「それは避けられない運命だから受け入れるしかないんだよ。でもお前はまだとても若いし、医学は常に進歩し続けているから、ひょっとすれば100歳まで生きられるかもしれないよ」と言いました。両親、家族、そして私たちの友達は皆、来世を迷信とし、審判の日、天国での報奨または地獄での懲罰を時代遅れの概念と見なして頭ごなしに否定しました。私は来世の概念についての明確な根拠を求めて旧約聖書の全章を探しましたが、その努力は徒労に終わりました。そこでの預言者たち、長老たち、賢人たちは皆、現世でのみ報奨と懲罰を受けています。ヨブ(アイユーブ)の逸話はその代表格です。神は彼の愛する人々、所有物をすべて破壊し、さらに恐ろしい病によって彼の信仰を試しました。ヨブは悲しみのなかで、なぜ誠実たる者が苦しまなければならないのかと嘆きました。その逸話の最終的に、神は彼の現世での損失をすべて回復させますが、そこでは来世での帰結の可能性についてはまったく言及されていないのです。
マーガレット・マルカス 米国出身の元ユダヤ教徒(4/5)
説明: マーガレットは、クルアーンが彼女の人生に与えた影響について、そしてユダヤ人とアラブ人の関係について自身の見解を述べます。
- より マーガレット・マルカス
- 掲載日時 28 Apr 2014
- 編集日時 28 Apr 2014
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新約聖書では来世が言及されているのを見つけましたが、聖クルアーンにおけるものと比較すると、それは曖昧で漠然としたものです。死の問題については、タルムードで「最悪な人生の方が死よりもましである」と説かれているように、正統派ユダヤ教からは答えを見出すことが出来ませんでした。私の両親は、死について考えることを避け、可能な限り人生の今を楽しむべきだという刹那主義の持ち主です。彼らによると人生の目的とは自己実現、家族愛、気心の知れた友人たちとの付き合いに加え、快適な暮らしとアメリカが豊富に提供する様々な娯楽を楽しむことによって達成されるということでした。彼らは意図的にこうした人生への表面的なアプローチを、それがあたかも持続する幸福と幸運の鍵であるかのように教化したのです。私は自身の苦い経験から、放蕩な人生は惨めさに直結し、逆境における努力と自己犠牲なくしては何一つとして偉大さ、または価値あることが達成されないことを学びました。私は幼少の頃から、重要で有意義なことを達成したいと願ってきました。私は死ぬ前に、自分の人生を罪深い行いや無価値な追求によって無駄にはしなかったという確証が何よりも欲しかったのです。私はこれまで非常に真剣に生きてきました。私は現代文化において優勢的な特質である、軽薄さというものを常に嫌悪してきました。私の父は、彼自身の気まぐれな確信を私に押し付け、「現代におけるすべてのものはその時々の情勢を不可避のものとして受け入れてそれに適応しているため、不変的な価値などは存在しないものだ」と言って私をいらつかせました。しかし私は、永続的な何かを見つけ出したいと願い続けてきました。私は聖クルアーンから、こうした切望が実現することを学びました。神のご満悦を求めつつ行う善行は、決して無駄にもならず、失われもしないということです。それを行う者が現世的な認知をされるに至らずとも、その報奨は来世において確実なのです。反対に、私利私欲や社会的な認知以外の倫理に従わず、自由奔放な生き方を追求する者たちは、たとえ現世的な成功を収め、束の間の繁栄を享受していたとしても、審判の日には損失者として破滅を迎えるのだとクルアーンは私たちに告げるのです。イスラームは、私たちが神、そして同胞への義務を果たすことを望むのであれば、そのためにはあらゆる空虚かつ無益な活動を放棄しなければならないと説きます。ハディースによってさらに明瞭となる聖クルアーンによるこれらの教えは、私の気質にぴったりと合うものでした。
Q:あなたがムスリムになった後、アラブ人への意見はどのようになりましたか?
