中国におけるイスラーム(前半)

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説明: いつ、そしていかにしてイスラームが中国に伝わったかについて。

  • より ムハンマド・ハモーシ
  • 掲載日時 18 Jul 2011
  • 編集日時 31 Aug 2014
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Islam_in_China_(part_1_of_2)_001.jpg広州の大モスクは、「賢人を記憶せよ」を意味する懐聖寺(預言者を記念するモスク)としても知られ、「灯台モスク」を意味する光塔寺とも呼ばれています。懐聖寺は人民高架路の東側を通る光塔通りに位置します。

アラブの船乗りたちは西暦500年頃、つまりイスラームの勃興前には中華王国(中国)との通商関係をすでに確立していました。勇敢なアラブ船はアラビア湾の尖端バスラや、ペルシャ湾のカイス(シラーフ)からも出航しました。彼らはインド洋を航海しサランディプ(スリランカ)を通過し、スマトラ・マレー半島間を走るマラッカ海峡を渡り、南シナ海にまで到達しました。彼らは南東に位置する泉州・広州港に取引所を設けました。一部のアラブ人たちは、既に中国に定住しており、彼らは最初のムスリム使節団が来た際に改宗した人々であると思われますが、アラビア半島にいる彼らの家族や友人らは、預言者が啓示を受けていた時代(610−632)に既にイスラームに改宗していました。

広州は後にムスリム居住区域を設け、やがてそこを商業区域としたアラブ人らによりハンフー(廣府)と呼ばれました。広州の卓越した地理的ポジションは、中国最古の国際商業港としての重要な役割を果たしました。歴史的事件を幾度となく目撃した中国は、歴史における重要な位置を占めるようになり、また世界でも最も早く成長し、未曾有の繁栄を成し遂げた地域のひとつになりました。

イスラーム国家は預言者ムハンマド(神の慈悲と祝福あれ)によって設立されましたが、当時の中国は統一と防衛の時代にありました。中国の初期年代記では、アラブ人ムスリムについて言及されており、彼らの王国を(アラビア半島の)アル=マディーナと呼んでいました。イスラームは中国語で「清真な宗教」を意味する「イスラン・ジャオ(伊斯蘭教)」と呼ばれています。中国のある官吏はかつて、マッカをブッダ・マ・ヒア・ウ(預言者ムハンマド)の生誕地として説明しています。

中国におけるイスラームの到来には、複数の歴史的見解が存在します。一部の記録では、ムスリムたちはアビシニア(エチオピア)から数カ月かけて二つの集団で中国に来たとされています。

エチオピアは、マッカのクライシュ族による迫害を恐れた初期のムスリムたちが避難をした地でした。避難をした人々の中には、預言者ムハンマドの娘であるルカイヤ、彼女の夫ウスマーン・ブン・アッファーン、またサアド・ブン・アビー・ワッカースを始め、預言者の助言に従って移住した、他の多くの著名な教友たちがいました。彼らはアビシニアの王、アクショムのアツマハ・ネグス(615年)による政治的亡命を許可されたのです。

一部の教友たちはアラビア半島に戻りませんでした。彼らは他の地で生活の糧を稼ぐことを決めて旅をし、宋王朝時代(581−618年)の中国に陸路、または海路で到達した可能性があります。一部の記録では、サアド・ブン・アビー・ワッカースと三人の教友たちが、アビシニア王の支援を受け、616年にアビシニアから中国へ航海したと伝えています。その後サアドはアラビア半島へ戻り、21年後に再び聖クルアーンの写本を広州にもたらし、それはリウ・チーによる著の「預言者の生涯(全12巻)」の記録と時期が重なるのです。

中国に住んだ教友の一人は西暦635年に亡くなったとされており、ハミの都市部の西側に埋葬されています。彼の墓廟は「ゲイス・マザール」として知られ、周辺地域の人々によって崇敬されています。それは中国北西部の新疆(シンチャン)自治区にあり、ウルムチから400マイル程の場所に位置しています。新疆は日本のほぼ四倍の面積を持ち、国境を八カ国と共有し、チュルク語を母語とするウイグル人の最大集団の故郷となっています。それゆえ新疆は、中国最大のイスラーム地域であるだけでなく、地理上の戦略的な重要性も持つのです。

