マリア 米国出身の元カトリック信者(上):生い立ち

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説明: 驚くべき夢が、マリアが神を信仰する引き金となり、いかに神を探し求めるかという明白なしるしとなります。

  • より マリア
  • 掲載日時 23 Jun 2014
  • 編集日時 23 Jun 2014
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Maria__Ex-Catholic__USA_(part_1_of_2)_-_Early_Life_Setup_001.jpg私の名前がマルヤム・アル=マハディーヤです。これは私のボーンネームではなく、イスラーム改宗の際(1992年)に選んだムスリム名です。私のボーンネームであるキリスト教名は、マリア(アラビア語ではマルヤム)です。私のイスラームへの改宗記を皆さんとシェアしたいと思います。イスラームへのよりよい理解を期待しつつ。

私の改宗記は、人生の区切りに分けて構成されます。

·クリスチャンとしての成長期(幼少期)

·背信(10代)

·真実の探求(20代)

·始まり(30代)

·帰省(40代以降)

クリスチャンとしての成長期――幼少期

私はカトリックの伝統に基づいて育てられました。カトリックの小学校ではカトリック教会の信条を学び、初聖体拝領を受け、聖人にちなんだカトリック・ネームをもらいました。また懺悔をし、カトリック信者として育つにあたっての全ての重要なステップをふみました。私は良い人物であるよう最善を尽くし(そうでない場合に神によってもたらされる懲罰をとても怖れていたため)、実際にそうでしたし、それらの年月を通して相当な罪の意識を発達させました。私に教育を施した修道尼たちは厳格で、私はなぜ「キリストの花嫁たち」として形容される彼女らが、いつも苛立ったり怒ったりしていたのか理解出来ませんでした。私は毎年の夏休みには、南部に住む母方の家族を訪れていました。祖父は一時バプティストの神父を務めていた程だったので、母はバプティストの伝統と環境のもと育ちました(父がカトリックなので、母は結婚の際にカトリック教会に改宗しなくてはなりませんでしたが)。そのため、南部に行った際は教会とバイブル学校へ行き、アンティーク・オルガンを囲んでキリスト教の賛美歌を歌いました。叔母が演奏し、私と従兄弟が一緒に気持ちを込めて歌ったものでした。それはいい思い出でしたし、当時のキリスト教的な教育は楽しい、快適なものでした。こうして年月が経ちました。学期中は実家で過ごし、夏休みを南部で過ごしていました。私の宗教的生活は二重の人生でした。当時を思い起こすと、カトリックとバプティストの伝統の間の唯一の共通点は、イエス(彼に平安あれ)に関する基礎だけでした。それ以外については、2つの異なった世界でした。

背信――10代

私の少女時代は容易ではありませんでした。家族問題の酷さから、それはある日、神は存在しない(あるいは、最低でも神が存在したとしても、私のためには何もしてくれない)という結論に達した程でした。その日、私は夜にベッドに横たわり、そうした実感と共に目を覚ましたことを覚えています。突然、巨大な空虚さが私を襲いましたが、それが真実なのであれば、それを受け入れなければならないと私は自分に言い聞かせました。当時の理解力では、それが私にとっての真実だったのです。10代後半になると、私は探求を始めました。その当時、家族は宗教の実践をほぼ完全に放棄するようになっており、私は教会に行くことが求められていなかったため、自発的に真実の探求をしようと決意しました。私はイエス(彼に平安あれ)について読んだのを覚えています。彼には強い感情を持っていましたし、彼とのある種のつながりさえ感じていました。しかしながら、私は彼の死に方だけはどうしても受け入れることが出来なかったのです(彼ほど神に近い人物が、どうしてあのような死に様を迎えるというのでしょうか?)。それは、説明すら出来ない程の悲劇として映りました。それゆえ、私はイエスが実存した人間であり、実際にこの地球上で生き、非常に特別な使命を携えた非常に特別な人物であるという個人的な見解と信条に至ったものの、それ以上のことは何も分かりませんでした。つじつまの合わないことが多すぎたことから、私は徐々にキリスト教の概念そのものをあきらめてしまっていました。

