イスラームに関する誤解のトップ10(前半):情報へのアクセスはイスラームへの誤解を止めるものではないということ
- より アーイシャ・ステイシー
- 掲載日時 18 May 2015
- 編集日時 18 Mar 2018
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ムスリムがアラビア半島を制し、イスラーム帝国を築いて以来、イスラーム的な生き方に対する誤解や俗説が広められ続けてきました。1400年以上も前、唯一なる神への崇拝が世界を変えましたが、現在では世界中の人々にとってかつてない量の情報へのアクセスが可能になったにも関わらず、イスラームについての俗説は消えません。この論考では、現在における誤解と不寛容の原因となっている10の一般的な俗説について検証していきます。
1.イスラームはテロを推奨している。
21世紀も最初の10年を終えましたが、これは現時点でおそらくイスラームについての最も大きな誤解でしょう。無実の人々が殺され続けるこの狂気じみた時代において、イスラーム宗教は非常に具体的な戦争規定を有しており、生命の不可侵性について多大なる強調をします。
“人を殺した者、地上で悪を働いたという理由もなく人を殺す者は、全人類を殺したのと同じである。人の生命を救う者は、全人類の生命を救ったのと同じである。”(クルアーン5:32)
無実の人々の殺害は完全に禁じられています。預言者ムハンマドが教友たちを戦場に送り込んだ際、彼はこう述べています。「神の御名によって出陣し、老人男性、幼児、女子供を殺めてはならない。神は善行に務める者を愛されるのであるから、善きことを広め、善行するのだ。」1「修道院にいる修道僧を殺めてはならない。」「崇拝の場で崇拝行為に勤しむ者を殺めてはならない。」2ある戦のあと、預言者は地面に女性の遺体を見つけてこう言いました。「彼女は戦闘に参加してはいなかったのだ。なぜ彼女が殺されなければならなかったのだ?」
それらの規定は、イスラーム帝国の初代カリフであるアブー・バクルによってさらなる強調がなされました。彼はこう述べています。「私は次の10の事柄を命じる。女性、子供、老人、虚弱者を殺めないこと。果実を実らせる木を切り倒さないこと。居住区を破壊しないこと。食べる目的以外で羊やラクダを屠殺しないこと。蜂を燃やしたり追い散らしたりしないこと。戦利品から窃盗しないこと、そして臆病者であってはならない。」これらに加え、ムスリムは正当化することのできない侵略行為をすることが禁じられます。敵兵以外を殺害することは、絶対に許されていません。
“あなたがたに戦いを挑む者があれば、アッラーの道のために戦え。だが侵略的であってはならない。本当にアッラーは、侵略者を愛さない。”(クルアーン2:190)
2.イスラームは女性を抑圧している。
イスラームは女性に対し、その人生のあらゆる局面において最も大きな敬意を示します。女性は娘として、父親への天国の扉を開く存在であり4、妻として夫の宗教の半分を満たします5。女性は母親として、天国をその足元に控えています6。イスラームは女性を名誉と公正さによって処遇することを命じるため、ムスリム男性は女性たちに対し、あらゆる状況において尊敬の念を示すことが求められます。
イスラームにおいては、男性同様、女性も神を信じ、神を崇拝することが命じられています。女性も来世での報奨の面においては男性と平等なのです。
“誰でも、正しい行いに励む者は、男でも女でも信仰に堅固な者。これらは楽園に入り、少しも不当に扱われない。”(クルアーン4:124)
イスラームは女性に財産の保有、そして経済活動の権利を与えます。また女性に正式な相続権と就学の権利も与えます。ムスリム女性には婚姻の申し出を承諾あるいは拒否する権利があり、家族を養い、家庭を維持するという義務からは完全に自由なのです。それゆえ、職に就いている既婚女性は、家計費に寄与するかどうかは彼女自身の意思に委ねられます。イスラームはまた、それがどうしても必要な場合は女性が離婚を求める権利も与えます。
残念ながら、一部のムスリム女性が抑圧されているということは事実です。不幸にも、彼女らの多くは自分たちの権利についての知識を持っておらず、イスラームとは全く関係のない野蛮な風習の犠牲となることもあります。権力のある個人、団体、または政府は自らをムスリムであると主張しながらも、イスラームの基本を実践するに至っては目も当てられない状況の場合があります。もしも女性たちに、イスラームが明記するような神によって与えられている権利が正当に与えられたのであれば、女性に対する世界的な抑圧はあっという間に消えてしまうでしょう。預言者ムハンマドはこう述べています。「崇高な男性だけが女性に栄誉ある処遇をするのであり、下劣な者が女性に不名誉な処遇をするのである。」7
3.ムスリムは皆アラブ人である
