元英国外交官チャールズ・ル・ガイ・イートン(1/6)

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説明: 哲学者/作家による真実の探求は、信仰と行為を調和させるための恒常的な葛藤に悩まされました。第1部:世俗的な少年時代、そしてアラビアの言及。

  • より ガイ・イートン
  • 掲載日時 24 Sep 2012
  • 編集日時 06 Oct 2012
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私は戦時中に英国人の両親の元、スイスに生まれました。私の誕生時には、第一次世界大戦を集結させた最終的な平和条約がローザンヌにおいてトルコとの間で結ばれました。世界中を巻き込み、すべてを変えてしまった動乱は、一時的に収束を迎えました。その影響によって古い確信や道徳観は打ち砕かれました。私の家族の背景は血の葛藤による染みがありました。私が生まれたとき、父は既に67歳に達しており、彼はナポレオン・ボナパルトとの戦時下に生まれたのです。双方ともに兵士でした。

私には故郷くらいあっても良さそうなものですが、それすらもありませんでした。私はスイス生まれでしたが、スイス人ではありません。私の母はフランス育ちで、フランス人をこよなく愛しましたが、私はフランス人でもありませんでした。私は英国人だったでしょうか?そう感じたことは一度もありません。私の母は、英語は冷たい、愚かな、無性で知性も文化もない言語であることを、繰り返し述べ続けて来たのですから。私は彼らのようになりたくはありませんでした。では、私はどこに属していたのでしょうか?回想すると、この奇妙な少年時代は、イスラームを信仰するための良い布石だったのではないかと思えてきます。ムスリムはどこで生まれようと、どの人種であろうと、イスラームの地であるダールル=イスラームが故郷なのです。パスポートは現世と来世ともに、シンプルな信仰宣言である「ラー・イラーハ・イッラッラー」です。現世においては安全・安定性を期待すべきではなく、明日にでも死が訪れるかもしれないことを念頭に入れます。また、確固とした基盤はこの脆き地球には置かず、自存する御方に対して置くのです。

キリスト教に関してはどうだったでしょうか?父がもし信仰を持っていたとしても、彼は一度たりともそれについて語ったことはありませんでしたが、彼は90歳に近かった臨終の床で、こう尋ねました。「幸せな場所はあるんだろうか?」私の養育は、母に完全に委ねられていました。彼女は気質からも、無宗教とは言えませんでしたが、宗教的枠組みの中で育てられたにも関わらず、いわゆる宗教組織というものには至極批判的でした。彼女は一つのことに関しては確信的でした。それは、我が子に対しては自分自身の頭で考えさせ、決して二次的な意見を強制させない、ということです。彼女は私が宗教を「無理やり飲み込まされる」ことから、断固として守ろうとしました。彼女は我が家に仕えた家政婦たちに、私に宗教のことを言及しようものなら、その場で解雇になることを警告していました。私が5,6歳のとき、ある一人の若い女性により、母の命令は破られました。彼女の野望とは、アラビアで宣教師となり、多神教の「ムスリム主義」によって迷妄に陥っている不幸な人々の魂を救うのだというものでした。私はこのとき、初めてアラビアのことを耳にし、彼女はその謎めいた土地の地図を書いてくれました。

ある日、彼女は私をワーズワース刑務所を通る道の散歩に連れ出しました。おそらく私は行儀が悪かったのでしょう。彼女は私の腕を乱暴につかみ、刑務所の門を指差してこう言いました。「言う事を聞かないと、お空にいる赤毛の男があなたをあそこに閉じ込めるわよ!」私はこのとき初めて「神」について知りましたが、それは嫌なものでした。何らかの理由で、私は赤毛の男性を恐れており(そのことを彼女は知っていたのでしょう)、いたずら坊主に罰を与えるために空に住んでいるこの男に関しては、とても怖がっていたのを覚えています。私は家に帰るなり、母へその男について尋ねました。彼女が私を落ち着かせるために何と言ったかは覚えていませんが、若い女性は即座に首となりました。

