わが慈悲、わが怒りに優れり(1/2)
- より ハラー・サラー(Reading Islam)
- 掲載日時 06 Dec 2009
- 編集日時 21 Oct 2010
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“率先して赦し、敢えて懲らしめない”とは、慈悲という言葉においてよく使われる定義ですが、イスラームにおける慈悲とは一体何なのでしょうか?
イスラームでは慈悲に深い意味が与えられており、それは全ムスリムの人生において重要な一側面を形成しています。というのもムスリムは慈悲を示すことにより、神からの報奨を受けるのです。
あらゆる創造物に授けられている神の慈悲は、私たちが目にする全てのものに見出すことが出来ます。生命の維持に必要な光と熱をもたらす大陽や、空気、水などがその良い例です。
聖クルアーンには、一章まるごとが神の非凡なる性質の一つであるアッ=ラフマーン(慈悲あまねく者)と名付けられている章もあります。また神の属性の内の二つは慈悲という語彙から派生しています。それらは「慈悲あまねきもの」を意味するアッ=ラフマーンと、「慈愛深きもの」を意味するアッ=ラヒームです。これら二つの属性はクルアーンの中で、「慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名において」という句として、実に113章に渡って使用されています。この句は聖クルアーンの読み手に対し、神の無限なる慈悲と大いなる恩恵を常に思い起こさせるのです。
神は、私たちが罪を犯したとしても、悔い改めて同じ間違いをしないと誓うのなら、その罪は赦されることを約束されています:
“汝らの主は、慈悲を御自分の務めとされる。それで汝らの中、無知で悪事を行った者も、悔悟してその身を修めるならば(許される)。本当にかれは寛容にして慈悲深くあられる。”(クルアーン6:54)
この節は、預言者ムハンマドが証言した神の言葉(ハディース・クドスィー)により強調されています。
“わが慈悲は、わが怒りに優るのである。”
同様に、親切さと同情心は預言者ムハンマド自身によって強調されています:
“慈悲深い者は、慈悲あまねき御方から慈悲を受ける。地上の人々に慈悲を示しなさい。そうすれば天の御方はあなたに慈悲をお恵みになるだろう。”(アッ=スユーティー)
預言者による慈悲
預言者ムハンマドによる慈悲に関して最も良い例は、神ご自身が彼に関して語った御言葉から見て取れます。
“われらが汝を遣わしたのは、ただ全世界への慈悲のために他ならない。”(クルアーン21:107)
これはイスラームが慈悲を基礎として成り立っていること、そして神が預言者ムハンマド(彼に神の慈悲と祝福あれ)を遣わしたのは、全ての創造に例外なく注がれる慈悲であるということを明確にしています。
神はクルアーンにおいてこう述べられています:
“今まさに、使徒が汝らの間から汝らのもとに現れた。彼は汝らの悩みごとに心を痛め、汝らのためにとても心配する。彼は信仰者に対して優しく、情け深い。”(クルアーン9:128)
これらの節々は神の教えの伝道に際し、数々の困難を経験した預言者の礼節、振る舞いにはっきりと表れていました。また預言者は人々を導くことに関して最も親切であり、人々から危害を蒙った時にはいつでも彼らの無知と冷酷さの赦しを神に乞い求めていたのです。
預言者の教友たち
神は、教友たちについてこう述べられています:
“ムハンマドはアッラーの使徒である。彼と共にいる者は不信心の者に対しては強く、挫けず、お互いの間では優しく親切である。”(クルアーン48:29)
一部の人々は、預言者であるムハンマドは品行方正であって当然だと見なすかもしれません。しかしその教友たちは、人生を神と預言者に献身をした普通の人間でした。例えばアブー・バクル・アッ=スィッディークは神ゆえに、彼自身の財産をもって奴隷たちをその粗暴な主人たちから解放したのです。
ある時、預言者は彼の教友たちに正しい慈悲の概念について説明しました。彼はその時、それは自らの家族や友人たちのみに向けられるものではなく、知っている者にも知らない者にも等しく示される、一般民衆に向けられた慈悲と同情心であると述べています。
“小さな”慈悲
イスラーム以前には心無い伝統として、神々に対する自らの子供の生け贄や、女児の生き埋めの風習などがありました。子供たちに対するこれらの行為はクルアーンと預言者のスンナによって何度も厳しく禁じられています。