クルアーンでは、ムハンマドが遣わされたのは全人類に対する神の慈悲であると明確に述べています(21:107)。他の節でもこのように述べられています:

「われらは、全人類への吉報の伝達者、また警告者として、あなたを遣わした…」(34:28)

イスラームはその普遍性から、あらゆる人種と国家による受容を促進しました。中国における中国人ムスリムの人口は、サウジアラビアを含む多くのアラブ諸国のそれを上回っていることも、十分に実証されています。

懐聖寺の歴史は、「中国の歴史における黄金期」と言われる七世紀中盤の唐王朝(618−907)にまで遡る、何世紀ものイスラーム文化を象徴しています。預言者逝去から18年後のこの時代に、三大一神教の最後のものであるイスラームが、第三代目カリフであるウスマーン・ブン・アッファーン(西暦644−656/ヒジュラ暦23−35)によって初めて伝達されたのです。

ウスマーンはイスラームを受け入れ、聖クルアーンを暗記した最初期の一人でした。彼は温厚な性格で、ルカイヤ、そして彼女の死後はウンム・クルスーム(二人とも預言者の娘)を娶りました。そのことから、彼には「ズン=ヌーライン(二つの光を持つ者」という称号が与えられました。ウスマーンは教友たちの記憶をもとにしたクルアーン写本の編纂を命じ、その結果としてクルアーンをその真贋性の議論から保護したこと、またイスラーム帝国の隅々に写本を送付したことから高く称賛されています。

ウスマーンは、預言者の母方の叔父であり、最も著名な教友の一人で、17歳で改宗したサアド・ブン・アビー・ワッカース(西暦674/ヒジュラ暦55年去)を代表とする使節団を中国に送りました。彼はすべての戦役経験者であり、預言者は彼が天国の保証された10人の内の一人であると言ったことが報告されています。

マディーナにおいて、サアドは建築の技術を生かしイワン(ペルシャ帝国のアーチ状の回廊)を崇拝の場として導入しました。後に彼は中国で最初のモスクとなる場の基礎を築きました。そこから初期イスラーム建築と中華建築との関係は始まったのです。

唐王朝の歴史的資料によると、サアド・ブン・アビー・ワッカース率いるアル=マディーナ王国の使節団は、西暦650年にインド洋と南シナ海経由で中国まで航海して広州港に到達し、その後シルクロードとして知られるようになる陸路を経由して長安(現在の西安)まで旅をしたとされています。

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中国におけるイスラーム(後半)

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説明: 中国に到達したあとのイスラームの広まりと、その当時に建築された様々なモスクの概観。

  • より ムハンマド・ハモーシ
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  • 編集日時 18 Jul 2011
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贈呈品を携えたサアドと彼の使節団は、同年のササン朝ペルシャの王、シャー・ペロズによるアラブ人を支援しないという皇帝への要請にも関わらず、唐王朝高宗皇帝(650−683)の宮廷は彼らを温かく歓待しました。ペロズはヤズデギルドの息子であり、ビザンチン帝国と同様に数十年前から在中国大使を駐在させていました。双方は、西側世界における二大勢力でした。また、太宗皇帝(627−649)に向けられた、ムスリム勢力の拡大にとって不利になるような要請も同様に却下されています。

最初のイスラームの報告としては、既に太宗皇帝の支配期に、ペルシャのササン朝皇帝、そしてビザンチン帝国の大使によってイスラーム勢力の勃興の知らせが唐宮廷に伝達されていました。双方共に、中国勢力に保護を求めていました。それにも関わらず、高宗支配の二年目には、ムスリム大使による初の公式訪問が行われたのです。

皇帝はイスラームについて質問した後、この新しい宗教が孔子の教えに矛盾しないと見なすと、一般的な承認をしました。しかし彼自身は一日五回の礼拝、一ヶ月間の断食という教義をとても厳しいと感じ、改宗には至りませんでした。彼は、サアド・ブン・アビー・ワッカースとその使節団が自由に彼らの信仰を宣教することを許可し、イスラームに対する敬意を示しました。このようにして、中国におけるイスラームの確かな基盤が築かれたのです。