やがて、大半の子供たちからはかなり遅れてスイスで学校に通いだし、14歳になると英国のカントゥルジオ会修道院で学びました。学校チャペルでの奉仕や、聖書のクラスから、キリスト教は私に影響を与えたでしょうか?それらは私だけでなく、級友たちにも全く影響を与えませんでした。それは驚くようなことでもありません。宗教は、人生と教育における一区分として限定されたような状況では、完全かつ効果的な形で生き延びることは出来ないのです。宗教とは全部か無かのどちらかしかあり得ないのです。つまり、それは全ての汚れた教えを小さく見せるか、それらによって小さくされるかのどちらかなのです。週に一度か二度、他のクラスでの勉強と同じように、聖書についても勉強しました。そこでは、私たちの教育のバックボーンを構成する、より重要な科目とは全く無関係であると捉えられていました。神は歴史的出来事に関わってはおらず、科学のクラスで学ぶ現象を定めたのでもなく、現在進行中の事象についても関わりはなく、「完全なる偶然によって」成立した世界は、地平線の彼方に存在したもの、またはしないものへの言及を抜きに理解を求められたのです。神は必要事に対する、余剰価値でしかありませんでした。

それに加え、私は自分が存在している意味について知る必要がありました。そうした必要性を人生の中のどこかで感じたことのある人たちだけが、空腹時の食欲や性欲にも似たその必要性を知っているのです。私は、自分がどこへ向かっているのか、そしてそれは何故なのかを知らずして前進する訳にはいきませんでした。私は、自らの行為が物事の枠組みにおいてどのような役割を果たすのかを理解しない限り、何もすることが出来ませんでした。私は、自分が何も知らないということを思い知らされたのです。つまり、何が本当に重要なのかが分からず、私は自分の無知さによって、濃い霧の中にいるかのように麻痺していたのです。

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元英国外交官チャールズ・ル・ガイ・イートン(2/6)

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説明: 哲学者/作家による真実の探求は、信仰と行為を調和させるための恒常的な葛藤に悩まされました。第2部:宗教組織に対する個人的ジレンマ。

  • より ガイ・イートン
  • 掲載日時 01 Oct 2012
  • 編集日時 01 Oct 2012
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「どこから知識を得ればよいのか?」私は15歳になると、哲学というものを発見し、それは(英語で)「英知への愛」を意味することを知りました。英知こそが私の探し求めていたもので、私の必要性を満たすものは賢者たちによって著された重い本の中に隠されているのだと思いました。探検家が未発見の土地を目にしたときのような、抑えきれないほどの興奮を胸に、私はデカルト、カント、ヒューム、スピノザ、ショーペンハウアー、バートランド・ラッセルなどの著書を漁りました。しかし、何かがおかしいと悟るまでにそれほど時間はかかりませんでした。この分野からは、砂を食べながら潤いを求めているようなものだったのかも知れません。というのも、彼らは何も知らなかったのです。彼らは単に、悪い頭から発想を振り絞って、憶測をしていたのです。憶測なら小学生でも出来ることです。どうして15〜16歳の子供が生意気にも西洋哲学を完全に無価値なものとして切り捨てることが出来るのかって?ザンヌ(見解)としてクルアーンが言及するものと、真の知識を区別するのに、成熟さは必要ないでしょう。同時に、母は私に対して常々、他人の見解や発言を気にしてはだめだと言い続けてきましたし、それは私自信の判断力を養いました。西洋文化はそれらの哲学者たちを偉大な人々として持ち上げ、大学生たちは彼らの著作に敬意を示しつつ学びますが、私にとってはどうでも良いこととなっていました。

その後、中等学校高等部のとき、私に興味を持った師が、当時の私には理解出来なかった奇妙なことを言いました。「私の知る限り、君は唯一の真の普遍的懐疑論者だ。」彼は宗教に特定して言及したのではありません。それは、誰もが当然のこととして捉えられている事柄に対して、私が疑問を呈しているようだという意味だったのです。私は、衣食住や配偶者を探すことにかけては卓越した理性の力が、なぜ世俗世界の外側にも適用することが出来るのかを知りたいと思っていました。私は「汝は殺すべからず」という戒律が、ユダヤ教徒・キリスト教徒でもない人々にも適用されるべきだという概念に困惑していたと同時に、世界中に美しい女性たちがいるにも関わらず、一夫一婦制が普遍的に実践されていることにも納得がいきませんでした。私は自分の存在自体をも疑うようになりました。その大分後に、中国の賢人である荘子の逸話として、ある夜に彼が自分が蝶になった夢を見て、起きたときに自分が本当に蝶になった夢をみていた荘子という人物なのか、それとも蝶が荘子になった夢を見ているのかという疑念を抱いたとされています。私は彼のジレンマを理解することが出来ました。