A:時の経過と共に、アラブ人がイスラームを偉大なものとしたのではなく、イスラームがアラブ人を偉大なものとしたということを徐々に実感するようになりました。聖預言者ムハンマド(神の慈悲と祝福あれ)なくしては、アラブ人は今では名もなき民族だったことでしょう。そして同様に、聖クルアーンなくしては、アラビア語は消滅したか、取るに足らない言語だったことでしょう。
Q:ユダヤ教とイスラームの類似性について教えてください。
A:ユダヤ教とイスラームのつながりは、イスラームとキリスト教のそれよりも強いものです。ユダヤ教とイスラームはどちらも妥協なき一神教を貫き、創造主への服従と愛情の根拠として神の律法に厳格に従う重要性を説き、聖職者の存在を否定し、禁欲生活を勧め、ヘブライ語とアラビア語にも著しい類似性があります。
ユダヤ教において、宗教は民族主義と混同されており、多くの人々は2つの違いを識別することが出来ません。「ユダヤ教」は、ユダ族に由来する名称です。ユダヤ人は、ユダ族の一員なのです。この宗教の名称は、普遍的な精神的教えとは無関係なものです。ユダヤ人は神の唯一性を信じることによってユダヤ人となるのではなく、ユダヤ人の血筋によってそうなるだけなのです。もし、あるユダヤ人が歯に衣着せぬ無神論者になったとしても、ユダヤ人同胞の間ではユダヤ人であり続けるのです。
この宗教は民族主義によって完全に蝕まれ、あらゆる面において精神的な豊かさを失ってしまいました。彼らの神は、人類全体の神ではなく、イスラエルの神なのです。彼らの啓典は全人類に向けた啓示ではなく、主にユダヤ人の歴史書なのです。ダビデとソロモン(彼らに神の慈悲と祝福あれ)は神の預言者ではなく、ユダヤ人の王に過ぎません。ヨム・キプルを例外として、ハヌカー、プーリーム、ペサハなどの祝祭日は宗教的なものというよりも、国家的側面の方がはるかに強いのです。
マーガレット・マルカス 米国出身の元ユダヤ教徒(5/5)
説明: ユダヤ教徒へのイスラーム宣教、そしてマーガレットの人生におけるイスラームの影響について。
- より マーガレット・マルカス
- 掲載日時 05 May 2014
- 編集日時 05 May 2014
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Q:これまで他のユダヤ教徒たちとイスラームについて話す機会はありましたか?
A:一つ、印象深い出来事として、あるユダヤ教徒の紳士とイスラームについて話し合うことのできた機会がありました。ニューヨーク・イスラミック・センターの、ショレイバ博士が特別な来客者に私を紹介してくれたときのことです。ある金曜礼拝の後、私はイスラームについて質問するために彼のオフィスを訪れたのですが、私が「アッサラーム・アライクム」と挨拶しようとするやいなや、彼の前にもみ上げを伸ばし、広いつばをした黒帽を被り、黒いシルクのカフタン長衣をまとい、ふさふさした濃い顎髭を生やした超正統派であるハシディーム派ユダヤ教徒が座っていたのです。彼の腕には、イディッシュ語の新聞The Daily Forwardが挟まれていました。彼はサミュエル・コステルウィッツと名乗り、ニューヨーク市でダイヤ切りとして働いていると言いました。彼曰く、彼の家族の大半はブルックリン・ウィリアムズバーグのハシディーム派コミュニティに住んでいるとのことでしたが、イスラエルにも多くの親戚や友人たちが住んでいるとのことでした。ルーマニアの村で生まれた彼の家族は、第二次世界大戦が勃発する直前、ナチスによる迫害を逃れてアメリカに移り住んだのだと言いました。私はどうして彼がモスクに来たのか聞いてみました。彼は5年前に母親を亡くして以来、耐え難い程の悲しみに明け暮れていることを告げました。彼はシナゴーグで、悲しみの慰めや癒しとなるものを求めたそうですが、ウィリアムズバーグにおける超正統派のコミュニティでさえ、多くの恥知らずの偽善者たちがのさばっていることを知った彼は、そうすることも出来ませんでした。最近イスラエルへ旅したことは、彼をこれまでになく激しく幻滅させました。彼はイスラエル人の信仰心の無さにショックを受け、若いサブラ(イスラエル出身者)たちのほぼ全員が好戦的な無宗教者だったことを私たちに告げました。