西アフリカにおけるイスラームの広がり(3/3):カネム・ボルヌ帝国、ハウサ・フラニ帝国
説明: サハラ以南の西アフリカ地域において、いかにイスラームが広まり、偉大な文明が築かれ、現地民を多神教から唯一神への崇拝へと導いたかについて。第三部:カネム・ボルヌとハウサ・フラニ帝国の歴史。
- より A・ラフマーン・I・ドイ教授
- 掲載日時 02 Jan 2012
- 編集日時 02 Jan 2012
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カネム・ボルヌ帝国におけるイスラーム
13世紀のカネム・ボルヌの領地は、南はチャド湖周辺地から、北はフェザーンにまで達しました。今日、カネムはチャド共和国の北部に位置しています。1085−1097年の間に支配した、カネムの為政者ウメ・ジルミーによって、カネム・ボルヌにイスラームをもたらしたムハンマド・マニという学者を介し、初めてイスラームは受容されました。ウメ・ジルミーは敬虔なムスリムになりました。彼は巡礼の旅に出ましたが、マッカに到着する前にエジプトで死去しました。また、アル=バクリーはアッバース朝によって粛清の危機に陥ったウマイヤ朝の避難民がバグダードから逃れて定住した土地がカネムであったと言及しています。[21,22]
カネムにおけるイスラームの広がりにより、中央スーダンではムスリムの影響力が増し、中東のアラブ世界、そしてマグリブとの関係が築かれました。ウメの息子、ドゥナマ一世(1092−1150)も巡礼を果たし、マッカへの三度目の旅ではスエズ運河に向かう途中のエジプトで王冠を授けられています。歴史家イブン・ハルドゥーン(1406没)が言及するように、ドゥナマ二世(1221−1259)の統治期である1257年頃には、チュニジアにカネム大使館が設置されました。それとほぼ時期を同じくして、マドラサ・イブン・ラシークという宿泊施設付属の大学がカイロに出来ました。13世紀末になると、カネムはイスラーム学の中心地となり、著名な教師たちが教職のためマリからカネムへとやってきました。13世紀中頃には、カネムは(アルジェリアのサハラ地帯)トゥアトとの外交関係、そしてチュニスのハフサ朝との大使レベルの関係を築きました。カネムの学者や詩人たちは、非常に高水準の古典アラビア語を書くことが出来たと言われています。1391−1392年におけるカネム法廷の書記長による手紙から、その証拠を見出すことが出来ます。
歴史家イブン・ハルドゥーンは、ドゥナマ二世を「カネムの王、ボルヌの主」と呼んでいます。なぜなら、彼の帝国は西はカノ、東はワダイにまで拡大したからです。ドゥナマ二世は人々によって神聖視されていたタリスマン(ムンニ、またはムニー)を切り開いたため、受難の時代をもたらしたと言われました。彼はイスラームへの情熱から、この「忌まわしき行為」を行ったのです。タリスマンは伝統的かつ神聖なシンボルであり、彼は国民の多くから反感を買ったのです。
14世紀末、1476−1503年の間を統治したアリー・ドゥナマ、(別名アリー・ガーズィー)によって、カネム帝国の新首都がボルヌのニガザラガムに設置されました。繁栄を収めたこの首都は、1811年まで存続しました。アリーはイスラームを復興させ、イスラーム諸学の学習に没頭しました。彼はイマーム・ウマル・マスランバを訪れ、イスラーム法も学習しました。また彼は自らの模範によって、貴族や首長たちの妻を四人までに制限するよう説得しました。
ボルヌのイスラーム化は、マイ・イドリース・アルーマ(1570−1602)の時代にさかのぼります。私たちは、年代記録者のアフマド・ブン・ファルトゥワを通して彼のことを知ります。9年間に渡る統治において、彼はマッカへ巡礼し、そこにボルヌからやってくる巡礼者たちのために簡易宿泊所を建てました。彼はイスラームの実践を復興させ、人々にそれらを遵守させました。また、彼はカーディー法廷を設立し、従来の慣習法に代わってイスラーム法を導入したのです。また彼は、既存の葦で出来たモスクを煉瓦のモスクとして建て替えました。