師がその発言をしたとき、私はさらに確かなる知識というものの鍵を発見していました。それは偶然でした(実際、偶然などというものは存在しないのですが)。私はエジプト学者であるペリー教授の「原始海洋」という本を見つけていたのです。教授は、古代エジプト人がパピルス船に乗って世界の各地に彼らの宗教・神話を広めたという確信を持ちます。この仮説を証明するために、彼は古代神話だけでなく、現代の「原始的」人々の神話やシンボルを何年にも渡って研究しました。彼が明らかにしたのは、信仰の表現としての肖像の相違にも関わらず、驚くべきほどの信仰そのものの合致でした。彼はパピルス船の説については証明していませんが、それとは全く異なるものを証明しています。どうやら肖像のタピストリーの裏には、真実性、世界と人類の創造、そして人間の経験の意味における普遍的真理があるようで、それらの真理は私たちの血や骨と同じくらい私たちの一部なのです。

現代における不信仰の主なる原因は、相互に矛盾しているように映る、諸宗教の多様化です。欧州人が自らの人種の優越性を確信し続ける限り、彼らはキリスト教が唯一の真実の信仰であるということに疑いを持つ理由はないのです。彼らが「進化の過程」における頂点だったという概念は、他のすべての宗教は根本的質問に答えを与えるための幼稚な試みであると思い込ませました。この人種的自信が傾いたとき、疑念が忍び込んできたのです。善良な神にとって、人類の大半が偽宗教への奉仕に人生を費やすことを許すのはあり得ることなのか?キリスト教徒にとって、自分たちだけが救済されると信じ続けることはこれ以上可能なのか?他者、例えばムスリムも同様の主張をしています。誰が正しく、誰が間違っているかを確信することはいかに可能なのか? 私を含む多くの人々は、ペリーの本に出会うまで、当然の結論として、皆が皆正しいことはあり得ないから、皆間違っていなければならない、というものでした。宗教とは幻想、すなわち願望的思想なのだというものです。 また他者は、「科学的真実」を宗教的「神話」に置き換えることが出来ると発見するでしょう。科学とはそもそも、決して証明することの出来ないものである理性の無謬性、また経験認識が真理であるという仮定を基礎として構築されたものであるため、私にはそれが出来ませんでした。

ペリーの本を読んだ時、私はクルアーンについては何も知りませんでした。その機会が訪れたのは大分後のことで、私がイスラームについて知っていたことは、軋轢の1000年間の歴史において蓄積された偏見によって曲解されたものでした。私が知っていれば、キリスト教の大敵への方向へと歩んでいたことでしょう。クルアーンにおいては、地球上の誰一人として神の導きと真実の教義がもたらされなかった者はなく、人々は神の使徒によって、常に彼らの特定の状況やニーズを満たすため当地の「言語」によって語りかけられていたのであることが確証されています。それらのメッセージが曲解された理由は言うまでもなく、真実が世代と共に歪められていくことについても驚くべきことではないですが、その痕跡すらもが数世紀経っても見つからないのであれば、それこそは驚愕すべきことでしょう。神話や象徴(過去の人々による「言語」)によって形を変えたそれらの痕跡が、啓示された真実に基づいたものとして最終啓示を確証するものであることは、完全にイスラームと一致するものであると私は思っています。

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元英国外交官チャールズ・ル・ガイ・イートン(3/6)

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説明: 哲学者/作家による真実の探求は、信仰と行為を調和させるための恒常的な葛藤に悩まされました。第3部:実体を超越することなき心の中だけの英知と、神の発見。

