ジェラルド・F・ダークス、統一メソジスト教会、米国(パート1/4)
説明: “The Cross and the Crescent(十字架と三日月)”の著者であり学者でもあるダークスの生い立ち、そしてハーバード「ホリス」神学校での勉学によってキリスト教から目を覚ました彼の逸話。パート1。
- より ジェラルド・F・ダークス
- 掲載日時 28 Mar 2011
- 編集日時 28 Mar 2011
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私にとって最も古い記憶の一つに、生まれ育った小さな郊外の町にあった教会で耳にした、日曜朝の礼拝の鐘の音があります。メソジスト教会は鐘塔のある木造の古い建物で、子供たちの日曜学校が2クラス、そしてクラスと聖壇とを隔てる木製の扉、また中二階の聖歌隊席では年長の子供たちのための日曜学校が開かれていました。ここは私の家から2ブロック程度しか離れていませんでした。鐘が鳴ると、私たちは家族でここを訪れ、教会への“巡礼”を毎週行なっていました。
1950年代当時、3つの教会は人口約500人の町における地域社会の中心でした。私の家族が所属していたメソジスト教会は、手作りアイスクリームを配ったアイスクリーム懇親会、チキン・ポットパイの夕食会、ローストコーンなどを提供する集まりを開いたものでした。私と家族はそれら3つに常に関わっていましたが、それぞれ年に一度しか行なわれませんでした。それに加え、毎年6月には2週間の聖書学校があり、私はそこに初等教育の8年間ずっと出席し続けました。日曜朝の礼拝と日曜学校は週に一度だけだったため、私は皆勤のブローチ、そしてバイブルの節の暗記賞をより多く獲得して自分のコレクションを増やすことに努力しました。
私が中等学校に進む頃になると、地元のメソジスト教会が閉鎖されてしまったため、私たちは隣町のメソジスト教会に通うようになりました。そこは私たちの住んでいた町よりも、規模が僅かに大きい程度でした。そこで私は将来聖職者になろうという目標を持ち始めました。私はメソジスト青年親睦会での活動を開始し、やがて地域の役員として奉仕しました。また、私は年度の青年日曜日礼拝で“説教者”となりました。私の説教は地域全体で注目を浴び始め、すぐに他の教会でも説教壇に立つようになりました。また老人ホームや教会関係の青年男女グループなどでも説教し、それらの場所で空前の人手を集めました。
17歳になると私はハーバード大学へ進学し、牧師になるという決意をしました。1年生の時、二学期制の比較宗教の科目を履修し、イスラームを専門とするウィルフレッド・カントウェル・スミス教授による講義を受けました。その科目を受けている最中、私はヒンズー教や仏教などの他の宗教に比べ、イスラームに対しては至極低い関心しか抱いていませんでした。前者二つの宗教の方が、よほど秘教的で不思議な感じがしたからです。対照的に、イスラームは幾分自分の宗教であるキリスト教に似通っているように思えました。このため私は自分がそうすべきであった程に努力しませんでしたが、クルアーンにおける啓示の概念というレポートを提出した記憶はあります。いずれにせよ、その科目は学究的基準と要求において厳格であったため、実際私はイスラームに関する本を六冊も手に入れましたが、それらは全てノン・ムスリムによって書かれたものであり、その後25年間に渡り、私はそれらの世話になりました。また、私は異なるクルアーンの英語翻訳版を二冊入手し、時々目を通していました。
その春、ハーバードは私をホリス学者として指名しました。それは私が大学における神学準備生の内の優等生の1人であることを意味しました。ハーバードの一年生から二年生に進学する前の夏休み、私は比較的大きな統一メソジスト教会で青年牧師として働きました。翌年の夏、私は統一メソジスト教会から宣教師としてのライセンスを取得しました。1971年のハーバード大学卒業に際し、私はハーバード神学校に入学し、1974年には神学修士号を取得しました。その頃には既に、統一メソジスト教会によって1972年に助祭として任命され、ハーバード神学校奨学金の補足として、スチュワート奨学金を受けました。神学校での勉学において、私はボストンで病院牧師として二年間のエクスターンシップ・プログラムを完了しました。ハーバード神学校からの卒業に続いて、私はカンサス郊外の二つの統一メソジスト教会において夏期宣教師として過ごしました。それらの教会での参会者数も数年間で最も多くを動員しました。
外側から見れば、私は高い教育を得た、日曜朝の礼拝に多くの聴衆を集めることの出来る、聖職者への道の全側面において成功を収めた、将来を約束された若き聖職者でした。しかし内側から見ると、私は聖職者としての責任において、自分の個人的誠実さを保つため常に戦っていたのです。この戦いは、おそらく個人的・性的モラルを維持しようと努めて失敗した、一部のテレヴァンゲリストたち*によるものなどとは遠くかけ離れたものでした。同様に、現代の新聞の見出しを飾る、小児性愛者の聖職者たちとも全く異なる戦いでした。私の個人的誠実さを保つための戦いの殆どは、学歴と学識のある、聖職者仲間に対してのものだったのです。
最も卓越した、聡明で、理想的な将来の次期聖職者たちは最も充実した神学教育をハーバード神学校において受けています。しかし皮肉なことにそういった教育を受けていながら、神学生らは次のような歴史的事実に晒されています:
1)初期の“主流な”教会の成立と、それが地政学的要因によっていかにして形成されたか;
2)様々な“オリジナル”のバイブルのテキストと、現在キリスト教徒たちが手にするものの大半との間には尖鋭な違いがあるが、徐々にこの知識が新しいもの、あるいはより良い翻訳とされるものに組み込まれたこと;
3)神格における三位一体、イエス(神の慈悲と祝福あれ)の“子性”といった概念の発展;
4)多くのキリスト教信仰と教義において基礎となる非宗教的考慮;
5)三位一体の概念、そしてイエス(神の慈悲と祝福あれ)の神性を決して受け入れなかった初期の教会とキリスト教運動の存在;
6)その他。(神学教育によって得た成果は拙著 The Cross and the Crescent: Dialogue between Christianity and Islam, Amana Publications, 2001で詳しく叙述されています。)
そのため、そういった神学校卒業生の大半が卒業するのは、彼らが真実ではないと知ることについての宣教を求められる“説教壇に立つため”なのではなく、様々な専門職に就くためなのです。それは私にも当てはまっており、私は臨床心理学の修士、博士号を獲得しました。私が自分自身をキリスト教徒であると自称したのは、自己認識の同一性において必要なことだったのであり、私の本職はメンタルヘルス専門家でしたが、結局は任命された聖職者だったのです。しかし、私の神学教育による学歴は、三位一体論、またはイエス(神の慈悲と祝福あれ)の神格性に関するどのような異論も封じ込めてしまいました。(聖職者らはこれらの教会による教義を信者たちよりも信じていない傾向があり、聖職者らは“神の子”といったような用語を隠喩的に理解し、教区民は逐語的に理解していることが統計によって明らかにされています。)従って、私は“クリスマスとイースターのみのキリスト教徒”となり、教会への出席は非常に散発的で、私が違うと確信する説教を耳にすると歯を軋らせ舌を噛んだのです。
上期のような理由によって、かつてよりも私の宗教心や精神性が低下したということを示したいのではありません。私は定期的に祈りを捧げ、私による至高の神への信仰は堅固かつ安定したものでした。私は教会や日曜学校で習った通りの倫理に沿って個人的生活を営んできました。私はただ単に、異教による多大なる影響や多神教的概念、また過ぎ去った時代の地政学的要因を抱え込んだ教会組織による、人工的な教義や信条を信じ込むことが出来なかったのです。
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