経済と人生における利子の役割(5/7):説明と理論
説明: 過去の思想家たちが、利子の存在について様々な説明を捏造した試みについて。
- より ジャマールッ=ディーン・ザラボゾ (ゥ 2011 IslamReligion.com)
- 掲載日時 07 Nov 2011
- 編集日時 07 Nov 2011
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尊敬される著名な経済学者たち1による、信頼ある評論と視点を伴った利子の説明、そしてその支払いの正当化を試みる洪水のような意見の数々は、何かが間違っているのではないかという、人々へのしるしであると言えるのではないでしょうか。経済思想史においては、利子の正当化を試みる以下のような理論を見出すことが出来ます:
1.「無色」論(ベーム・バヴェルクによる呼称):これはアダム・スミス、リカードなどの初期経済学者らによって提唱されました。この理論は、資本の粗利益と利子を混同するなど、多くの欠点がありました。リカードはさらに、すべての資本利益を労働に帰属させましたが、彼はなぜか、主張される価値の支払いを受け取るのは労働者ではないことに気が付きませんでした。
2.節制論:このような理論は現れては消えて行きました。経済学者たちは「節制」が「待機」(マーシャル式)のような別の意味合いを持つ言葉にたびたび変化するため、適した言葉ではないことに気付きました。2利子の本質とは、人が即座の消費を「待機」または「節制」することにより受け取る料金のことです。この理論は、事実に反して貯金が利子の一機能であると捉えたために破綻しました。
生産論:この理論の推進者たちは、生産こそが資本において固有のものであり、それゆえ利子とは単にその生産に対する支払いであるとします。セイにより提唱されたこの理論は、資本が余剰額を生み出すことを想定しますが、その主張を支持する根拠は存在しません。主張することの出来ることとしては、資本に対する対価として価値が発生することですが、彼らによる利子の正当化の本質のように、余剰や超過分が創り出されたことを証明することは出来ないのです。無論のことながら、利子を分析するとこれらの理論が金銭的要素を完全に無視していることが分かります。
使用論:「ベームは、各資本の他に、独立した価値を有する独立した経済による『使用』があったという想定の妥当性を否定しました。彼はさらに、初めから資本の独立した使用というものはただ存在せず、したがって独立した価値を有することもなく、それに寄与することによる『余剰価値の現象もない』ことを強調しました。そのような使用を想定することは、すべての事実と矛盾する不当な虚構を捏造することなのです。」3
報酬論:この論を支持する経済学者たちは利子について、資本家の「生産活動」に対する報酬であると見なします。英国、フランス、ドイツの経済学者によって支持されてはいますが、この理論に関するコメントは必要ないでしょう。
折衷(生産論と節制論の組み合わせ)論:これについて、アフザルッ=ラフマーンはこのように記しています:
この見解の起源は、過去と現在の経済学者によって提示・議論された利子の学説に不満を呈したことに端を発したようです。この主題においてはただひとつの説も納得行くものが得られなかったため、人々はいくつかの説の要素を組み合わせて問題の解決に務めたのです。4
近代結実論:ヘンリー・ジョージがこの説の提唱者ですが、実体が薄いために、全くと言って良いほど追従者が現れませんでした。
修正節制論:シェルウィーンにより提唱された独特の理論でしたが、ほとんど影響力を持ちませんでした。
オーストリア論(打歩説または時差説):これはベーム・バヴェルク自身が提唱した理論です。この説によると、利子は「現在と将来の財の価格差により発生する」とされます。カッセルはこの説の詳細な批評をしています。結局は高級な「待機論」に過ぎませんでした。
通貨論(貸付資金説、流動性選好説、貨幣数量説、アセット・アプローチ):最近になり、経済学者たちは利子問題に通貨の要素を取り入れて強調するようになりました。しかし現実には、なぜ利子が支払われるのか、という点から、効果的な利子率を定めるものは何か、という点に移行して来ています。「ロバートソンによると、流動性選好説における利子は、変動に対するリスクプレミアムに過ぎず、私たちはそのことについて確信さえ得ていません。それは利子を宙に浮かせるものに過ぎません。」6この説と同じ分類の他説も、似たような批評を受けています。
搾取論:社会経済学者は、利子は搾取以外の何でもないと常に見なして来ました。資本論の「創始者」であるアダム・スミスとリカードは、あらゆる商品価値の根源は労働量であると唱えました。もしそれが真実なら、あらゆる支払いは労働に対して支払われるべきであり、利子は搾取以外の何でもないことになるのです。
複数の箇所において、アフザルッ=ラフマーンは利子に関する様々な理論に対しての卓越した結論を導きだしています。彼はこう述べています:
利子という現象における歴史的発展の批評的研究により、利子は生産のある独立した要因に対して支払われることが示されていますが、それは待機、延期、節制、使用などとは呼ばれません。しかしこれらすべての説は、なぜ利子が支払われるべきなのかについて答えられておらず、証明もされていないのです。一部では待機について、また一部では節制や延期の必要性について指摘しますが、それらのいずれも問題の答えを提供してはいないのです。待機や延期、または節制の必要性も、あるいは資本の生産の単なる使用でさえ、資本生産に対する雇用の支払いに利子が必要であることを証明するには至らないのです。その上これらの説は、いかに変動する要素が利子率のような固定された要素を決定するのかについてさえも答えられていないのです。どうしてそのような説を合法化、または支持できるでしょう?