サアドはその後、広州に居を構え懐聖寺を築きました。これは中国のイスラームにとって、重要な出来事でした。このモスクは中国全土における最古のものであり、1,300年の歴史を持ち、歴史の中で幾度にも渡る事件を耐え抜きました。この広州のモスクは、現在も修復と復元を繰り返し建ち続けているのです。

Islam_in_China_(part_2_of_2)_001.jpg同時代の陝西省にある長安(現在の西安)の大清真寺(大モスク)は西暦742年に建築されました。それは中国最大の初期モスク(12,000?)であり、数世紀に渡る拡張を経て現在もその美しさを保っています。現在の構えはグラナダ王国崩落から一世紀前の西暦1392年に、(建前上の)設立者であるハッジ・鄭和のもと、明王朝によって建築されました。皇帝の供給を元にした彼の惜しみない協力から、モスクには彼を記念する石版が設置されています。

大モスクとその周囲の壁、及び壮大かつ優雅な別棟と中庭の模型は香港博物館において見ることができ、懐聖寺の模型の隣に優美に配置されています。私は昨年、幸いにもアスルの時間に本物の懐聖寺に訪れることができ、そこのイマームから古い手書きのクルアーンを見せてもらうことが出来ました。

礼拝堂に続く道を歩くのは、あたかも不浄が禁じられた都市に封じ込められた、オリエントのオアシスを夢中遊行するかのようでした。礼拝堂と反対側の門には龍の表象が刻み込まれており、イスラームと中国文明の対面を象徴していました。それはつまり、オリエンタル・中国建築と、バグダッドのハールーン・アッ=ラシード(西暦764−809/ヒジュラ暦147−194)特有の華麗なる嗜好とのまばゆいばかりの巡り合いだったのです。新都市バグダットは、ハールーンの時代の50年後には、コンスタンチノープルと中国を凌ぐほどの繁栄を極めることになるのです。

Islam_in_China_(part_2_of_2)_002.jpg聖友寺(聖なる友のモスク)、または清浄寺(清浄モスク)、アッ=サハーバ・モスク(教友たちのモスク)として知られるものは、北方宋王朝(960−1127)時代の西暦1009年に、純粋な花崗岩をふんだんに用いて建築されました。建築様式はシリアのダマスカス大モスク(709−715)を模範とされたため、これら二つのモスクは21世紀においても(元来の形を留めて)存在する、最古のモスクとなったのです。

聖友寺は福建省の「マディーナ・アッ=ザイトゥーン(泉州)」、邦訳すると「オリーブの町」に位置し、サアド・ブン・アビー・ワッカースの使節団に追随した預言者の教友の二人が埋葬されている地でもあります。彼らは地元民によって「サークーズー」そして「ウークースー」という中国名で知られています。

そして浙江省は杭州にある真教寺(真の宗教のモスク)、または鳳凰寺(不死鳥のモスク)として知られるものは、唐王朝に遡るものであるとされています。玄関は複数の階層を持ち、ミナレット、そして月の観測場としての役割を果たします。このモスクは長い歴史を持ち、過去数世紀に渡って修復と復元を繰り返しています。1929年の道路拡張と1953年の部分的修復から、今では過去よりも小規模となっています。

他の古いモスクは江蘇省の揚州市に位置します。そこは宋王朝(960−1280)においては最も忙しい商取引の街として栄えていました。仙鶴寺(不死鶴のモスク)は街の最古・最大のもので、ムスリム宣教者であり預言者ムハンマドから16代目の子孫にあたるプハディン(普哈丁)により西暦1275年に建てられました。

中国人ムスリムの歴史家らは、サアド・ブン・アビー・ワッカースは広州で亡くなり、そこで埋葬されたと見なしていますが、アラブ人学者らは異なる見解を持ち、サアドはマディーナで亡くなり、他の教友たちと共に埋葬されたと見なします。実際に墓廟は存在していますが、それが中国かマディーナかは、神のみぞ知るです。ここから見て取れるように、中国におけるイスラームの伝播は平和的なものでした。最初の使節団は中国南東部の(真珠河)に到着し、その後北西部に続く陸路が使われました。今日の中国ムスリムコミュニティは、チベットの僻地を含む地理的な広範囲に分布しています。

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