真実の探求――20代

20代になると、私は心と魂の不安定さを解消するために、真実を見出すことに多大なる必要性を感じていました。ある機会から仏教を紹介され、それは私の求めていたことに非常に近く感じられた(少なくともそこには明確な論理があった)ため、入信することにしました。多くの部分においてそれは私の助けとなったものの、依然として何かが欠乏していました(が、当時はそれが何かは分かりませんでした)。数年後には、私は仏教からも遠ざかるようになりました。それは人生における安楽というよりは重荷となってしまっていました。その当時、私は仕事でエジプトに飛び、そこで夫に出会いましたが、彼はムスリムの伝統の中で育った人物でした。当時はまだ仏教に携わっていたため、私は彼を改宗させようと試みました。彼は忍耐強く私の主張に耳を傾けていたため、私は自分の布教が成功すると信じた程でしたが、今になって思うと、彼は決して改宗したりはしなかっただろうと確信しています。

始まり――30代

それから私は仏教の実践に居心地の悪さを感じるようになり、エジプトに行って結婚した後、単身米国に戻り、その後再びエジプトに戻って夫と暮らしはじめました。私たちはそこで一年間を過ごしましたが、それは驚きの連続と癒しをもたらす、忘れられない一年間でした。その頃、私の年齢は30代の前半に差し掛かっていました。エジプトで本格的に結婚生活を始める前までは、限界までストレスを感じ、死ぬのではないかと感じた程でした。というのも、一年以上に渡って夫と離れ離れだったのです(私の仕事が私を米国に拘束し、その他の諸問題が彼をエジプトに引き留めていました)。その期間、私たちは連絡を取り合ってはいましたが、それは彼と共に自分の一部も失ったかのように、非常に困難でストレスの溜まるものでした。私は人から拒食症患者のように見えると言われました。そのことには、ある日タクシーのバックミラーでふと自分を見たときまで気付きませんでした。私の首元からは鎖骨がくっきりと浮かび上がっていました。始めはそれが自分だとは思わず、それに気付きかなりのショックを受けました。私は新たな視点から自分を見つめ直しました。両手は骨のようにほっそりとしており、自分自身が骸骨のように見え始めました。その当時、夫は物静かに、そして忍耐強く、私にイスラームについてではなく、神を信じることについて説明していた頃でした。彼は、私が神を信じている限りは、私がどの宗教を実践しようが構わないと言いました。私は何度も何度も神は存在しないと口論し(仏教はそうした信条を支持します)、彼は何度も何度も神は存在すること、そしてそのしるしと神の性質についての説明を繰り返しました。彼は神が(その知識、聴覚、視覚、その他の性質を通して)私と共にあることを説明し、イスラームの視点から神について話し、一貫して神を信じさえすれば、私はムスリムにならなくて良いことを強調しました。頑固な性格の私は、表向きはそれに抵抗を示していましたが、内側では小さな希望の窓が開き始めていたのです。