1810年、マイ・アフマドの時代にボルヌ帝国の栄光は終焉を迎えましたが、イスラーム学問の中心地としての重要性は存続したのです。
ハウサ・フラニにおけるイスラーム
ハウサ建国に関し、カネム・ボルヌに移住したベグ出身のバヤジダ(バヤズィード)にまつわるハウサの伝説があります。当時のボルヌにおけるマイの為政者はバヤジダを歓迎し、自分の娘を娶らせましたが、彼の追従者の複数からは略奪を受けたため、彼は妻と共にマイを離れ、ガヤ・マイ・カノに辿り着き、カノの金匠に剣を造らせました。伝説では、井戸からの水の汲み上げを阻んでいた大蛇をバヤジダは殺し、カノの人々を助けたことになっています。そして、ダウラと呼ばれた女王が感謝の気持ちとして彼と結婚したとされます。バヤジダはこの結婚からバオと名付けられた子供を授かり、その後バオにはビラン、ドクラ、カツィナ、ザリア、カノ、ラノ、ジェビルと名づけられた7人の子供ができ、彼らはハウサ国の創設者になったとされます。この伝説の信憑性はどうあれ、ナイジェリア北部のハウサ語とその文化がいかに始まったかという説明が試みられています。
イスラームは14世紀にハウサの土地に広まりました。およそ40人のワンガラワ農民たちが、アリー・ヤジによる1349−1385年のカノ統治時代にもたらしたとされています。モスクが建設され、アザーン(礼拝開始の呼びかけ)を行うムアッズィン(呼びかけ人)、そして宗教裁定を下す裁判官が任命されました。ヤァクーブという為政者の統治期(1452−1463)には、あるフラニ人がカノへと移住し、イスラーム法の書物を紹介しました。ムハンマド・ルムファの統治期(1453−1499)になると、イスラームはカノにおいてしっかりと根ざしていました。彼の統治期にムスリム学者たちはカノを訪れましたが、一部はイスラームを伝道するためトンブクトゥからも訪問したのです。
ムハンマド・ルムファは、政策についてムスリム学者たちの指導を仰ぎました。彼こそが、著名なムスリム神学者アル=マギッリーが15世紀にカノを訪れた際に、イスラーム政治についての本を書くよう求めた人物でした。その本は名高い名著であり、「君主の義務」と銘打たれています。アル=マギッリーは後にカツィナへと出向き、そこは15世紀における学問の地となりました。神学書が語源学書などを携えたトンブクトゥのサンコレ大学の学者たちも同様にそこを訪れていました。13世紀には、ムハンマド・ダン・マリナや、ムハンマド・ダン・マスィナ(1667没)などといった、今日も著作の残されている現地出身の学者たちをカツィナは輩出しています。
シェイフ・ウスマーン・ダン・フォディオ、また彼の兄弟アブドッラー、そしてその息子ムハンマド・ベロによる文学作品は、18世紀末におけるハウサ・フラニの混合主義的実践について記述されています。ウスマーン・ダン・フォディオによる1904年の運動は、シェイフによってビドア・アッ=シャイターニーヤ(悪魔の宗教革新)と呼ばれた混合主義を排除するためのイスラーム復興主義として紹介されました。
アフリカにおけるイスラームの広まりは、その一部がここで述べられたように、歴史的、地理的、心理的な部分、またムスリム共同体の分布などの多くの要素がからんでいました。アフリカにおける最初の出現以来、イスラームは拡大し続けて、その当初から現地の学者たちは皆アフリカ人でした。イスラームはアフリカに根ざした宗教となり、そこにおいて多種多様な影響を与えてきたのです。
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