預言者による子供たちへの慈悲に関しては、こんな話があります。ある時彼が礼拝を先導していた時、当時まだ幼い子供だった孫のアル=ハサンとアル=フサインが彼の背中によじのぼって遊んでいました。起き上がった際に彼らが怪我することを恐れた預言者は、彼らが下りるまでサジダ(跪礼)を引き延ばしたのです。他にも預言者は、彼の孫娘であるウマーマを抱き上げたまま礼拝を行なったりもしていました。
このような預言者の優しさは、彼の子供たちだけでなく、道端で遊ぶ子供たちにも及びました。子供たちは預言者を目にするやいなや彼のもとへと駆け寄り、彼はにっこりと両手を広げて彼らを歓迎したものです。
更には礼拝の最中でさえ、預言者の生来の優しさは表れていました。彼はある時、このように述べました:
“私は礼拝を長く行なおうと意図して立ったが、一人の子供の泣き声を聞き、礼拝を短めにした。その泣き声が子供の母親の感情に影響することを知っているからだ。”(サヒーフ・アル=ブハーリー)
また多くの場面において、預言者は私たちに、いかに子供たちが愛情をもって育てられるべきか、そして彼らが体罰されるべきでなく、頬の平手打ちなどの屈辱的な仕打ちも受けるべきではないことを教えています。ある時一人の男性が、預言者が彼の孫に口づけするのを見て驚き、こう言いました:“私には十人の子がありますが、その内の誰一人にも口づけなどしたことはありません。”預言者はこう答えました:
“慈悲を与えない者に、慈悲は与えられないだろう。”(サヒーフ・アル=ブハーリー)
頭を撫でること
神は孤児たちに関して述べられています:
“だから孤児を虐げてはならない。”(クルアーン93:9)
預言者は孤児に対してこの節の通りに振る舞い、こう言っています:
“孤児の世話を見る者と私は、このように楽園に入る。”そう言って預言者は人差し指と中指を合わせました。(アブー・ダーウード)
預言者は、孤児が愛されているということを感じることの出来るよう、また両親が彼への愛情を失ってしまった時でも、まだ彼を愛し世話する人々がいることを知らしめるため、孤児の頭を撫でれば、その髪の毛の一本一本から報奨を受けるのだとして、彼らへの優しさを推奨しました。
また孤児の財産の保護は、神と預言者によって明確にされています。神はこのように述べられています:
“孤児の財産を不当にむさぼる者は、ただ腹の中に火を食らう者である。彼らはやがて業火によって焼かれよう。”(クルアーン4:10)
また預言者のハディースでは、七つある大罪の内の一つとして、孤児の財産をむさぼることことが挙げられています。
わが慈悲、わが怒りに優れり(2/2)
- より ハラー・サラーハ
- 掲載日時 06 Dec 2009
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たとえ戦時でも
イスラームにおける慈悲は、戦時であれ和平であれ、敵側にまで及びます。預言者ムハンマドは彼の教友たちに対して、まだ不信仰者であった親族に対し、イスラームへの呼びかけや、贈り物をするなどしてその絆を保つよう勧めたからです。
また神はムスリムに対し、もし敵が戦時中に自陣に避難して来た場合、その要求に答えるよう命じられています。クルアーンでは次のように述べられています:
“もし多神教徒の中に、汝に保護を求める者があれば保護し、アッラーの御言葉を聞かせ、その後彼を安全な所に送れ。これは彼らが、知識のない民のためである。”(クルアーン9:6)
また預言者に関しては、彼が教友たちに対して老人や負傷者、女性、子供、そして崇拝の場にいる人々に危害を加えることを禁じたことが知られています。また戦地を破壊することも禁じられました。また敵の死体を損傷することは厳しく禁じられており、敬意をもって速やかに埋葬することが命じられています。
預言者による捕虜に関する命令は、彼の教友たちによって厳正に実践されました。ある捕虜によって伝えられた逸話には、戦闘の際にムスリムによって捉えられた際の捕虜の状況が述べられています。彼はあるムスリム一家と共に過ごし、彼らは食事の時間になると、彼(捕虜)にパンを与えて優待しましたが、彼ら自身はナツメヤシしか食べなかったのです。
他にも、預言者(彼に神の慈悲と祝福あれ)がクライシュ族との争いにおいて勝利した暁にマッカへ無血入城した際、彼は彼らに近づいて、こう尋ねました:
“あなた方は、私にどのような対応を望むのか?”
