アッラーについての誤解(上):アッラーは神なのか
- より アーイシャ・ステイシー
- 掲載日時 20 Apr 2015
- 編集日時 27 Aug 2023
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そう、アッラーは神なのです。アッラーは唯一無二の存在です。アッラーはユダヤ教とキリスト教の双方において崇拝されている同一の神であり、そう認められています。歴史を通し、世界中のあらゆる信仰を持つ人々は、神もしくは宇宙の創造主である究極の神格者へと立ち帰ってきました。かれはアッラーであり、アッラーは神なのです。神とは創造主で、供給者のことです。
神という言葉は、言語によって綴りや発音などが異なります。フランス語ではDieu、スペイン語ではDios、中国語ではShangdiとなります。アラビア語でアッラーは、あらゆる服従と崇拝に値する、唯一なる真実の神を意味します。聖書の章句においても唯一なる真実の神は言及されているため、ユダヤ人とキリスト教徒のアラブ人も神のことをアッラーとして言及します。
“聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。”( 申命記6:4、マルコ12:29)
3大一神教(ユダヤ教、キリスト教、イスラーム)において、神とアッラーは同一の存在となります。しかしながら、「アッラーは神なのか」という質問においては、「アッラーではないのは何なのか」ということを理解することも同じように重要となります。
アッラーは人間ではなく、霊妙な魂でもないため、ムスリムがアッラーについて語るとき、三位一体論は無関係です。アッラーは生まれもしなければお生みにもならず、息子や娘などの子を持ちません。アッラーには同位者や下役もいないため、アッラーという概念を部分的に有した神々や下位の神もありません。アッラーは被造物の一部ではなく、あらゆる人間やすべての物に宿っているわけでもないため、アッラーのようになったり、アッラーの性質を宿したりすることは不可能となります。
“言え、「かれはアッラー、唯一なる御方であられる。アッラーは、自存され、御産みなさらないし、御産れになられたのではない、かれに比べ得る、何ものもない。」”(クルアーン112)
神による人類への導きの書であるクルアーンは、アラビア語で啓示されました。それゆえ、非アラビア語話者は術語や名称において混乱する場合があります。ムスリムがアッラーという言葉を使えば、それは神のことを語っているのです。神は究極の存在であり、この上なく素晴らしい存在であり、全能者であり、あらゆる存在を創造した御方なのです。
“かれは真理によって、天と地を創造なされたのである。かれはかれらが同等に配するものの上に高くおられる。”(クルアーン16:3)
ムスリムは、イスラームが神による人類への最後のメッセージであること、そして神は預言者モーゼにトーラーを、預言者イエスに福音を授けたことを信じています。ムスリムは、ユダヤ教とキリスト教が本来の形においては天啓の宗教であることを信じます。事実、イスラームの信仰箇条の一つとして、すべての啓示された神の書を信じることが含まれています。イスラームの預言者たちは、ユダヤ教・キリスト教と同じ預言者たちが含まれます。彼らは、「唯一なる神を認め、崇拝せよ」という同一の教えを携えて人々のもとに現れたのです。
“ヤコブが臨終の時、あなたがたは立ち会ったか。かれがその子孫に向かって、「わたしが亡き後、あなたがたは何に仕えるのか。」と言うと、かれらは、「わたしたちはあなたの神、アブラハム、イシュマエル、イサクの神、唯一の神(アッラー)に仕えます。かれに、わたしたちは服従、帰依します。」と言った。”(クルアーン2:133)
ムスリムは、神の預言者・使徒たち全員を敬愛しています。しかしながら、ムスリムはクルアーンだけが、人間によって作り出された概念や偶像崇拝的な実践とは無縁な神の概念を含んでいると信じています。
アッラー(神)はクルアーンにおいて、あらゆる民族に諸使徒を遣わしたことを非常に明確にしています。私たちは彼ら全員の名前や遣わされた時代を知りませんし、彼ら全員の逸話も知りませんが、神は人間をこの世にもたらし、一人ひとりを放ったらかしにしておくのではないということは確かです。神の慈悲、愛情、正義、そして真理の教えは全人類に対してもたらされたのです。
“本当にわれは、各々の民に一人の使徒を遣わして「アッラーに仕え、邪神を避けなさい。」と(命じた)。”(クルアーン16:36)
“それぞれの民に対して、使徒が(遣わされたので)ある。”(クルアーン10:47)
数千年に渡って、人類はこの広大な地球で生死の営みを繰り返してきました。ある女性が創造主を求めて天を仰いだとき、彼女はアッラーを求めているのです。ある男性が慈悲や安堵を求めて両手に顔をうずめるとき、彼はアッラーを求めているのです。ある子供が恐怖におののき部屋の隅にしゃがみ込むとき、その心はアッラーを求めています。アッラーこそは神なのです。誰かが明るい一日の始まり、またはひんやりとした爽快な雨、あるいは木々の間を吹き抜ける心地よい風を感謝するとき、その人物はアッラー、つまり神に対して感謝しているのです。
人類は神の純粋性を取り上げ、途方もない妄想や奇妙な迷信と混同します。神は3つではなく、唯一です。神には同位者もなければ共同者もいません。神は、その荘厳さと主権において唯一無二です。神と比べ得るものは何一つなく、神のようになることは不可能です。神はその被造物の一部でもなく、それを超越した存在です。神は始まりであり、終わりなのです。神はアッラーであり、最も慈悲深き慈愛に満ちた御方なのです。
“かれに比べられるものは何もない。”(クルアーン42:11)
“かれに比べ得る、何ものもない。”(クルアーン112:4)
“かれは最初の方で、また最後の方で、外に現われる方でありまた内在なされる方である。かれは凡ての事物を熟知なされる。”(クルアーン57:3)
そうです。神はアッラーなのです。
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