イスラームにおける悲しみの対処(5/5)
説明: では、いかに悲しみに対処すべきでしょうか。
- より J.ハーシミー
- 掲載日時 02 Sep 2013
- 編集日時 02 Sep 2013
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この投稿において述べられてきた全てのことは、非常に重要なことですが、結局は次の質問に集約されます。私たちは、災難が降りかかってきたとき、いかにそれがもたらす悲しみに対処すべきなのでしょうか?あらゆる人々は人生において悲しみと直面しなければならず、一部の人々は他の人々よりも多くそれを経験します。人々は異なった方法で悲しみに対処しますが、信仰者としてどのような対処をすべきなのでしょうか。
信仰者がまず第一に認識しなければならないこととは、災難は神がもたらすものであるということです。クルアーンはこう述べます。
“(幸運・災難の)一切はアッラーの御許からである。”(クルアーン4:78)
それらが神によるものであると理解すれば、私たちは神が慈愛深き御方(アル=ワドゥード)、最も親切な御方(アル=バッル)であると気付くことが出来ます。神が私たちに定めることには、それに直ちに気付くことが出来るかどうかに関わらず、一定の善きことが含まれているのです。全能なる神はこう述べます。
“自分たちのために善いことを、あなたがたは嫌うかもしれない。また自分のために悪いことを、好むかもしれない。あなたがたは知らないが、アッラーは知っておられる。”(クルアーン2:216)
偉大なイスラーム学者、ハサン・アル=バスリーはこう述べています。
“降りかかる災難とそれによってもたらされる不幸に憤慨してはならない。あなたが嫌うことには救済があるかも知れず、あなたが好むことには破滅があるかもしれないのだから。”
例えば、ある男性が解雇されたとすれば、そうされなければ可能ではなかった、より良い仕事を見つける手段になるかもしれないのです。災難による確かなる恩恵の一つは、神の御意による罪の赦しです。ムスアブ・ブン・サアド・ブン・マーリクは、父親がこのように言ったと伝えています。
“「神の使徒よ、この世で最も試練を受ける人々とは誰でしょうか?」彼は答えました。「預言者たちである。次に彼らに似た(敬虔で神を畏れる)者たちである。人はその敬虔さと信仰の度合いによって試練を受けるのだ。強い信仰を持つ者は、厳しい試練を受ける。同様に、弱い信仰を持つ者は、その度合に応じた試練を受けるのだ。人は、罪のなくなるまで試練を受け続けるのである。」”(イブン・ヒッバーン 2901番)
ファドル・ブン・サハルは述べています。
“災難には罪の贖い、忍耐への報奨を得る機会の他、怠慢を追い払い、健康という祝福を思い起こさせ、悔悟・喜捨を促すため、賢明な者が無視すべきでない祝福があるのだ。”
信仰者は、災難が降りかかった時には神へと立ち返るべきです。そうすることにより、災難は信仰者に、神のみを崇拝するという人生の唯一の目的を思い出させるのです。これこそは、私たちの存在する意味であり、人生の目的なのです。神はクルアーンにおいてこう述べます。
“ジンと人間を創ったのはわれに仕えさせるため。”(クルアーン51:56)
人は順境において、たびたび主への崇拝を忘れます。そして災難がやって来ると、ようやく神への嘆願を始めるのです。このように、災難は私たちが創造された目的を思い出させる役割を果たします。シャイフ・アル=イスラーム(代表的イスラーム学者の称号)、イブン・タイミーヤはこう述べています。
“人を神へと立ち返らせる災難は、神への想念を忘れさせる祝福よりも良いのである。”
イマーム・アッ=スフヤーンは述べています。
“人が嫌うものは、人を神へと嘆願させ、人が好むものは人を(崇拝行為に)無頓着にさせるため、人が嫌うものは人が好むものよりも良い場合があるのだ。”
それゆえ、災難が降りかかれば、私たちは「神に称賛あれ(アル=ハムドゥ・リッラー)」といって感謝の気持ちを表すべきなのです。預言者ムハンマド(神の慈悲と祝福あれ)はこう述べています。