夫は私にイスラームの本を届けるよう、彼の友人に頼んでいました。私は依然として神についての話を聞くことには――時には頑なに――興味を持っていなかったので、彼がそうしたことに驚きました。それで彼はクルアーンの英訳と、イスラームの概説本を置いて行きました。ほんの少しだけ興味をそそられはしましたが、私はそれらを無視しました。私は本を脇へ置きやり、眠りにつきました。その夜、私は夢を見ました。その夢のなかで、私は輝かしい白い光に包まれていました。遠くから、クルアーンの朗誦のような美しい音楽が聞こえてきました。私の背後には黄金の螺旋階段がありました。これらのイメージはすべて、不思議な白い光の中で停止していました。この光は、私が現実世界で見たことのあるいかなるものよりも明るいものでしたが、それは私の目を痛めたりはしませんでした。それは純粋な、天からの光でした。それから下に目をやると、私は自分が全身にムスリムの着るような白くて美しいドレスとヴェールをまとっていることに気が付きました。その間、私は白い光と、内側から湧きでてくるとてつもない幸福感によって満たされていました。私の正面の左側には5〜6歳の子供がおり、前を向いていたために顔を見ることは出来ず、その子の性別も分かりませんでしたが、私の子であることを直感しました(当時、私は身体的に子供をもうけることが出来ませんでした)。この夢は、私の根底を揺るがしました。それは7年前でしたが、私は未だにその詳細を鮮明に思い出すことが出来ます。夢から覚めると、その重要性に気付いていなかった私は、それが頭の中に鮮明に焼き付いていたため、そして意味が分からなかったため、そのことを夫に語りました。私はそのような夢を見たことはそれまで一度もありませんでした。それについて語り終えると、夫はこう言いました。「これは、すべてのムスリムが一度は見てみたいと願うような夢なんだよ。」でも、なぜ私なのでしょうか? 私は神を信じず、神の存在を(時には感情的に)否定し、イスラームはおろかムスリムになることに興味すら抱いてもいませんでした。彼によると、神は私に何かを教えてくれているのであり、私は非常に幸運なのであるということでした。そのことは私を驚かせました。(興味深いことに、この夢は私にとって非現実的な性質を持たず、将来を見ているかのような感覚を与えました。)この夢の後、私はイスラームに関する本を手に取り、この宗教について多くのことを発見することになるのです。

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マリア 米国出身の元カトリック信者(下):イスラームの経験

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説明: 神の実存を確信した後の彼女の意見。

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帰省――40代以降

私はイスラームの教義についてじっくりと読みました。それらは矛盾しておらず、理にかなったものでした。イスラーム的人生についての説明、そして社会における男女の役割とは、競争ではなく、相互扶助だというのもとても論理的でした。それを読んだ後、私は女性としての自分自身に本能的に感じていたことが、実際に本来の性質にそったものであるということを理解することが出来ました。私は女性としてだけではなく、人類の一員として、品位を貶められることなく、高揚を感じました。私は人生で初めて、本来の自分というものを感じ始めました。私は帰省するかのような感覚を得ました。そして私はクルアーンを読みました。それはアラビア語の原本ではありませんでしたが、英訳の章句を読んだだけでも大きく、最も優しい形の平穏を感じました。それらの章句には、私が人生を通して抱き続けつつも、明白な答えが得られないままだった疑問の多くが答えられていました。クルアーンを読むうちに、私はその非の打ち所のない論理、そしてそれの与えた私への影響から、それが神の言葉であることを確信し始めました。私はそれがクルアーンの性質の一つであること、そしてそれが人間の魂に落ち着きを与える“バラカ(恩寵)”であることを学びました。

その後、時を経ずして、私は妊娠出来るようになることを期待して手術に望みました。手術は成功しましたが、依然として妊娠出来る可能性は非常に薄い状態でした。当時の私は、クルアーンを定期的に読み、イスラームについてもっと学ぼうとしている状況でした。私は絶えず質問を続け、イスラームの空気に身を浸していました。どこの道端からも聞こえてくる礼拝への呼びかけが大好きでしたし、ある日モスクで礼拝をするために、夫にイスラーム学問の最高学府として知られるアズハル大学へ連れていってもらいました。そのモスクはテレビで見たことがあり、とても心を惹かれていました。そこへ行くと、あたりは静寂で、しばらく散策した後、クルアーンを読みつつ、静かに座っていました。とても素晴らしい平穏な時間が過ぎました。帰途につき、道のりを半分程行ったところで、私は思わず立ち止まって足元を見やりました。歩道を感じることが出来なかったため、私の両足が地面に着いているかどうかを確認するためです。私は空気を歩いているかのような感覚に囚われていました。それが私に対してのイスラームの効果でした。空中浮遊しているような感覚が、現実的なものとなっていたのです。