  • より ガイ・イートン
  • 掲載日時 08 Oct 2012
  • 編集日時 08 Oct 2012
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私はチャーターハウスからケンブリッジへ行きましたが、そこでのカリキュラムはつまらないものだったので、自分にとって重要性のある科目以外の勉強は怠っていました。当時は1939年で、大学入学の直前に戦争が始まり、二年経つと軍隊に入っていました。私は常にドイツ兵に殺されるのではという予感を持っていました。私の頭から依然として離れない疑問を解決する答えを探し出すための時間は殆どありませんでしたが、そのことは私の足を宗教組織へ向けたりはしませんでした。大半の友人たちと同じように、私も教会、そして知りもしない神に対してリップサービスする者たちを軽蔑していましたが、こうした敵愾心を穏健化する必要が出てきました。半世紀以上たった今でも、その光景を明確に覚えています。私は友人たちとのキングス・カレッジでの夕食後、遅くまでコーヒーを飲んでいました。会話は宗教問題に及びました。テーブルの先頭にはその聡明さ、優秀さと洗練性で知られる学部生が座っており、会話が一時途切れたため、また彼を感銘させる目的で私はこう切り出しました。「今や宗教の神なんて信じるインテリなんていないよ!」 彼はやや悲しそうな顔をしてこう言いました。「逆だよ。今やインテリしか神を信じていない。」私はテーブルの下からこっそり逃げ出したくなりました。 

ともあれ、説得力にかけて卓越した、40歳年長の賢明な友が私にはいました。彼は当時「英国が生み出した唯一の哲学作家」と形容された、作家のL.H.マイヤーズです。彼の著作「The Root and the Flower(根と花)」は、私を悩ませた多くの質問に答えただけでなく、安らぎと思いやりを見事なまでに調和させるセンスを持っていました。私にとっては、この世で得ることの出来る最大の宝は安らぎであり、思いやりは最大の徳であると思えました。この人こそは、揺るぎない自信を持ち、英知をもって実存の確執について洞察したのです。彼に手紙を書くと、すぐに返事が来ました。その後の3年間、少なくとも月に2度はお互いに手紙を書きました。私は彼にすべてをぶちまけ、彼も自らを真に理解する若き信奉者をようやく見付け出したことを確信し、同じ気持ちで返事を書いたのです。やがて私たちは出会い、親睦を深めました。

しかし、物事は思い通りには行きませんでした。彼の手紙からは内面的な確執の兆候、悲しみ、幻滅が読み取れるようになりました。彼に、持ち得るすべての安寧を著作に注ぎ込んで、自分の分は何も残さなかったのかと尋ねると、彼はこう答えました。「君の鋭い推測はおそらく事実だ。」彼は全人生を享楽と「経験(彼曰く、崇高なものと下劣なものの双方」の追求に費やしました。彼の富、魅力、容貌のコンビネーションに抵抗出来る女性は上流階級を含め僅かで、彼自身も彼女らの誘惑に耐える理由はありませんでした。霊性・神秘主義に没頭した彼は、無宗教を貫き、いかなる系統的な倫理観にも従いませんでした。ただ、彼は老化の事実を直視することが出来ませんでした。彼は変わろうと努力し、過去から悔悟しようとすら試みましたが、それは遅すぎました。私たちの文通が始まって3年強で、彼は自殺したのです。

私にとっての彼への愛着は持続し、私は長男に彼と同じ名前を付けました。私がマイヤーズの死の意味を完全に理解するまで数年間を要しましたが、それは彼のどの著書よりも多くのことを学ばせました。彼の英知は、彼の頭の中だけに留まっていたのです。それは彼の人間としての実体を超越することはなかったのです。ある人は精神世界の本を読み、神秘主義者の教えを研究することに人生を費やします。彼は天地の秘密を超越したと感じたかも知れませんが、その知識が彼自身の性質に具体化し、彼自身を変化させなければそれは無益なものなのです。私には、理解がなくとも一心に神へと祈り、信仰を持つシンプルな人間の方が、精神科学において最も博学な人間よりも価値があるのではと思えてくるようになりました。

マイヤーズはヒンズー教の形而上学的な核心教義であるベーダーンタ学派に深く影響されていました。私の母によるラージャ・ヨーガへの関心から、私もその方向へと流されました。ベーダーンタは私の主な関心事となり、最終的にはその道が私をイスラームへと導いたのです。このことは大半のムスリムたちにとって衝撃的、またはイスラームによる偶像崇拝に対する妥協なき非難について知る人ならば、誰もにとって驚愕的なことかも知れませんが、私のケースは稀ではないのです。ヒンズー教徒の大衆がどのような信条を抱いていようとも、ベーダーンタは唯一なる真実、つまり純粋な一神論を掲げ、イスラームがタウヒードと呼ぶものと同じなのです。ムスリムにとっては他の人々よりも、古来から続く他の諸宗教には一神論の教義が基礎を成していることへの理解が容易いはずです。「蓮の中の宝石」に偶像崇拝的な迷妄が重ねられたのは、個々人の心に偶像崇拝が重ねられた結果なのです。偉大なキリスト教神秘主義者も「真理は人にとって生得である」と言ったように、タウヒードこそは真理なのです。

