マイケル ウォルフ、ジャーナリスト アメリカ
説明: 2003年度のウィルバー賞宗教書籍部門で最優秀賞を受賞した著者であり詩人でもある、そしてテッド・コペルの“ナイトライン”に出演し、ハッジの監修も務めたマイケル・ウォルフがイスラームを受け入れた彼の動機を述べる。
- より マイケル ウォルフ
- 掲載日時 06 Dec 2009
- 編集日時 21 Oct 2010
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アメリカでの25年間の作家生活の後、私は自分の皮肉的なところを和らげる何かを欲していました。私は、悟るということの新しい方法を探していました。その方法の一つは、この分野でのある種の必要を打ち立てることです。多元主義の経歴から、私は自然と、人種差別と自由の問題に重きを置くようになっていました。私は20代初期に、3年間アフリカで生活をしたことがありました。私にとっての形成期であったこの間、私は様々な部族の黒人、アラブ人、ベルベル人、そしてムスリムであるヨーロッパ人らと交友しました。これらの人々は、西洋の社会的人種の分類にこだわりなどありませんでした。また私たちの出会いの中で、肌の色の違いなどは滅多に問題にはなりませんでした。私はまず歓迎され、そして私の真価によって評価されました。これとは対照的にヨーロッパ人やアメリカ人は、、人種差別的概念をもっていない多くの者でさえも、自動的に人を人種的に分類しています。一方ムスリムは、その信仰と行動により分類されます。私はこれを、超越した斬新なものだと思いました。マルコムXは、彼の民族の救いをそこに見たのです。彼はこう書きました:“アメリカはイスラームを理解する必要があります。なぜならこれは社会の人種問題を消し去る唯一の宗教だからです。”
私は、物質主義的文化からの逃げ道も探していました。私は、霊的な次元に辿り着きたかったのですが、自分が少年の時に知っていた従来の道は閉ざされていました。私の父はユダヤ人で、母はキリスト教徒でした。このような生い立ちから、私は2つの宗教のもとに育ちました。確かにいずれの信仰とも奥深いものでした。しかし一方は選民思想を強調しており、私はその正当性を疑いました。そしてもう一方は秘儀に基づいたもので、私はそれを不快に感じていました。1世紀前、私の母方の曾曾祖母の名前はオハイオ州はハミルトンの大通りにあるキリスト教会のステンドグラスに据えられましたが、二十歳の頃の私にとって、これは何の意味もなしませんでした。
これらが私の初期の人生が提供してくれたものです。今このことを考えれば考えるほど、私はアフリカのイスラーム圏での経験に戻ってしまいます。1981年と1985年の二度のモロッコへの旅の後、私はアフリカ大陸に調和のとれた生活を見つけました。それは私が追っていた大陸でも、また慣習でもありませんでした。私は、自分が生きている今の生活に適応できる霊的概念の型、枠組みを探していたのです。私は自分の文化を“交換”したくはありませんでした。私は、新しい人生の意義に辿り着きたかったのです。英米式の夕食の後、私はトイレに手を洗いに行きました。私の退席中、ハシディム派の団体がドアの外で並んで祈っていました。私が終えた頃には、彼らは私に気付かないほど祈りに没頭していました。トイレから出ると、かろうじて取っ手を動かせるくらいでした。 通路側に出ることなどはもっての他だったのです。私は集まった人の背中を見ながら、廊下に頭を突き出した体勢でしか立つことが出来ませんでした。彼らは手のひらサイズのお祈りの本を持ち、まるで占いでもしているかのように胸骨の上の語句を叩きながら、印象的な形で踊っていました。少しずつ動きはふらつきだし、ロックンロールの軽妙な動きのようでした。私は、彼らが終わるまでトイレのドアから見ていて、それからそっと通路から自分の席へと戻りました。
私たちはその夜遅くにブリュッセルに到着し、食事のトレーの上に捨てられたイディッシュ語の新聞を見つけました。飛行機がモロッコへ向けて離陸した時、彼らはもういませんでした。私はここで、自分の人生のこの期間に、どんな壮大な意向に順応したかということを意味しているのではありません。1981年のはじめ、私は旅への興味と欲求に駆り立てられました。お金があった時の私のお気に入りの旅先はモロッコでした。旅ができない時には、本がありました。この魅力が異国情緒へと駆り立てられた何人かの作家、フレーヤ・スタークによる次のような文章の書ける執筆家たちとの出会いをもたらしました:
“アラビアの永遠の魅力は、旅行者がそこで彼自身を単なる人として見いだすことだ。またより明瞭な美徳のように感傷的または衒学的な人々の率直さ。そしてもしかすると人は、時計職人サイイド・アブドゥッラーの言う旅の5つの理由: “問題を置き去る、生計を立てる、学習する、良いマナーを実践する、そして立派な人物と出会う、”の上に、更に人に好まれる心地よさを付け加えるかもしれない。”私は、必要なもののリストを作ることは出来ませんでしたが、自分が追求しているものに関してのかなりの概念はありました。形而上学が科学的であるように、私が欲していた宗教は形而上的なものでした。それは狭い合理主義により制限されるものでも、その司祭を喜ばせるための秘儀のやり取りでもないのです。そこには司祭はおらず、自然と神聖な物の分離もありません。もし私がそれに役立てるのなら、そこには肉体的な戦争もありません。