大いなる疑問(3/3):啓示の必要性
- より ローレンス・B・ブラウン
- 掲載日時 06 Dec 2009
- 編集日時 21 Oct 2010
- プリント数: 332
- 観覧数: 17,339 (日平均: 3)
- 評価者: 76
- メール数: 0
- コメント日時: 0
この記事の前二部では、二つの“大いなる質問”に回答が与えられました。つまり私たちが神によって創造されたこと、そして私たちの創造の理由が神に仕えるためだということが明確にされました。そして三つめの質問とは、“もしも創造主が私たちをかれに仕え崇拝するために創造したのであれば、それはどのように行なえば良いのでしょうか?”というものです。私は前回の記事で、それを行なうただ一つの方法は啓示によって下された命令に従うことであると示唆しました。
しかし、多くの人々は私の主張にこう問いかけるでしょう:なぜ人類に啓示が必要なのか?善良な市民でいるだけで十分ではないのか?自分たちの方法で神を崇めるだけではだめなのか、と。
では、啓示の必要性に関して以下の点を述べていきたいと思います:この記事の第一部では、人生というものは不義に溢れていること、そして私たちの主は公正であるため、かれはこの現世ではなく、来世において正義を確立するということを明確にしました。そして正義とは、次の4つを抜きには確立されません。それらは、裁き(最後の審判)、審判者(創造主)、証人(人類、諸天使、その他の被造物)、そして審判がそこに基づくところの法の書(啓示)です。私たちの創造主が人類に対して特定の法を課していなければ、いかにして正義を確立させることが出来るでしょうか?それは不可能です。もしそのような筋書きであれば、神はある犯罪をそれと知らずに行なってしまった人々を処罰するという、正義ではなく不義を行なうことになります。
啓示が必要であるというそれ以外の理由は、何でしょうか?まず人類は、導きをなくしては社会・経済・政治・法などの諸問題に関して、合意することすら出来ないからです。その場合、私たちはどうすれば神に関して合意出来るでしょうか?製造者よりも取り扱い説明書を良く書くことが出来る者はいません。神は創造主、私たちは創造物であり、神以外には誰も、創造における全体的計画を良く知る者はいないのです。従業員は自分の仕事の種類、職務、報酬を思うままに立案することが出来るでしょうか?全ての市民は自分たちの法律を定めることが出来ますか?いいえ。そうでなければ、どうして私たちは自分たちの宗教を定めるようなことが出来るでしょう?もし歴史が私たちに何か教訓を与えたとすれば、それは人類がその気まぐれさに従えば、惨事が引き起こされるということでしょう。一体どれだけの自由思想を掲げる人々が新しい宗教を起こし、自分たちとその追従者たちを地上の悪夢と来世での破滅に追いやったでしょうか?
そして、なぜ善良な市民でいるだけでは十分ではないのでしょうか?またはなぜ私たち独自の方法で神を崇めてはならないのでしょうか?なぜならまず人間の“善良さ”の定義は、時と場所により異なるからです。一部の人々にとってそれは高潔な論理と生活であり、また別の人々にとっては狂気と混乱なのです。同様に、神への崇拝と奉仕の概念も異なります。より的を得た表現をすれば、レストランや商店においては、そこの商人が受け入れている通貨以外での支払いをすることが出来ません。宗教においても同じことです。もしも人々が自分たちの奉仕と崇拝を神に受け入れてもらおうと望むのであれば、彼らは神の求める通貨で支払わなければならないのです。そしてその通貨とは、神の啓示に対する服従を意味します。
あなたが自分の家で子供を育てる時に、“決まりごと”を作るのを想像してみて下さい。ある日あなたの子供の一人が自分の決まりごとを作り出し、これからは自分の思い通りにやって行くと高らかに宣言したとしましょう。あなたはどう反応するでしょうか?恐らくこう言うのではないでしょうか:“その決まりごとと一緒に地獄にでも行っちまえ”と。考えてみて下さい。私たちは神の創造物であり、かれの定めた法と共にこの宇宙に生きています。その法を自分勝手に書き換える者に対し、神が“地獄へ堕ちてしまえ”と言うであろうことは当然だと言えるのではないでしょうか。
ここで誠実さの問題が出て来ます。私たちは、全ての喜びは創造主からの祝福であり、それらが感謝に値することを認知すべきですが、私たちの多くは生涯に渡ってそれらの祝福を受けていても、全く感謝しません。あるいは感謝するのを遅延します。英国の詩人エリザベス・バレット・ブラウニングは、The Cry of the Humanにおいて、苦しむ人間の皮肉をこう描き出しています:
唇は“神よ、ご慈悲を”と言いつつも、
“神に称えあれ”とは一度も言わず。
私たちは品行を改め、創造主からの祝福に対して今この瞬間、感謝すべきであり、かつそれを生涯に渡って続けるべきではないでしょうか?かれに対してそれぐらいの義務は負っているはずではないでしょうか?
この問いにあなたは、“はい”と答えたはずです。合意なしでここまで読み進めた人はいないはずですが、問題は次です:あなた方の多くは、もうバイブルには心が向いていないことを完全に自覚して“はい”と答えました。または少しはバイブルに傾いていますが、完全にそうではありません。あなたは私たちが創造主によって創られたことに同意しています。またあなたはかれへの理解にもがいています。そしてあなたはかれが述べられた方法で崇拝することを切望しています。しかし、あなたにはその方法、そしてどこにその答えがあるのかが分かりません。生憎、それはこの記事で答えられる問題ではありません。その問題は本を一冊必要とするのです。
幸いにも私はこれに関する本を書きました。その題名は、The First and Final Commandment(もうじきMisGod’edという題名で再版されます)です。ここで読んだ内容が気になった人には、私が書いた本をお勧めします。
Copyright © 2009 Laurence B. Brown.
著者のローレンスB. ブラウン博士について:
彼とは、BrownL38@yahoo.comから連絡をとることが出来ます。彼はThe First and Final Commandment (Amana Publications)と、Bearing True Witness (Dar-us-Salam)を著しています。近刊書として、歴史物のThe English Scrollと、第2版のThe First and Final CommandmentがMisGod’ed、続編のGod’edとして書き直され、分割されています。
コメントを付ける