ケンブリッジでの生活はあっという間に終わり、私はサンドハースト王立陸軍士官学校へと送られ、若き士官として五ヶ月間に渡り、殺すか殺されるかの特訓を受けました。兵術をさらに学ぶため、スコットランド北部へと派遣され、そこでは私自身の意思に任されており、読書をしたり、北海沿いの花崗岩の崖の上を散歩したりして時間を過ごしました。そこではいつも強風が吹き荒れていましたが、私はかつて感じたことのないような安寧を感じていました。ベーダーンタ、そして中国古来の教義である道教について読み込むほど、私はようやく物事の本質というものについて一定の理解を得、そしてそれ以外はすべて夢のような儚い存在である究極の真理というものを(おそらく思考と想像の賜物でしょうが)垣間見たのです。しかし、私はまだそれを「神」と呼ぶことはおろか、アッラーと呼ぶ準備など到底出来ていませんでした。

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元英国外交官チャールズ・ル・ガイ・イートン(4/6)

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説明: 哲学者/作家による真実の探求は、信仰と行為を調和させるための恒常的な葛藤に悩まされました。第4部:T.S.エリオットと、ガイの処女作。

  • より ガイ・イートン
  • 掲載日時 15 Oct 2012
  • 編集日時 15 Oct 2012
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私は軍を去り、自分の思いを書き留め、きちんと整理する必要性を感じました。私はベーダーンタ、道教、禅仏教について書き出しましたが、同時にそれらの教義に影響を受けた(マイヤーズを含む)西洋作家についても書きました。当時、出版社の社長で、偶然出会った詩人のT.S.エリオットによって、それらのエッセイはソローの作品からの引用文に因み、「The Richest Vein(最も豊かな気持ち)」という題名で出版されました。丁度当時、私にとっての導きとなる人物と出会っていました。その人物とは、シェイフ・アブドル=ワヒードとして、その人生の大半をカイロで過ごした、フランス人男性のルネ・ゲノンでした。

ゲノンはその妥協なき知的厳正さから、現代人、つまり西洋人または西洋化された人々によって当然のこととして受け止められていることをことごとく破壊しました。いわゆる「ルネッサンス」以降のヨーロッパ文明の向かう先は、他の多くの人々によっても批判されてきましたが、誰一人として彼ほどまでに急進的で度重なる強烈な批判を、西洋文化が歴史の先端にあてがった原理や価値観に対して行った者はいないでしょう。彼のテーマは「原始的伝統」または永遠の哲学と呼ばれるもので、それは世界宗教の根源として、古代神話、そして形而上学的教義の双方により明示・保持されているものです。こうした伝統の言語は象徴言語であり、彼によるその解釈は、他の追従を許しませんでした。さらに、彼は人類の進歩を逆さまにし、近代以前においては普遍的であった信条と取って変えたのです。つまり、人類の精神性は時間の経過と共に衰退するというものであり、我々は以前の諸文化が拒絶したすべての悪徳が顕現し、量が質を凌駕し、退廃がそのピークに達するとされる、終末前の暗黒時代にあるのです。彼の著作を読み、それを理解した人は、二度と元の自分に戻ることはないでしょう。

ゲノンを読むことによって人生観の変わった他の人々のように、私も20世紀の世界において異邦人となっていました。彼は最終啓示であり、以前の諸啓示の総括であるイスラームへの確信から、自らの論理を突き進んでいました。私はまだそれに対する心の準備が出来ていませんでしたが、やがて自分の意見を押し殺すこと、または最低限でも覆いをかぶせることを学びました。自分の周囲の人々との恒常的な確執の状態で生活することは誰にとっても幸福なものではありません。また、彼らとの論争は、同じ基盤を共有していないため不可能なのです。論争や議論は、それに関係する人々が、ある一定の共通点を持つことを前提とします。共通点が存在しなければ、混乱や誤解、または衝突を避けることは出来ないでしょう。現代文化の根本である信条は、人々によるその情熱的な追従においては、サルマーン・ルシュディの著作「悪魔の詩」騒乱で明るみに出たような盲目的な宗教信仰と大差はないのです。

