ヌール 英国在住・元ヒンズー教徒(前半)
説明: 現代社会における女性の地位問題について考えを巡らせることが、ヌールのイスラーム改宗につながります。
- より ヌール
- 掲載日時 10 Mar 2014
- 編集日時 10 Mar 2014
- プリント数: 49
- 観覧数: 12,016
- 評価者: 0
- メール数: 0
- コメント日時: 0
私は純粋なヒンズー教徒の家庭出身で、私たち女性はいずれは結婚し、子供を持ち、夫が親切であるかどうかに関わらず、奉仕することが当たり前であると教えられてきました。他にも、そこには女性を抑制する多くの事柄があることに気付きました。
例えば女性は未亡人になると、常に白のサリ(衣装)を身にまとい、菜食主義となり、髪を短くし、決して再婚することが許されません。また婚資を支払うのは、新婦が新郎の家族に対してです。新郎は、新婦にとって与えるのが困難なものであっても、それを求めることが出来ます。
それだけでなく、結婚後に新婦が婚資を完全に支払うことが出来なければ、彼女は精神的にも肉体的にも拷問を受けることになり、夫または夫と義理の母の双方から、台所で料理中に火を付けられ、「台所死」の犠牲者となり、それが事故死であるかのように装われるのです。これは実際に多く起きていることです。私の実の父の友人の娘は去年、それと同じ運命を辿ったのです!
これらすべてに加え、ヒンズー教における男性は、文字通り神々と同等に扱われています。ヒンズー教の宗教的祝祭日のひとつには、未婚少女たちが特定の神(シラ)を象徴する偶像を崇拝し、それと同じような夫を授かるよう祈ります。私の実の母も私がそうするように求めました。このことは、それが迷信や根拠のないものに基づいた宗教であり、女性を抑圧する伝統に過ぎないヒンズー教が正しくないことを私に分からせたのです。
その後、英国に留学したとき、そこは男女に平等の権利を与え、女性を抑圧せず、何でも自由なことが出来る国だと思っていました。しかし、新しい友人を作り、彼らの行く「交流」の場(バーやダンスホール等)に行き、人々との交流を通してこの社会について学んでいくうちに、この「平等」は、それが唱えられているようには実践されていないことが分かりました。
外面的に、女性たちは教育・仕事などにおいて平等の権利を与えられているかのように見られていますが、現実に女性たちは依然として異なった、より目立たない方法で抑圧されているのです。私が友人たちとバーなどにいると、多くの人々が話しかけてきたため、それは普通のことだと思っていました。しかし、その時はまだ世間知らずで、やがて私は彼らが何を本当に求めていたのかを理解するようになりました。私はすぐに、まるで自分が自分ではないかのような居心地の悪さを覚えました。そこでは人々に好かれるような特定の格好をし、特定の話し方をしなければなりませんでした。私は頻繁に居心地の悪さを感じるようになり、どんどん自分らしさを失っていきましたが、そうした状況から逃れることは出来ませんでした。皆はそれぞれが楽しいと言っていましたが、私はこういったことは楽しいこととは言えないと思いました。
私はこうした状況にある女性たちは、抑圧されていると思います。彼女らは周りを喜ばせようと、より魅力的な特定の格好をし、特定の話し方をして人々に好きになってもらおうとしています。当時、私にはムスリムの知り合いはいたものの、イスラームについて考えたことは一度もありませんでした。しかし、私は自分が満足し、安心でき、他人から尊厳されるような何かを探し出さなければならない必要性を感じていました。それは、何か信じることの出来る正しい信仰です。なぜなら、誰しもそれに従って生きている何らかの信仰を持つからです。もし夜遊びが楽しいというのを信じているのなら、人はそうします。もし飲酒によって人生を楽しむことが出来ると信じるのなら、人はそうするのでしょう。しかし私はそれらが何にも繋がらないと感じました。誰一人として完全には満足しておらず、女性の求めている尊厳は、そこでは減少する一方だったのです。
ヌール 英国在住・元ヒンズー教徒(後半)
説明: ヌールは、イスラームがいかに彼女の女性としての地位を引き上げたかについて語ります。
- より ヌール
- 掲載日時 17 Mar 2014
- 編集日時 17 Mar 2014
- プリント数: 154
- 観覧数: 14,132
- 評価者: 0
- メール数: 0
- コメント日時: 0