イスラームはあらゆる時代、あらゆる場所、そしてあらゆる人々に対して啓示された宗教です。クルアーンはアラビア語で啓示され、預言者ムハンマドもアラブ人だったものの、すべてのムスリムがアラブ人であると思い込むのは間違っており、またすべてのアラブ人がムスリムであるということも同様です。事実、世界の約16億人のムスリム8の大半はアラブ人ではありません。
特に欧米社会の多くの人々はイスラームを中東と結び付けるものの、ピュー研究所によるとムスリムの3分の2(62%)はアジア太平洋地域に居住し、実際には中東と北アフリカ諸国のムスリムを合わせた数(3億1700万人)よりも、インドとパキスタンに住むムスリム(3億4400万人)の方が多いのです。
またピュー研究所によれば、「ムスリムは世界各地の49カ国において、人口の過半数を占めている。ムスリム人口が最も多い国家(2億9000万人)は、人口の87.2%がムスリムのインドネシアである。インドは世界で2番目にムスリム人口の多い国家(1億7千600万人)であるものの、ムスリム人口は全体の14.4%を占めているに過ぎない。」
イスラームは宗教であり、人種でも民族集団のことでもありません。それゆえスカンジナビアのようなツンドラ気候であれ、フィジー諸島のような温暖な気候であれ、ムスリムは世界中のあらゆる地域において存在しています。
“人びとよ、われは一人の男と一人の女からあなたがたを創り、種族と部族に分けた。これはあなたがたを、互いに知り合うようにさせるためである。”(クルアーン49:13)
イスラームに関する誤解のトップ10(後半):さらなる俗説
- より アーイシャ・ステイシー
- 掲載日時 18 May 2015
- 編集日時 18 May 2015
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4.イスラームは他宗教・信仰に寛容でない。
歴史的にみると、イスラームは常に信教の自由という原則に敬意を示し、それを遵守してきました。クルアーンや預言者ムハンマドの伝承集は、他宗教や不信仰者への寛容を説いています。ムスリムの支配地に住む非ムスリムは、信教の自由だけでなく、独自の裁判所を持つことも許されているのです。
5.イスラームは1400年前に始まったものである。
「イスラーム」の語根(サ・ラ・マ)は、平安や安全を意味するアラビア語「サラーム」と共通のものです。イスラームとは本質的には神の御心への服従であり、そうした人生によってもたらされる平穏や安心感を包含します。それゆえ歴史を通し、神の御心に従うことによって一神教を実践した者は、それが誰であれムスリムであると見なされます。人類はアダムの創造時からイスラームを実践してきました。神はあらゆる時代において人類を導き、その教えを説くために預言者や使徒たちをそれぞれの民に遣わしてきました。すべての預言者たちによる主要な教えとは、「唯一なる真実の神のみを信じ、崇拝せよ」というものでした。それらの預言者たちはアダムを始め、ノア、アブラハム、モーセ、ダビデ、ソロモン、洗礼者ヨハネ、イエス・キリスト(彼ら皆に平安あれ)などが含まれます。神は聖クルアーンの中でこう述べます。
“(ムハンマドよ、)あなた以前にも、われが遣わした使徒には、等しく、「われの外に神はない、だからわれに仕えよ。」と啓示した。”(クルアーン21:25)
しかし、それらの預言者たちの真の教えは失われたか、時代と共に改ざんされてきました。比較的新しいトーラーと福音書でさえ改変されてしまったことから、人を正しい道へと導くことへの信頼性を失ってしまいました。そのためイエス・キリストの600年後、神は預言者ムハンマドに最終啓示である聖クルアーンを下すことにより、過去の預言者たちの失われた教えを全人類のために復活させたのです。こうして、すべての人々が神によるこの最後の教えを信じ、従うことが絶対となったのです。全能なる神はクルアーンにおいてこう述べます。
“(ムハンマドよ、)われは、全人類への吉報の伝達者また警告者として、あなたを遣わした。だが人びとの多くは、それが分らない。”(クルアーン34:28)
“イスラーム以外の教えを追求する者は、決して受け入れられない。また来世においては、これらの者は失敗者の類である。”(クルアーン3:85)
6.ムスリムはイエス・キリストを信じない。
ムスリムはすべての預言者たちを敬愛します。そのうちの誰か一人でも否定するのであれば、それはイスラームの教義そのものを否定することになります。言い換えると、ムスリムはアラビア語でイーサーとして知られるイエスを信じ、敬愛し、尊敬します。違いがあるとすれば、ムスリムが彼の役割をクルアーン、そして預言者ムハンマドの伝承集に基づいた理解をするということです。ムスリムはイエスが神であるとは信じませんし、神の子であることや三位一体論も信じていません。