性は自然で、種の呪いの上にあるものでもありません。私は最終的に、感覚を研ぎ、精神をしつける毎日の習慣である儀式的要素を欲していたのです。とりわけ、私は透明さと自由を求めていました。私は単に、教義にくくりつけられるために道理を手放したくはありませんでした。そしてイスラームについて学べば学ぶほど、それは私の追い求めていたものと一致するかのように映り始めました。この頃、私の知っていた大抵の教育レベルの高い西洋人は、いかなる強い宗教も疑う傾向にありました。彼らは宗教を、政治的手法として分類するか、彼らヨーロッパ人の過去からの考えを映し出す中世の概念だとして追いやっていたのです。彼らの意見の根源を探し出すことは難しくはありませんでした。何千年もの西洋の歴史は、多くの無知と虐殺の道へと導いたことを後悔させる、多くの十分な理由を残しました。私たちの世紀の間、子供の十字軍や異端審問からナチズム、共産主義の変形した信仰まで、全ての国々は信仰により疲労させられてきました。ニーチェの、近代国家が代替宗教となるという恐怖は、悲劇的にも正確に証明されてしまったのです。私には、我々の世紀は信仰者が不可知論者とほぼ同様の形で存在した、無信仰の一時代として終わったように思えるのです。教会の所属に関係なく、世俗的ヒューマニズムは、西洋人の呼吸する空気であり、私たちが見つめるレンズでした。他の世界の視点と同様に、この視点は普及性があり、かつ明瞭でした。民主主義と全てのその無数かつ魅力的な形の自由への追及は、私たちの広範囲にわたる同一化の基礎を形成するのです。我々の共有された先入観に没頭することで、人は同じ地球上に他の生き方が存在することすら簡単に忘れてしまうこともあるのです。私が旅をしている頃、例えば 650,000,000人のムスリムが44カ国において多数派で、イスラームの正統な教えに忠実でした。また、ヨーロッパ、アジア、アメリカでは約400万人が少数派ムスリムとして住んでいました。植民地独立後の経済により、イスラームは30年ほどで、西ヨーロッパの主要な信仰になっています。世界の主要な宗教の内、イスラームだけがその数を増やしているのです。政治的関心のある友人たちは、私の新しい興味に困惑しました。彼らは皆、そして例外なく、中東の似たり寄ったりの暴君の陰謀とイスラームを混同していました。彼らが読む本、彼らが見る新しい放送は、政治的な機能のセットとして信仰を描写しました。そしてその大半は精神的実践について何も語っていませんでした。私は彼らに、マエ・ウエストの次の言葉を引用するのが好きです: "あなたが宗教を笑いの種にする時はいつでも、あなたが笑われているのです歴史的にムスリムは、イスラームを最終であり、アダムへたどる原初の宗教の成熟した表現であると見ています。ユダヤ教同様、断固として一神教であり、イスラームの主要な預言者達は、進歩の鎖の輪として崇められ、イエスとムハンマド(彼らに神の称賛あれ)を長とする一神教です。本質‘ほんし的に更新されたメッセージとしてイスラームは、忘れ失われた人生の甘さの味を数百万人もの人々に思い起こさせる役割を世界で果たしたのです。ゲーテはクルアーンに関して、このような言葉を残しました: "見るが良い。この教えは失敗しないであろう。我々の全システムをもってしても、私たちはそこに到達することはできないのだ。一般的に言っても、誰もこれ以上行くことは出来ない。伝統的なイスラームは、5本の柱の実践を通して表現されます。信仰告白、礼拝、喜捨、そして断食は、人の人生を通して繰り返し実行されます。また. 条件が許せば、マッカへの巡礼を一生に一度行うことが課せられています。この5番目の儀式をアラビア語の用語でハッジと言います。学者たちはこのハッジという言語を、アラビア語の「カスド(目指すこと)」というコンセプトに、‘そして男性と女性が地上における旅行者だとする概念に関連づけています。欧米の宗教では、巡礼は伝統の名残の風変わりなものであり、民俗的概念は一般的に単なる象徴にまで成り果ててしまいした。一方ムスリムの間では、ハッジは毎年数百万人の新たな巡礼者の重要な経験を体現しています。彼らの現代生活における満足にも関わらず、服従行為、信仰告白、そして精神的社会の目に見える表現は残っているのです。大多数のムスリムにとってハッジは一生に一度の旅であり、究極の目標なのです。改宗者として、私はマッカに行く義務を感じました。 旅行依存症者として私は、それ以上魅力的な目的を想像することができませんでした。毎年、一ヶ月間のラマダンの断食が、ハッジより約100日前に行われます。これらの2つの儀式は、イスラーム社会の中で意識の強化期間を形成しています。私はこの期間を利用したかったのです。私はイスラームについて読み、カリフォルニア州の自宅近くのモスクに出席し、実践し始めました。今や私は、存在のあらゆる側面に吹き込まれる宗教であるイスラームに密着しつつ学んできたものを、より深めることを期待していました。私はモロッコから旅行を始める計画を立てました。なぜならその国は馴染み深く、また伝統的イスラームに従っていてかなり安定していたからです。一方最も旅を始めたくなかった場所は、騒々しく偏狭な人たちの沢山いる淀んだ場所でした。私は広く、穏やかな水の主流を漕ぐことを望んでいたのです。
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