三位一体論(2/4):“彼の名はインマヌエルと呼ばれるであろう”
説明: キリスト教において三位一体論の根拠とされる様々の章句の検証。第2部:インマヌエルという名前はイエスが神であることの証明なのでしょうか?
- より IslamReligion.com
- 掲載日時 17 Nov 2014
- 編集日時 16 Nov 2014
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「インマヌエル」というヘブライ語の名前は、「神我らと共にあり」あるいは「神は我らと共にあり」と翻訳することができます。一部の人々は、イザヤ書7:14に基いて、イエスが「インマヌエル」と呼ばれたことから彼こそが神の化身でなければならないと信じます。イザヤ書7:14とマタイ1:23はクリスマスの時期になるとよく読まれます。それらは以下のようなものです。
イザヤ書7:14“それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる。”
マタイ1:23“「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。これは、「神われらと共にいます」という意味である。”
第一に、予言では彼の名前がインマヌエルと呼ばれるとされています。
「彼はインマヌエルとなるであろう」とはされていません。
第二に、マリアは予言でいわれているような「インマヌエル」という名で自らの子を呼んだことが一度もありません。バイブルによると、彼女は神の天使の言うとおり、その子をイエスと名付けたからです。
マタイ1:25「しかし、子が生れるまでは、彼女を知ることはなかった。そして、その子をイエスと名づけた。」
ルカ1:30−31“すると御使が言った、「恐れるな、マリヤよ、あなたは神から恵みをいただいているのです。見よ、あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスと名づけなさい。」”
第三に、文脈から見た場合、インマヌエルという子供の誕生と命名はアハズ王にとって、神は二つの敵対国から侵攻されつつあった彼の民と共にあるというしるしでした(イザヤ書7:10−16)。その約束は神によって果たされました(列王記下16:9)。「神は我らと共にあり」という名前は、「神が我らを援助する」という意味を持ちます1。もしも子供の名前が、神はアハズ王の側にあるということを示しているということであれば、それはとても腑に落ちるものとなります。
イザヤ書7:10−16“主は再びアハズに告げて言われた、「あなたの神、主に一つのしるしを求めよ、陰府のように深い所に、あるいは天のように高い所に求めよ」。しかしアハズは言った、「わたしはそれを求めて、主を試みることをいたしません」。そこでイザヤは言った、「ダビデの家よ、聞け。あなたがたは人を煩わすことを小さい事とし、またわが神をも煩わそうとするのか。それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、若い女性がみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる。その子が悪を捨て、善を選ぶことを知るころになって、凝乳と、蜂蜜とを食べる。それはこの子が悪を捨て、善を選ぶことを知る前に、あなたが恐れているふたりの王の地は捨てられるからである。”
列王記下16:9“アッスリヤの王は彼の願いを聞きいれた。すなわちアッスリヤの王はダマスコに攻め上って、これを取り、その民をキルに捕え移し、またレヂンを殺した。”
第四に、イザヤ書7:14では、原語のヘブライ語では処女が出産をするとは記されておらず、若い女性が妊娠するとされています。イザヤ書7:14で使われているヘブライ語のアルマという言葉は、若い女性や少女を意味しますが、処女という意味は持ちません。ヘブライ語で処女を意味する言葉は、ブトゥラです。改訂標準訳聖書は、「処女」という言葉に置き換えることなく「若い女性」という言葉を使っている数少ないキリスト教のバイブルです。
イザヤ書7:14“それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、若い女性がみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる。”
第五に、なにかが特定の名で「呼ばれた」からといって、それが文字通りそうなるとは限りません。象徴的な名前は、バイブルにおいてヘブライ人たちにより頻繁に用いられています。それらを逐語的に捉えるのであれば、多くの名前から多大な問題が発生するでしょう。エルサレムは「誠実さの主」と呼ばれますが、エルサレム自体はもちろん主ではありません(エレミヤ書33:16)。創世記32:30においては、ヤコブが一区域の土地を「神の顔」と呼んだと伝えられています。アブラハムはイシュマエルを犠牲に捧げようとした山を「主は授けられる」と呼びましたが、誰一人としてその山を神であると見なした者はいませんでした。同様に、たとえ“モーセは一つの祭壇を築いてその名を「主はわが旗」と呼んだ”(出エジプト記17:15)のだとしても、祭壇そのものを神であると信じる者は誰一人としていないでしょう。キリスト教徒は、エリヤが「エホバ神」、またはファラオの娘ビティアの名前が「エホバの娘」を意味するからといって、イエスの姉妹とみなしたりするでしょうか? また、キリスト教徒はイエスではなくディブリが「エホバの約束」であると信じたり、その名前が「我が神は(我が)父」を意味するエリアブを真のメシアであると信じたりするでしょうか? 同じように、解放されて十字架への磔から逃れたバラバ・イエス(マタイ27:15−26)2の名前が「父の息子、イエス」を意味したからといって、彼が神の子であると主張したりするでしょうか? もちろんしないでしょう。
私たちは、イザヤ書においてイエスについての予言が実現したというのは、ただ単にマタイがその予言を引用したからだけであり、人々が実際にイエスをその存命中にインマヌエルと呼んではいなかったと結論付けることができます。さらに、もしも彼の名がインマヌエルだったのであったとしても、神と関連付けられたその他の名前のように、必ずしもその名が事実を反映したものではないということは既に明白にされました。それゆえ、インマヌエルが「神イエスが人々の間に肉体をもって現れるという意味である」と主張することは、三位一体論者の「受肉」の教義が、予言を捻じ曲げることを通し、イエスの教えに付け加えられたものであることを示す例の一つなのです。
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