私は時々、無益な議論に加わらないという決意をうっかり忘れてしまうことがあります。数年前、トリニダードの外交晩餐会に招待されたとき、私のとなりの若い女性が、正面に座る英国人牧師と会話していました。彼女が人類の進歩について信じるべきかどうか分からない、と言うまで、私は半分しか会話に参加していませんでしたが、牧師の答えが非常に無礼かつ侮辱的だったので、私は抑えきれずこう言いました。「彼女の言い分は至極正しい。進歩などというものはない!」彼は激昂から歪んだ顔で私の方を向き、こう言いました。「もし今夜、私が自殺しようと思ったのであれば!」自殺はキリスト教徒とムスリムの双方にとって大罪であることから、「より良き未来」に向い進歩中の信仰が、地上における楽園への願望によって、神と来世への信仰に取って変わられたことをその時初めて気付いたのです。反逆的司祭のテイヤール・ド・シャルダンの著作において、キリスト教はそれ自体が進歩の宗教に縮小してしまいました。この信仰を近代西洋人から奪い取ってしまえば、彼らは指標を失い、荒野をさまようこととなるのです。

「The Rickest Vein」が出版される頃、級友から仕事を紹介されたため、私は英国からジャマイカに移り住んでいました。私の著作のカバーでの触れ込みは「成熟した思想家」というものでした。「成熟」という形容詞は、一人の人間としても、その人柄としても、私に対してはどう考えても不適切なものでした。私は青年になったばかりで、ジャマイカは青年期の幻想を実現するのにぴったりな場所だったのです。戦後直後の西インド諸島(カリブ諸島)での暮らしを経験した者だけが、そこの提供した「経験」と性的アドベンチャーを求める者たちにとっての喜びと魅力の場だったことが理解できるでしょう。マイヤーズ同様、私には節度を与えてくれるような倫理観が欠落していました。私の著書を読んで手紙を送ってくれた人々の中には、私のことを「白く長い髭を蓄えた」「英知と人情に溢れた」老人であると思い込んでいるものもあり、自分を恥ずかしく思いました。私は直ちに彼らを幻想から目覚めさせ、彼らが私に課している重荷から開放されたいと願いました。ある日、カトリックの牧師が島を訪れ、彼の友人にガイ・イートンという著者による「非常に興味深い本」を読んでいることを告げました。彼は、その著者が実際にジャマイカにいることを知ると驚愕し、どうすれば彼と会えるかと尋ねました。彼の友人たちは、私が来るであろうとされたパーティーに彼を連れていきました。彼は私へ紹介され、目の前にいる愚かな若者を一瞥すると、驚きのあまり首を振って静かにこう言ったのです。「あなたがあの本を書いたなんてあり得ないことだ!」

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元英国外交官チャールズ・ル・ガイ・イートン(5/6)

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説明: 哲学者/作家による真実の探求は、信仰と行為を調和させんがための恒常的な葛藤に悩まされました。第5部:カイロでの仕事。

  • より ガイ・イートン
  • 掲載日時 22 Oct 2012
  • 編集日時 22 Oct 2012
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彼は正しかったのです。私自身も、マイヤーズのとき、そしてそれ以降も多くの機会で経験した、理念を紙に書き留めるという著者としての行為と、実際の人間生活における個人とのギャップという、人間性における大いなる矛盾に直面したです。イスラームによる目的の一つに、性格における異なる要素における完全なバランスを達成し、それらを同一の真っ直ぐな道の上を歩ませるために同じ方向を向かせ、お互いを協調させるというものがあります。西洋においては、全くバランスが取れておらず、他の全ての面を犠牲にして人格の一面のみを発達させている人々を目にするのは珍しいことではありません。英知について語ったり書いたりすることは、その達成に取って代わるものではないと私は気づきはじめました。そういったことを語ったり書いたりする人々は、その内容について真摯であることから、そのこと自体は必ずしも偽善とは言えないでしょう。つまり、それは彼らの中の最も良き部分を表現しているのであり、彼ら自信がそれにふさわしいとは限らないということなのです。