当時、その多くは束の間だったものの、とても多くの不思議な体験をし、私は神が自分と共にあることを心から信じ始めました。その中でも最高のものは、翌年、かわいい娘を授かったことです。それは本当の、神からの贈りものでした。手術を行った医師でさえ、そのことには驚いていました。その女医がそうした手術を行うのは初めてだったため、彼女は成功の可能性が小さいということ以外には結果を予測することが全く出来なかったのです。(その時も神は私と共にいてくれました)。

私たちは米国に移住し、4ヵ月後の秋に娘を出産しました。その翌年には、夫の家族の要望に答え、彼らに新たな家族の一員をエジプトまで顔合わせに行きました。帰国前、私は正式にムスリムになることを決意しました。神は非常に多くのしるしをお示しになり、私はこれこそが明白な道であることを確信したのです。それで私はアズハル大学モスクへ行き、「唯一なる真実の神以外に神はなく、ムハンマドは神の使途である」と証言しました。現在、私は40代になりましたが、これまでの人生を見つめ直してみると、特に過去10年間の様々な出来事には神の手がかかっていたことを認めることが出来ます。常に真実を(善かれ悪しかれ)探求していた者として、個人的体験から、神こそが唯一の真実であるということを発見しました。私たちはただ、目・耳・心を開き、真実をありのまま認めるだけでいいのです。

“われは、わが印が真理であることが、かれらに明白になるまで、(遠い)空の彼方において、またかれら自身の中において(示す)。本当にあなたがたの主は、凡てのことの立証者であられる。そのことだけでも十分ではないか。ああ、かれらは主との会見に就いて疑っているのか。本当にかれこそは、凡てのものを取り囲む方であるのに。”(クルアーン41:53−54)

イスラームを発見することは、無限の価値のある財宝を発見するようなものでした。イスラームのおかげで、私は自分自身を発見しました。実体ある経験から、私は神の存在を見出しました。神は寛大で優しい、慈悲深く常に見守ってくれる御方です。私は純然たるもの、そして自分の人生における意義深い、明白な方向性を見い出しました。神はとても多くのものを授けてくださいました。それには心と魂の最も奥底の願望と完全に共鳴してくれる、夢のような家族が含まれます。神こそは最も完全な方法で供給する御方なのです。私にはイスラームとクルアーンという、神によって提供された素晴らしい癒しによって、平穏な心と魂がもたらされました。私にとって神による最も偉大な贈りものとは、神が私の魂に触れ、神の寛大さ、慈愛深さ、慈悲深さを感じさせてくれたことです。神の恩寵により、私はアル=マハディーヤ(正しく導かれし者)となりつつあります。最善で生産的、かつ最も思いやりのある人間になることの出来るよう、神はその最後のメッセージを最も完全な方法で人類に送りました。それはイスラームの道であり、平和の道です。キリスト教との個人的な経験は、私にとても長い期間の空虚さを与え、その価値を認めることは出来ませんでした。しかし、イスラームはユダヤ教・キリスト教・イスラームが全て同一の神から来るものであり、それぞれが神によるメッセージを携えたため、敬意に値するということを説きます。私はキリスト教徒として生まれましたが、私の魂にとってはイスラームこそが真の道なのです。現在、私は神との確固とした関係を築き上げたため、イスラーム的観点から他の伝統的一神教の価値を認めることも出来るようになりました。私の中にはもう確執はありません。私は帰省したのです。

“慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名において。

万有の主、アッラーにこそ凡ての称讃あれ、

慈悲あまねく慈愛深き御方、

最後の審きの日の主宰者に。

わたしたちはあなたにのみ崇め仕え、あなたにのみ御助けを請い願う。

わたしたちを正しい道に導きたまえ、

あなたが御恵みを下された人々の道に、

あなたの怒りを受けし者、また踏み迷える人々の道ではなく。”(クルアーン1:1−7)

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