昨今の「男女同権」の風潮において、女性はボーイフレンドを持ち、処女ではないことが当然とされています。そうでなければ変人扱いされてしまいます。一部の女性は気が付いていませんが、これは抑圧の一形態なのです。私はイスラームに改宗した後、ようやく安心感を手に入れました。それが、人生のあらゆる側面について明白にする、完全な宗教であり、信仰であるからです。多くの人々は、イスラームは女性に自由や権利を与えず、頭から爪先までを覆い隠させる抑圧的な宗教であると勘違いしています。実際に、イスラームにおける女性は、近代になってようやく女性の権利を認めた西側諸国の一部や、その他の国々とは異なり、1400年以上も前からより多くの権利が与えられているのです。しかし現在においても、ヒンズー教の女性の例として既述したように、多くの社会では女性たちが依然として抑圧されています。
ムスリム女性には相続の権利があり、自ら商取引をする権利もあります。また彼女たちには皆、資産を所有する権利があり、夫を仲介せずに自らの意思で売却・譲渡することが出来るのです。そして彼女たちには教育を受ける権利と、合理的かつ正当な理由がある限り、結婚を拒否する権利もあります。神ご自身の言葉であるクルアーンにも、男性が妻に優しくすることや、女性の権利を強調する節々が多く存在しています。イスラームが正しい規定の数々を与えるのは、それを創ったのが人間の男性ではなく、神であるからです。それゆえ、それは完全な宗教であるのです。
ムスリム女性は頻繁に、なぜ彼女たちが頭から爪先まで覆い隠されているのかについて尋ねられ、それが抑圧であると言われます。しかし、実際にはそうではありません。イスラームにおいて、結婚は人生における重要な一部です。それゆえ、女性は彼女の夫だけの目に触れ、外出時に他人の目に触れないようにするのです。男性でさえ、身体の特定の部分は妻以外の誰にも晒してはならないのです。さらに、神はムスリム女性に対し、慎ましく覆い隠すよう命じています。
“預言者よ、あなたの妻、娘たちまた信者の女たちにも、(外出時には)かの女らに長衣を纒うよう告げなさい。それで認められ易く、悩まされなくて済むであろう。アッラーは寛容にして慈悲深くあられる。”(クルアーン33:59)
その他の社会を見回してみると、大半の場合において、女性たちは彼女らの格好が一因となって襲われたり乱暴されたりしています。このことについて私が言っておきたいことは、神によってイスラームで定められた規定が、女性だけでなく、男性にも適用されていることです。男女間の自由な交流は認められていません。神による命令は、それが何であれ正しく健全、純粋かつ人類にとって有益なものなのです。それに関し、疑いの入り込む余地はありません。次のクルアーンの節は、この概念について説明しています。
“信者の女たちに言ってやるがいい。かの女らの視線を低くし、貞淑を守れ。外に表われるものの外は、かの女らの美(や飾り)を目立たせてはならない。それからヴェイルをその胸の上に垂れなさい。自分の夫または父の外は、かの女の美(や飾り)を表わしてはならない。”(クルアーン24:31)
私がヒジャーブ(ベール)を着用したときは、とても嬉しく感じたものでした。実際、それをしたくてたまりませんでした。ヒジャーブを被ったときは、満足感と幸福感に溢れました。神の命令に従うことへの満足感、そしてそれに付随する善きものと祝福について幸福を感じたのです。それは、安心感と守られている感じを与えてくれました。実際に、人々はそうすることによって私に敬意を払ってくれました。周りの人々の対応の変化は、はっきりと感じ取れました。
最後に、私は盲目的、あるいは強制的にイスラームを受け入れたのではないことを明確にしたいと思います。クルアーンの中にも次のような節があります。
“宗教には強制があってはならない。”(クルアーン2:256)
私は確信と共にイスラームを受け入れました。私は過去に様々なことをやってきました。そして双方の主張について理解しているつもりです。他方がどのようなものかを経験し、実体験として知ることが出来ましたし、私は自分の決断が正しいことであると確信しています。イスラームは女性を抑圧するのではなく、解放するのであり、彼女たちに相応しい尊厳を与えます。イスラームは、人類のために神が選んだ宗教なのです。それを受け入れる者は、支配と法律によって一方がもう一方を弾圧し、一方の性がもう一方の性を搾取し抑圧する、人類の鎖と束縛から真に解放されるのです。イスラームは女性に真の解放を与え、他のいかなる権威によっても与えられなかった個性を彼女らに与えたのです。
コメントを付ける