彼らは答えて言いました:“あなたは高貴な兄弟であり、高貴な兄弟の息子でもあります。我々はあなたから善い事しか期待していません。”
それから預言者は宣言しました:“私はユースフ(預言者ヨセフ)が彼の兄弟たちに対して言ったことと同じことを言おう:
“今日あなた方を、(取り立てて)咎めることはありません。アッラーはあなた方を御赦しになるでしょう。かれは慈悲深き御方の中でも最も優れた慈悲深き御方であられます。”(クルアーン12:92)
行きなさい、あなた方は自由の身なのですから。”
寛容さや慈悲が全く予想されなかったこの日、預言者はイスラームの教えが伝道され始めて以来十三年間にも渡って続いたムスリムたちへの残酷な虐待と追放の数々を恩赦し、全ての捕虜の身代金を受け取ることなく無条件で解放することにより、慈悲と寛大さの模範を示したのです。
神のあらゆる創造物に対する慈悲
動物たちもまた、イスラームにおいて多くの権利を享受しています。例えば預言者は顔に烙印を押されたロバを見かけた時、こう言いました:
“あなたは、動物の顔に烙印を押す者、またはその顔を殴る者を私が呪ったのを耳にしなかったのですか?”(サヒーフ・ムスリム)
また預言者はある時、猫を閉じ込めたまま餌を与えず、猫が自分で獲物を捉える事さえも禁じた女性が、その行為によって地獄に送られた逸話を語りました。そしてその一方で、砂漠で喉の渇きゆえに喘いでいた犬に水を与えた男が、その行為によって天国に入れられたことも語っています。
また預言者は、屠殺される動物の目前で刃物を研ぐ事を禁じています。またこれから屠殺しようとする動物の前で、他の動物を屠殺する事も禁じられました。この事実は預言者による次のハディースにおいて明確にされています。
“神は全てのことにおける慈悲を呼びかけられている。だから殺生する時、屠殺する時は慈悲深くありなさい。苦しみを和らげるため、刃物は研いでおくようにしなさい。”(サヒーフ・アル=ブハーリー)
また教友たちの一人は、ある事件についてこう伝承しています:彼らが預言者と旅路にあった時、ひな鳥と一緒にいた親鳥を見つけ、それらを親鳥から取り上げました。すると親鳥が追いかけて来て両羽をばたつかせたので、預言者はこう言いました:
“この鳥の子供を取り上げて、それを悲しませているのは誰か?直ちにそれらを親元へ返してあげなさい。”(サヒーフ・アル=ブハーリー)
動物の権利は預言者によって確証されています。彼は、生き物を標的にする者は誰であっても呪われると言いました。また、動物たちにも感覚が備わっているゆえ、それらを血まみれになるまで喧嘩させることは、その苦痛ゆえに固く禁じられています。
イスラームにおける慈悲の概念は包括的なものであり、あらゆる創造が自分たちの間において、そして神に対しても繋がっているのだという相互関連を強調します。慈悲は神を起源とし、かれによりあらゆる生物に与えられています。動物は人間と同様にお互いに慈悲を示し、他者と調和の取れた共存をし、このような慈悲を示すことによって、それら自身も神による更なる慈悲を与えられるのです。こういったイスラームの観点は人々の間にある障壁を取り除くことを促しており、それは同様に、生命と文明の根底に築かれた基礎でもあるのです。
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