“信仰者の諸事は何と良いことだろう。その諸事がすべて良いのは、信仰者だけに限られる。何か良いことが起きたなら、彼はそれに感謝し、そのことは彼にとって良いことなのだ。何か悪いことが起きたなら、彼はそれに忍耐をもって対処し、そのことは彼にとって良いことなのだ。”(サヒーフ・ムスリム)
シャイフ・アル=イスラーム、イブン・タイミーヤが不当にも投獄された際、彼はそのことを敵から与えられた祝福であるとみなしました。シャイフ・アル=イスラームはその期間を神への崇拝の時間に費やしました。彼はこう述べています。
“敵は私に対して何が出来るだろうか。… 投獄は宗教的な隠遁(神への崇拝の機会)で、私の殺害は殉教であり、私の故郷からの追放は旅なのである。”
預言者ムハンマドは述べています。
“災難が降りかかったとき、「実に、私たちは神に属すのであり、かれにこそ帰還します。神よ、私の苦痛に報い、より良い何かで補ってください。」と神に言うよう命じられたことを言いながらも、より良い何かでもって償われないムスリムはいないのだ。”(サヒーフ・ムスリム)
私たちは、神が愛でられる者たちに試練を課すことを思い出すべきです。預言者はこう述べています。
“最も大きな報奨は、最も大きな試練によってもたらされる。神が人を愛でられるとき、かれは彼らを試すのだ。誰であれそれを受け入れる者は、かれのご満悦を勝ち取るのである。”(アッ=ティルミズィー)
さらに、預言者はこう述べます。
“楽園への道には、数々の苦難が伴うのだ。”
災難や悲しみによって、現世の様々な罪は贖われ、来世においてそれらの罪に対する懲罰を受けずに済みます。預言者ムハンマドはこう述べています。
“信仰する男女には、彼ら自身、彼らの子供、彼らの富に対して試練が課され続けるであろう。彼らが罪の無い状態で神と会うその時まで。”(アッ=ティルミズィー)
神が私たちに災難をもたらすのは、私たちを破壊するためでも、私たちの意思を挫くためでも、私たちに止めを刺すためでもなく、それは私たちの忍耐と信仰を確認するための手段なのです。試練や苦難がなければ、人は傲慢、無思慮、頑なな心を持つようになり、それらは地獄の底へと導くでしょう。それゆえ、そうした心の病を癒すための治癒として、また破滅をもたらすであろう人格の悪い要素を取り除くため、神の慈悲によって試練が課されるのです。
人生において災難が降りかかったときは、神が私たちへの贖いとしてくれることを期待すべきですが、それに対する忍耐を示さなければなりません。究極の贖いとは、現世におけるものではなく、来世のものであり、それについて満足すべきです。アブー・スフヤーンはムスリム防衛の戦いにおいて目を失い、彼の視力が戻るように祈ってくれるよう預言者に頼みました。預言者が彼に、現世と来世のどちらで視力をあたえられるのが良いかと尋ねると、アブー・スフヤーンは来世への贖いが良いと答えました。事実、アブー・スフヤーンはもう片方の視力も失ったのです。
神は述べます。
“われは欲する者に慈悲を施す。また善行をなす者への報奨を虚しくしない。信仰して、絶えず主を畏れる者には、来世における報奨こそ最も優れたものである。”(クルアーン12:56−57)
信仰者は決して、神の慈悲に絶望してはなりません。神が信仰者に救いをもたらさないと考えてはならないのです。事実、アラビア語のサタン(イブリース)は、「絶望」を意味するアブラサという語根から成り立つ言葉です。サタンに(預言者アダムの創造によって彼が「格下」になるという)災難が降りかかったとき、彼はそれが神のもたらした良いことであるとは考えず、神の慈悲に絶望し、快楽主義に陥りました。同様に、一部の人々は災難が降りかかると、飲酒やその他の罪深い行いに走り、苦痛を和らげようとします。しかし、信仰者は絶望する代わりに、神へと立ち返るべきなのです。神はかれの創造に対し、こう保証します。
“朝(の輝き)において、静寂な夜において(誓う)。主は、あなたを見捨てられず、憎まれた訳でもない。本当に来世(将来)は、あなたにとって現世(現在)より、もっと良いのである。やがて主はあなたの満足するものを御授けになる。”(クルアーン93:1−5)
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