後に、彼はこう記しています:
限界生産論同様、通貨論は、なぜ利子が支払われるべきなのか、という質問に答えようとする試みすらしていないのです。それらは単にこの質問を無視して価値論に逃避しているのです。それらは資本の価格は他の全てのもの同様に、需要と通貨の供給によって決定されるのであると述べます。しかし、それらはあたかも価値論は交換の問題、そして利子論は分配の問題といった基本的な二つの問題の違いを忘れてしまっているかのようです。 貸付資金説、流動性選好説はどちらも基本的には利子の需要と供給に関する説であり、貸付資金と通貨それぞれの需要と供給についての説明をするものです。しかし、それは利子現象を正当化するものではありません。たとえ資本が富の創造に対する寄与から適切な報酬を受ける権利があるとしても、「それは増加した国家の富の中から寄与した分だけしか分け前を得ることが出来ないのです。それはあらかじめ決められた量のものしか受け取れず、実際の生産量とも無関係なのです。」8ベーム・バヴェルクによると、これらすべての理論の研究から、「分岐する三つの重要な利子問題の概念が明らか」になりました。生産論を代表する第一グループは、利子問題を生産問題として捉えます。搾取論を主唱する社会主義者は、利子問題を分配問題として捉える第二のグループ、そして通貨論を支持する第三グループは、利子問題を価値問題として捉えます。利子現象としての浸透性から勘違いされていますが、これらすべての説が、なぜ利子が支払われなければならないのかについては避け続けてきたことに疑いの余地はありません。彼らは待機や節制、あるいは生産性や労働価値、価値の制定についての議論にすべての労力を費やしはしましたが、利子制度の起源や正当性に関しては完全に口をつぐんできたのです。
Footnotes:
1 事実上、経済思想の歴史に関するどのような教科書も、利子の正当化に関する分析とその批評を提供します。好例としてはマーク・ブローグのEconomic Theory in Retrospect (Cambridge: Cambridge University Press, 1978)が挙げられるでしょう。ベーム・バヴェルクの名著 Capital and Interest(資本と利子)は、初期の様々な利子論に対し強い非難を浴びせますが、彼自身の理論も同様の欠陥を有します。ベームは初期の理論に一貫性の無さや矛盾、そしてなぜ利子を支払い、また何が利子率を定めるのかについての説明の欠如を見出したのです。参照:Qureshi,pp.11-39; Afzal-ur-Rahman,pp.9-48.
2 シニアによる節制論は、「社会主義者作家ラサールによって存分に揶揄されています:『資本による利益は“節制の給料”である。これは喜劇的な、金では買えない表現である。インドの修行僧、または登塔者のようなヨーロッパの禁欲億万長者たちは、柱の上に一本足で立ち、うな垂れ、青ざめた様子で人々に真っ直ぐ腕を伸ばして器を差し出し、その節制による給料をもらおうとしているのだ。その真中で仲間たちの頭上を飛び抜けている、禁欲主義の修行僧の番頭、ロスチャイルド男爵であるかのように。』」Qureshi, p. 17.
3 Afzal-ur-Rahman, p. 23.
4 Afzal-ur-Rahman, p. 30.
6 Afzal-ur-Rahman, p. 44.
8 Afzal-ur-Rahman quoted this Ahmad, The Economics of Islam.
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