イスラームにおける悲しみの対処(2/5)
説明: 苦しみは、自らを清める手段であること。
- より J.ハーシミー
- 掲載日時 12 Aug 2013
- 編集日時 12 Aug 2013
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苦しみによってもたらされるもう一つの益には、魂の浄化があります。預言者ムハンマドはこう述べています。
“私の魂がその御手にある御方(神のこと)にかけて。いかなる信仰者も、それによって彼の一部の罪が赦されることなしに、疲労、消耗、悩み、悲しみに見舞われることはないのだ。たとえそれがとげの刺さる痛みでも。”(ムスナド・アフマド)
一部の人は、悲しみを感じたときに胸焼けのようなものを感じます。それは物理学的には、不安とストレスによる胃食道逆流症とされるかも知れませんが、心が灼熱のかまどのように罪を焼き払う象徴でもあるのです。信仰者が苦しみにあえぐ時、神はそのご慈悲として彼の罪を一部を赦してくれます。その結果、彼は来世においてそれらの罪の懲罰を受けずに済み、楽園へと一歩近づくのです。
おそらく懐疑論者たちは、なぜ神がそのしもべたちを現世と来世で苦しめることなく、ただ単に赦すことをしないのかと思いを巡らせることでしょう。それに対する返答としては、「しもべが懺悔し、神の慈悲とお赦しを求めるのであれば、神は実際にありとあらゆる罪をお赦しになる」というものがあります。そのような人物が赦しを求めて神に立ち返るのであれば、神はいかなる懲罰や報いもなしにお赦しになるでしょう。神はその罪があたかも犯されなかったかのように、その人物を赦します。預言者ムハンマドによると、誰であれ赦しを求めて神に立ち返る者は、「それら(の罪)が海に浮かぶ水泡のように無数で、砂粒のように多く、山のように重く、雨の滴や、すべての木の葉のような数であったとしても、赦されるのである。」とされています。
神は赦しを求める者を赦しますが、それは神に悔悟し、かれへの不従順を後悔して涙を流す謙虚な信仰者を神が愛でるからです。クルアーンはこのように述べます。
“誠にアッラーは、悔悟して不断に(かれに)帰る者を愛でられ…”(クルアーン2:222)
では、罪を犯しながらも決して赦しをを求めないような者たちは、どうなるのでしょう? また、それを止めようともせずに、罪を犯し続ける者たちはどうなるのでしょうか? 神が罪に対する懲罰を与えないことはありません。なぜなら、それは人々が無頓着かつ邪悪となることにつながるからです。それらの罪人たちに対する懲罰の施行は、父親が息子にとって有益になるため行うのと同様、彼ら自身にとって有益なものなのです。例えば、6歳児が電源コンセントに指を突っ込んだとしましょう。その父親は、子供が感電することをおそれて彼を罰します。たとえ反抗的な子供自身は、その懲罰が父の愛情と配慮によるものであることを理解するには幼すぎたとしても、親は子供の利益だけのために、懲罰を与えるのです。子供が指をコンセントに入れると、感電するのは父親ではなく、子供自身なのです。同様に、私たちが罪を犯せば、損失を被るのは私達自身であり、神の栄光には何の影響もありません。それゆえ現世における懲罰は手段なのであり、結末ではないのです。懲罰の目的は罰そのものではなく、その強い抑止力なのです。
もし父親が子供を甘やかしすぎ、電源コンセントに手を入れても何も言わないようであれば、子供は自分の行いの重大さを理解出来ないでしょう。その子はコンセントに手を入れ続けて、いずれ感電死してしまうかもしれません。同様に、神がそのしもべに苦難を与えなければ、彼らは決して自分たちの罪深さに気付かず、精神の死に到達してしまいます。例えば浮気性の夫は、自らの無思慮がやがては家庭崩壊につながるであろうことに気付かないかも知れず、ギャンブル中毒者は自らの中毒が破産につながることに気付かないかも知れず、アルコール中毒者はその酒癖が悲惨で空虚な人生の原因となっていることに気付かないかも知れないのです。それゆえ、神はそういった人々に懲罰を与えることによって、彼らの罪を贖うだけでなく、そうした有害な生き方に警告し、目を覚まさせるのです。
また、麻薬を使ってもお咎めなしの両親を持つ子供について考えてみてください。それは教育放棄であるだけでなく、叱ってくれる対象を持たない子供が自らを傷つけ続ける結果につながります。それゆえ、責任ある両親は、子供が悪いことをすると外出禁止の罰を与えるような一定のガイドラインを子供に設けます。これは、懲罰を怖れる子供が悪いことをしない抑止力となるのです。同様に、地獄の創造は、それが懲罰でありながら、人類への慈悲でもあります。それによる脅威を通して、神が善いものを創るのです。地獄という懲罰によってしもべを怖れさせることによって、人々は神を怖れ、神に従い、そして精神性を育み、誠実となり、導かれます。それは神を益しませんが、人々を益することです。神はそれを必要としませんが、人々はその生活の中で神を必要としているのです。
神は、人々に地獄という災いを決定付ける前に、多くのチャンスを与えます。それはスピード違反の運転手を捕まえる警察官に例えることが出来るでしょう。初めて運転手がスピード違反を犯したとき、警察官は単に警告を与えます。2回目には罰金が50ドル、そして3回目になるとそれは一気に300ドルにまで跳ね上がります。4回目にもなると地域奉仕活動が課せられ、その次には免許停止となります。警察官は自分のために運転手を捕まえているのではなく、事故と怪我を防ぐため、つまり運転手自身の利益のためにそうしたのです。それは神の手法に似ています。神は現世において人々に小規模な懲罰を与えることにより、彼らが自らの間違いに気付くようにするのです。言い換えると、神が善良な人々に災難をもたらすのは、彼らの罪に懲罰を与え、その懲罰によって彼らが現世の内に自らの過ちを正し、来世の懲罰を避けさせるためです。運転手は牢獄に収監されるよりは、50ドルの罰金の支払いを選ぶでしょう。それと同じように、信仰者は来世で地獄に落とされるよりは、現世における懲罰を選ぶのです。
その意味するところは、信仰者はある種の災難に見舞われたとき、自らの罪が赦されたという事実について安心すべきだということです。人は、最も公正な者である神が、あらゆる苦痛と悲しみへの代償を与えることを知るべきなのです。預言者ムハンマドによると、刺のちくりとする小さな痛みでさえ、神はそれを罪への償いとするのです。苦難の中にいる信仰者は、神に対して恩知らずであってはならず、神の公平さを疑問視してもなりません。なぜなら神は来世においてあらゆる者にその代償を与えるからです。それは人類に対する神の約束なのです。試練や苦難に心を悩ます信仰者は、自分が神に選ばれており、地獄での懲罰ではなく、現世における浄化こそが、神の愛情から来ているのだという事実を肝に銘じなければなりません。
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