彼が訪れたキブツィーム(集合農場)で豚の大群を目にしたとき、彼はぞっとしてこう声を上げたそうです。「ユダヤ教国家に豚とは!ここに来るまで、こんなことがあるとは思っても見なかった!」彼は私たちにこう言いました。「そしてイスラエル在住の罪のないアラブ人たちへの残虐な仕打ちを目撃した私は、イスラエルとナチスには違いなどないことを確信したのです。神の名において、そうした恐ろしい犯罪を正当化することは、私には決して、決して出来ませんでした!」それから彼はショレイバ博士の方を向き、彼がムスリムになりたいということを伝えましたが、正式に改宗するという後戻りできない一歩を踏み出す前に、イスラームの知識をもっと得たいということでした。彼はオリエンタリア書店でアラビア語文法の本を購入し、アラビア語を独学していたと言いました。彼は自らのたどたどしい英語について私たちに謝罪しました。イディッシュ語が彼の第一言語で、ヘブライ語が第二言語だと言いました。彼らの間では、家族や友人間でイディッシュ語のみが使われていたそうです。彼は英語を読むことが殆どできなかったため、良質のイスラーム文献に当たることができませんでしたが、英語辞典を使い、彼がそれまで読んだ中でも最も素晴らしい本だったと称賛する、パリのムハンマド・ハミードッラー著「イスラーム概説」を苦労して読んだそうです。ショレイバ博士同席のもと、コステルウィッツ氏とさらに一時間を過ごし、バイブルにおける長老・諸預言者の逸話と、聖クルアーンのそれを比較しました。私はノアの泥酔、ダビデの姦通、ソロモンが多神崇拝したとされる、バイブルの矛盾・改ざん部分を指摘し、そして聖クルアーンがそれらの長老たちを正式な預言者たちの階級に上げ、神がそれらの犯罪から彼らを遠ざけたのだということを説明しました。また私は、神がアブラハムに犠牲として捧げることを命じたのは、なぜイサクではなくイシュマエルだったのかについて説明しました。バイブルで神はアブラハムにこう告げます。「汝の息子、汝の愛するただ一人の息子を連れ、彼を燔祭としてわれに捧げるのだ」イシュマエルはイサクの13年前に生まれましたが、ユダヤ教バイブルの注解者たちは、イシュマエルの母であるハガルがアブラハムの妾に過ぎず、正式な妻ではなかったと言って彼女の地位を貶め、イサクこそがただ一人の正当な息子であると主張するのです。しかしイスラームの伝承において、ハガルはサラ同様、正式な妻としての地位を得ています。コステルウィッツ氏は私に、長い時間を費やしてくれたこと、そしてそれらの真実について教えてくれたことに対して深い感謝の念を表してくれました。その謝意を表すため、彼はショレイバ博士と私を彼の行きつけのコーシェル・デリ(ユダヤ教の食戒律に従った食堂)での昼食に誘うといって譲りませんでした。コステルウィッツ氏は、何よりもイスラームに改宗したいと私たちに言いましたが、彼の家族や友人たちから受けることになる迫害に耐えることが出来ないようになることを怖れていました。私は彼に神による助力を祈るよう言い、彼はそれを約束しました。彼が去ると、私は彼のような紳士的で親切な人物と会話が出来たことを光栄に思いました。
Q:イスラームがあなたの人生に与えた影響とは何でしょうか?
A:イスラームによって、絶対的価値を求める私の探求心は満たされました。私はイスラームから、真実・善良で美しいもの、そして人の生死に意義と指針を与えるものを見いだしましたが、他の宗教において真実は歪曲され、制限され、断片的にか見いだせません。どうやってそれを知ることが出来たのかと誰かが問うのであれば、私にはそれが個人的に人生の教訓から学び、確信を得たものであるとしか言うことが出来ません。それゆえ、私がイスラームの信仰に従おうと思ったのは、冷静ながらも強い信念の伴ったものでした。私はイスラームというものを知る前から、気質の面では常にムスリムであり続けてきたと思っています。私の改宗は、自らの心持ちを根本的に変えてしまうようなものではなく、長年に渡って想い続け、切望し続けてきたものをおおやけなものとする、主に形式上の手続きに過ぎないことだったのです。
典拠:The Islamic Bulletin, San Francisco, CA 94141-0186
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