イスラームにおける悲しみの対処(3/5)
説明: 信仰者は逆境において試みられること。
- より J.ハーシミー
- 掲載日時 19 Aug 2013
- 編集日時 19 Aug 2013
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神が人々に試練と苦難をもたらすもう一つの理由は、人々を試みるためです。クルアーンはこのように述べます。
“人びとは、「わたしたちは信じます。」と言いさえすれば、試みられることはなく、放って置かれると考えるのか。”(クルアーン29:2)
この概念は、結婚の類推によって明確に理解することが出来ます。一人の男性は、順境においては妻を愛し、忠実であり続けるかも知れませんが、ひとたび逆境となると妻から離れ去るかも知れません。例えば、その女性が若く美しければ彼は彼女を熱愛しますが、彼女が病気になって外面的に美しくなくなれば、彼は彼女から立ち去るでしょう。このことは、彼が彼女を真には愛していなかったことを示します。同様に、人は順境だけでなく逆境においても神を愛し、かれに従順でなければならないのです。偽善者たちは天気が良ければ神の道へと招きますが、嵐がやって来ればすぐさま神への信仰を捨て去ります。
預言者ムハンマド(神の慈悲と祝福あれ)の時代には、そうすることが彼らにとって有益だったため、多くの偽善者たちがイスラームに改宗しました。それにより、彼らはイスラーム政権において有力な地位を確保することが出来たのです。しかし状況が暗転すると、彼らは信仰表明をしていたにも関わらず、たちまち不信仰をあらわにしました。強力な敵がイスラーム国家の存続を脅かすと、偽善者たちは信仰を棄てたのです。イスラームの敵は、初期のムスリムたちを迫害・虐待して村八分にし、一部を殺害さえしました。これは真の信仰者と偽者とを区別しました。真の信仰者たちは、深刻な逆境の中でも神を信頼したのです。このように、神は真の信仰者と偽善者とを判別するために人々を試みます。神はこう述べます。
“人びとは、「わたしたちは信じます。」と言いさえすれば、試みられることはなく、放って置かれると考えるのか。本当にわれは、かれら以前の者も試みている。アッラーは、誠実な者を必ず知り、また虚言の徒をも必ず知っておられる。”(クルアーン29:2−3)
この概念は、クルアーンの複数の節々において繰り返されています。
“アッラーは、信者たちの善い者の中から悪い者を区別されるまでは、決してかれらを今の状態で放置されないであろう。”(クルアーン3:179)
神の使徒は、ムスリムになれば成功がもたらされることを、その追従者たちに約束しました。強力な敵がムスリム軍を圧倒したとき、偽善者たちは使徒の約束に疑問を呈しはじめました。それだけでなく、彼らは神の全能性をも疑ったのです。クルアーンはこう述べます。
“見るがいい。かれら(敵軍)は、あなたがたの上からまた下から襲って来た。その時目は霞み、心臓は喉もとまで届いて、あなたがたはアッラーに就いて、色々と(悪い)想像をした。こうして信者たちは試みられ、かれらは猛烈な動揺に揺さぶられた。その時、偽信者や心に病の宿っている者たちは、「アッラーとその使徒は、只欺いてわたしたちに約束したのです。」と言った。”(クルアーン33:10−12)
この事件は、偽善者たちにその不信仰をあらわにさせましたが、真の信仰者たちの信仰心をより確固なものとしました。クルアーンはこう述べます。
“信者たちは、部族連合の軍勢を見た時…かれらの信心と服従、帰依の念を、嫌が上にも深めた。”(クルアーン33:22)
このように、神は試練にかけることにより、人々の真偽を区別させるのです。何事であれ、試験にかけて確認しないことにはその価値は判別しません。自動車製造業者は、自動車の速度・衝突試験をすることによって安全性や耐久性を確認します。同様に、神はその被造物を試み、彼らがいかなる信仰を持つか、また彼らが衝突した際はいかなる反応をみせるかを確認するのです。神はこう述べます。
“われはあなたがたの中、努力し、耐え忍ぶ者たちを区別するためにあなたがたを試みる。またあなたがたの言行をも確める。”(クルアーン47:31)
逆境や苦難は、現実には神の慈悲なのです。なぜなら、それは神に対して忍耐強く、忠実であることによって信仰者たちに善行を稼ぐ機会を与えるからです。神が彼らに課した試験に合格することで、それらの信仰者たちは楽園への道を開かれます。神はこう述べます。
“それともあなたがたは、先に過ぎ去った者たちが出会ったような(試みが)まだ訪れない先に(至上の幸福の)園に入ろうと考えるのか。”(クルアーン2:214)
人は様々な試練や苦難によって試されます。貧困、飢餓、恐怖などは、すべて神による試験の一形態です。愛する人の死もその一つです。感謝しないしもべが愛する人を亡くすと、神に挑戦的な態度をとり、どうしてそのようなことをしたのかと辛辣になります。しかし、感謝するしもべは忍耐強くい続け、完全に神を信頼するのです。このようにして、神は人々の真贋を区別します。神は述べます。
“われは、恐れや飢え、と共に財産や生命、(あなたがたの労苦の)果実の損失で、必ずあなたがたを試みる。だが耐え忍ぶ者には吉報を伝えなさい。災難に遭うと、「本当にわたしたちは、アッラーのもの。かれの御許にわたしたちは帰ります。」と言う者、このような者の上にこそ主からの祝福と御恵みは下り、またかれらは、正しく導かれる。”(クルアーン2:155−157)
神は必ずしも苦難によって試みるとは限りません。神による試練は、祝福、富、健康、子女、家族などの形態を取ることもあります。それらの祝福に対して人々が取る行動は、実に大いなる試練なのです。著名人や裕福な人々は財産や名声、物質的な豊かさを与えられてはいますが、彼らは神に対する感謝の心を見せず、罪深くよこしまな生活をしています。神はこう述べます。
“あなたがたの財産と子女とは一つの試みであり、またアッラーはあなたがたへの最高の報奨を持つ方であることを知れ。”(クルアーン8:28)
それゆえ、神は苦難と祝福の双方によって私たちを試みることが分かります。しかし、試練の種類がどうであれ、神に感謝し続ける者たちこそが信仰者なのです。クルアーンは述べます。
“あなたがたは、財産や生活などに就いて必ず試みにあう。そしてあなたがた以前に啓典を下された者からも、多神教徒からも、多くの悪口を聞かされるであろう。だがあなたがたが耐え忍んで主を畏れるならば、本当にそれは、物事を決断し成し遂げることになる。”(クルアーン3:186)
結論として、信仰者に降りかかる苦難の中には、たとえ最初はそう見えなくとも、多くの善があることを知るべきなのです。苦しみを通して罪は贖われ、魂は浄化されます。試練を通して神への忠誠心が試みられ、それにおいて確固たる者たちだけが成功するのです。これらの者たちに、現世と来世のいずれか、または双方において神は報奨します。神はこう述べます。
“だがよく耐え忍ぶ者たちの外には、それは成し遂げられないであろう。格別幸運な者たちの外には、それを成し遂げられないのである。”(クルアーン41:35)
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