2年半後、家庭問題から私は英国に帰国しました。私の著作を読んで手紙を出してくれた人々の中には、ゲノンの著作に精通し、彼を通してイスラームに改宗した二人の男性がいました。私はロンドンで彼らに会いましたが、彼らは私が探し求めているものは、インドや中国ではなく、あなたの身近に、そしてアブラハムの伝統の中にあるのだと語りました。そして私自身が伝道することをいつ実践し、「精神的な道」を歩み始めるつもりなのかと尋ねてきました。彼らは穏やかに、且つ確固として、私がすでに理論上は知っていることを自らの人生に適用すべき時が来たのだ、と言うのです。私は現世的冒険の可能性が尽きる老年期までは彼らのアドバイスに従うつもりはなかったので、親切に、且つつかまえどころのない受け応えをしましたが、それ以降、より関心深くイスラームについて読書するようにはなりました。

この関心は、事際に中東で働くことによってイスラームに対する強い偏見を育んでていた私の親友の不承認を招きました。この「粗野な宗教」が精神的な面を有するという概念は、彼にとってあり得ないことでした。それは見せかけの形式主義、非合理的な禁忌への盲目的追従、礼拝の繰り返し、偏屈な頑迷さ、そして偽善以外の何でもないと彼は私に保証しました。彼は私を確信させるために、ムスリムによる実践例のいくつかを述べました。その中で私が覚えているものは、病院で死の床にある若い女性が、マッカの方角を向いて死ぬことの出来るよう、苦しみながらも起き上がって最後の力を振り絞り、ベッドの方向を変えたというものがありました。私の友は、彼女の「愚かな迷信」のために自らを苦しめてまでそうさせた行為にひどく胸をむかつかせていました。しかし、私には逆にそれが素晴らしい逸話に聞こえました。私が想像し得るいかなる精神状態をも遥かに勝るその女性の信仰心に、私は心打たれたのです。

当時は職にも就けず、ひもじい暮らしをしていました。私はカイロ大学の英文学の助教授を含め、求人のあったほぼすべての職に応募しました。そのときは馬鹿げたことをしたものだ、と自分でも思っていました。私はケンブリッジ大学で歴史の学位を取ったのであり、19世紀以前の文学については何も知らなかったのです。どうして、無資格の私を彼らが雇おうというのでしょうか?しかし、彼らは選考の末に私を雇ったのです。1950年の10月、私が29歳のとき、イスラームへの関心が根を生やしていた丁度その頃、私はカイロへと旅だちました。

私の同僚には、エジプトに居を構えていたマーティン・リングスという英国人ムスリムがいました。彼はゲノンの友人、また私がロンドンで話した二人のムスリムの友人でもあり、私がそれまで会ったことのある誰とも全く異なる人物でした。彼は、私がそれまで理論上のみ存在すると思い描いていたものの生きた化身で、私は遂に現存するそれとめぐり逢うことが出来たのです。彼は郊外の伝統的住居に住んでおり、毎週のようにリングス夫妻を訪れることは、近代的カイロの喧騒からの時間を超越した逃げ場であり、そこでは内面と外面が分け隔てられることもなく、私が慣れ親しんだ世界の現実とされるものは、陰のような薄い存在だったのです。

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元英国外交官チャールズ・ル・ガイ・イートン(6/6)

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説明: 哲学者/作家による真実の探求は、信仰と行為を調和させんがための恒常的な葛藤に悩まされました。第6部:蒔いた種を結実させること。

  • より ガイ・イートン
  • 掲載日時 05 Nov 2012
  • 編集日時 05 Nov 2012
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私には逃げ場が必要でした。土地と恋に落ちる事が出来るというなら、私はジャマイカと恋に落ちましたが、ジャマイカではないという理由だけで、私はエジプトが大嫌いでした。そこには青い山々、熱帯の海、そして西インド諸島の美しい女性たちは見当たりませんでした。私は故郷と感じることの出来た唯一の場所から、なぜ去ってしまったのでしょうか?しかしそれだけではありませんでした。私が残してきたのは土地だけでなく、その人物を抜きにして人生は空虚で生きる意味のない、一人の若い女性でした。そのとき、私は強迫観念という言葉が意味するものを初めて悟りました。それは苦痛を伴うレッスンでしたが、自分自身、そして他人について理解しようとする者にとっては良いレッスンでもありました。それ以前の私の人生には何の価値もありませんでした。現実問題として、それは昼夜を通して私の思考を占め、夢の中まで現れて来る人物への欲求でした。職務時間中、私は学生たちの前で恋愛詩を詠み、涙すると、彼らはこう言ったのです。「英国人に心があるとは。私たちは皆、英国人は氷のように冷たいと思っていたのに。」

