神の擬人化(5/5):神は子をもうけたのか
- より ビラール・フィリップス博士
- 掲載日時 14 Feb 2011
- 編集日時 14 Feb 2011
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もし神が人間にならなかったのであれば、かれは子をもうけたことになるのでしょうか?かれにはあらゆることが可能であることから、子をもうけることも可能かもしれません。しかし、それは神を被造物と同じ低い地位に引き下げるのです。生き物は出産をすることによって繁殖し、それら子孫もやがて成長して同じように繁殖を繰り返します。犬は子犬を、猫は子猫を、牛は仔牛を、そして人間は子供を持ちます。そうであれば、神は子神を持つとでも言うのでしょうか?神は神々を生み出さなければならないでしょう。しかし神が子を持つためには、かれ以外のもう一人の神がいなければならないはずです。神が子をもうけるということは、神と被造物の関係が同等となることを意味し、それは神という存在にとって相応しくありません。
神以外のあらゆるものは、神の命令によって存在がもたらされるのであり、神もしくは神の一部が創造物になるということではないのです。神は自らの創造物にはなりませんし、神は創造物を生み出すのでもありません。神は創造主であり、人間と宇宙のあらゆるものはかれによる創造なのです。人間は無からの創造という概念を理解することが出来ませんが、これこそが神の行いというものなのです。無から創造する者はかれのみであり、それが彼の独自性、そして被造物からの区別をもたらします。かれによる創造という行為は、人間のそれとは全く異なるものです。
これは神が人類に遣わしたアブラハム、モーゼ、イエス、ムハンマドに代表される真の諸使徒・諸預言者によるメッセージの真髄であり、同様に世界中に遣わされたにも関わらず、現在では人類にその名の知られていない者たちも含まれます。彼らに神の平和と祝福がありますように。今日においても、神による人類への最終啓示であるクルアーンにおいて、まさにそのメッセージを見出すことが出来ます。そのメッセージはクルアーンにおいてのみ、1,400年前と寸分違わない形を今なお保っているのです。
神はクルアーンにおいて、かれをかれの創造物と同等(またはその反対)であるとみなす人々に関してこのように述べています:
『...かれに比べられるものは何もない...』(クルアーン42:11)
またかれは、かれに子を結びつける者に関してこう述べています:
『子を設けられることは、アッ=ラフマーン(慈悲深き御方)にはありえない。』(クルアーン19:92)
かれは更に、かれが自らの体から世界を創ったと信じる者たちに関して述べています:
『何かを望まれると、かれが「有れ。」と御命じになれば、即ち有る。』(クルアーン36:82)
多神教徒に関してはこう述べます:
『...またかれと一緒の他の神もない。そうであったら、それぞれの神は自分の創ったもので分裂しお互いに抜き出ようとして競い合う...』(クルアーン23:91)
無神論者にはこう尋ねます:
『かれらは無から創られたのではないか。それともかれら自身が創造者なのか。』(クルアーン52:35)
イエスとその母マリアに関して、単純明快にこう述べ、彼らの人間性を確証します:
『...彼ら両人は食べ物を食べていた...』(クルアーン5:75)
神は人間にならないという概念を理解するのは、すべての人々にとって非常に重要なことです。なぜならそれはイスラームと現存するその他すべての諸宗教との違いにおける根本を成しているからです。他のすべての諸宗教は神に関しての概念を多少なりともねじ曲げています。理解しなければならない最も重要な観念とは、神が擬人化をしなかったということなのです。神は唯一無比であり、かれのみが被造物によって崇拝される権利を有します。人が神である、または人が神になったと信じ、その人物を崇拝することは、この地上において人間に出来うる最も大きな罪であり、最も邪悪な行為です。こういった理解が重要なのは、それが救済の根幹であるからです。それによって以外、救済はあり得ないのです。しかし、こう信じること自体は、救済の鍵とはなりません。正しい信条は実践に移されねばならず、それが真の信仰となるには、ただ単に知識として留まっているだけでは事足りません。人が救済を得るには、正しい信条に基づいた、誠実な人生を送らねばなりません。そしてその出発点とは、神が誰であるかを知ること、そして神は決して人間にはならなかったこと・ならないことを知ることです。
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