クルアーンでは3章に渡ってイエスの人生、彼の母マリアとその家族のことについて述べられており、それぞれはバイブルでは述べられていないイエスの人生の詳細を明らかにします。ムスリムはイエスが処女マリアから父なくして奇跡的な誕生をしたことを信じますが、彼を神の子であるとしたり、彼を崇拝すべきだとは決して主張しません。またムスリムは、最後の日になるとイエスが再び地上に降臨することも信じます。
7.クルアーンの著者はムハンマドである。
この主張は、最初に預言者ムハンマドの敵対者によってされるようになりました。彼らはイスラームによって脅威にさらされた自身の私利を守ろうと必死になり、クルアーンが神によるものであることに対して疑念を広めようとしました。
クルアーンは23年間に渡り、天使ガブリエルを介して預言者ムハンマドに啓示されました。神はクルアーンの中でそのことについて語ります。
“われの明白な印が、かれらに読誦されると、信仰しない者はかれらの許に来た真理(クルアーン)に就いて言う。「これは明らかに魔術です。」またかれらは、「かれ(ムハンマド)が、それ(クルアーン)を捏造したのです。」と言う。”(クルアーン46:7−8)
それに加え、預言者ムハンマドは文盲で読み書きができませんでした。神はそのことについてクルアーンでこう述べます。
“あなたはそれ(が下る)以前は、どんな啓典も読まなかった。またあなたの右手でそれを書き写しもしなかった。”(クルアーン29:48)
クルアーンには驚くべき事実が記載されていることから、預言者ムハンマドがその著者ではなかったということが証明されています。西暦7世紀に生きた人物が、近代になって発見された科学的事実を知り得ることはなかったのです。彼はいかにして雨雲や雹が形成されるのか、または宇宙の膨張について知ることができたでしょうか? また彼はいかにして、近代の発明品である超音波装置なくして、胎児の発達における異なる段階を説明することができたのでしょうか?
8.三日月はイスラームのシンボルである。
預言者ムハンマドによって率いられたムスリム共同体に、シンボルはありませんでした。キャラバンや軍隊は識別目的に旗を掲げていましたが、通常は黒か緑一色でした。ムスリムは、キリスト教を象徴する十字架や、ユダヤ教を象徴するダビデの星のようなイスラームのシンボルを持ちません。
三日月のシンボルは歴史的にはトルコ人に関連付けられるものであり、彼らの硬貨に刻印されていたものでした。三日月や星は、西暦1453年にトルコ人がコンスタンティノープル(イスタンブール)を征服した際、ムスリム世界に持ち込まれました。彼らは都市の中に既に存在していた旗やシンボルをオスマン帝国の象徴とすることを選びました。それ以来、三日月は多くのムスリム諸国によって導入され、不当にイスラーム信仰のシンボルとされるようになったのです。
9.ムスリムは月の神を崇拝する。
虚妄の中にある人々は、アッラーのことを古代の月の神の近代的解釈であると見なします。それは断じて事実に基づいてはいません。アッラーとは唯一なる真実の神が持つ御名の一つであり、キリスト教徒やユダヤ教徒を含む、すべてのアラビア語話者によってその名前で言及されます。アッラーは月の崇拝や月の神とは全く関係ないのです。
預言者アブラハム以前のアラブ人の宗教については殆ど情報がありませんが、アラブ人たちが偶像や天体、木々や石を崇拝していたことには確かです。それらの神々の内でも著名なのはマナート、アッ=ラート、アル=ウッザ−などですが、それらの神々が月の神や月そのものであるとされる根拠は存在しません。
10.ジハードとは聖戦のことである。
アラビア語で戦争を意味する単語はジハードではありません。「聖戦」という言葉の使用は、キリスト教徒たちによる十字軍の聖戦に元をたどるものです。「ジハード」という単語は、アラビア語で「苦労」や「努力」を意味します。また、それには複数の段階があるとも説明されます。まず第一に、それは神のご満悦を得るための自己との内的奮闘であるとされます。第二に、それは社会的正義と人権に基づいたムスリム社会を構築するための努力であるとされます。そして第三に、軍事的・武力的努力であるとされます。
軍事的努力には、防戦と攻戦が含まれます。防衛ジハードは、ムスリムの土地が侵略され、人々の生命や富が危険に晒されたときに発動します。それはつまり、ムスリムが自己防衛として侵略者と戦うものです。攻撃ジハードにおいては、イスラームがもたらされていながらも、イスラームによる統治の確立に反対する人々が戦いの対象となります。イスラームとは全人類に対する慈悲であり、それは人間や偶像の崇拝から唯一なる真実の神への崇拝へと呼びかけ、また文化・人・国家による抑圧・不正義から平等と正義へと呼びかけるものです。ひとたび人々にイスラームが知れ渡るようになっても、それを受け入れることは強制されず、各々の判断に委ねられます。
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