これらの学生たちは、5〜6人の上級生グループでしたが、彼らも私にとっての逃げ場でした。私の居たかった場所から8,000マイルも離れていたことを理由にエジプトは嫌いでしたが、この青年たちは心から愛していました。彼らの暖かさ、素直さ、そして彼らが知りたかったことについて私の教えを信用してくれたことは、とても嬉しいことでした。彼らは善きムスリムであったため、私は彼らの信仰も愛すようになりました。もはや私には疑念がありませんでした。もし私が一つの宗教に打ち込み、そこに自らを監禁することが可能なのであれば、それはイスラーム以外に考えられませんでした。ただ、私にはその準備が出来ていませんでした。聖アウグスティヌスの祈りが頭の中をよぎりました。「主よ、私を貞節にしてください。ただし、今ではなく。」海のような広大な余暇を持て余す若者たちは、貞節さ、敬虔さ、またはより良い人生について祈りますが、同じような保留の態度を示すのです。そして彼らの多くは同じ状態で死に臨むのです。

正直に言うと、私は自らの躊躇に打ち勝てなかったかも知れません。将来的にイスラームを受け入れようと意図してはいましたが、決定行為を何年も延期し、年を取っても「まだだ」と言い続けていたのかも知れません。ジャマイカへの愛着心と、あの人物への想いは、月日を重ねても消えるどころかますます大きくなっていきました。ある朝、私は目覚めると、あの島へ戻ることを阻むのは、金銭面だけであると確信したのです。問い合わせると、蒸気船のデッキであれば、70ポンドで旅立つことが出来ることを知りました。大学の学期後までにはその金額を蓄えることが出来ることは分かっていたので、私の人生は再び変化しました。脱出が近いことを確信したので、私は意外にもカイロを楽しむことが出来るようになりました。しかし、一つの問題がはっきりとした答えを要求しており、その答えを遅延することはそれ以上不可能でした。イスラームへ改宗する機会は、次はないかも知れなかったのです。私の正面には開いた扉がありました。もしそこに踏み入れなければ、その扉は永久に閉じるかも知れなかったのです。しかし、私はジャマイカでどのような生活をするか知っていましたし、そうした環境でムスリムとして生きて行く決意が私にあるかどうか分かりませんでした。

私はムスリム同胞だけでなく、大半の人々が驚愕するような決断を下しました。私は、取り敢えずはイスラームを受け入れ、自分の心のなかに「種を撒き」、それがやがては健康な木として育つことに希望を託すという決心をしたのです。私には何も言い訳はありませんし、誰かがそれは不誠実、または虚偽の意図であると言いがかりをつけてきても、その人物を責めることは出来ません。しかしそのような人物は、神にはいつでも人の弱さをお赦しになる準備があること、そして不毛な地から種の芽を出し、それを実らせることの出来る御力があることを見くびっているのではないでしょうか。いずれにせよ、私にはある種の強制力が働いており、私はそれに対応しなければならなかったのです。私はマーティン・リングスの元へ行き、一気に話をぶちまけ、彼に「シャハーダ」の証人、つまり信仰宣言に立ちあって欲しいと頼んだのです。彼は最初は躊躇していましたが、願いを聞いてくれました。恐怖で一杯ではありましたが、ある種の喜びを感じつつ、人生で始めての礼拝をしました。翌日、そのときはラマダーンだったので、私は自分がそうすることなど出来っこないと決め付けていた断食をしました。それから私は上級生の生徒たちに成り行きを知らせ、彼らは暖かい歓迎をしてくれました。それまでも、私たちは親しい仲だと思っていたのですが、実際には私たちの間には障壁があったことに気付いたのです。その障壁はなくなり、私は彼らの真の兄弟として認められたのです。私の密かな旅立ち(学部長には私が去ることを伝えていませんでした)までは6週間が残っており、彼らの一人が毎日、私にクルアーンを教えにやって来ました。私は鏡の中の自分に目を凝らしました。顔は同じでしたが、それはまるで別人が被っているマスクのようでした。私はムスリムになったのです。依然、興奮した状態で私はアレキサンドリアの船に乗り込み、未知の未来へと出航しました。

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