来世への旅路(1/8):序説
説明: イスラームにおける死後の世界の概念と、それがいかに私たちの生活に意義と目的を与えるかについて。
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- 掲載日時 06 Dec 2009
- 編集日時 21 Oct 2010
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序説
西暦632年に逝去したイスラームの預言者ムハンマドは、次のように語っています:
“ガブリエルが私を訪れてこう言いました:‘ムハンマドよ、あなたはいずれ死ぬのだから、自分の望むように生きなさい。あなたはいずれ旅立つのだから、自分の望む者を愛しなさい。あなたはいずれ清算されるのだから、自分の望むことをしなさい。夜間の礼拝1は信仰者の名誉であること、そして他者からの独立は誇りであることを知りなさい。’”(スィルスィラ・アッ=サヒーハ)
人間の人生において唯一はっきりしていることは、いずれは終わりがやって来るということです。この真理は、大抵の人々が生涯に一度は本能的に次のような質問を考えるきっかけとなります:“死んだ後には何が待ち受けているのだろうか?”。
生理学的には、故人の歩む道は誰の目にも明らかです。自然のまま放置2されれば心肺機能は停止し、身体中の細胞は血液と酸素が欠乏し、血流の停止によって外見は青白くなります。また酸素供給の停止により細胞は窒息して乳酸を発生し、死後硬直を引き起こします。やがて細胞は分解を始め、硬直は解け、舌が突き出し、温度は下がり、皮膚は変色し、肉体は腐敗し、そして乾いた歯と骨だけになるまで寄生生物のごちそうとなるのです。
死後における魂の旅に関しては、目撃することはもちろん、科学的な調査によって推し量ることも出来ません。生存中の肉体でさえ、人の意識や魂は実験の対象となり得ません。これは単純に、人にとって不可能なことなのです。この点について、神の存在、全能なる創造主、その諸天使、定命をはじめ、死後の世界、復活、審判の日などの来世の概念は、不可視の信仰という対象に当てはまります。人が不可視の世界に関する事柄を知るためには、それがいかなるものであれ、神による啓示以外には有り得ないのです。
“幽玄界の鍵はかれの御許にあり、かれの他には誰もこれを知らない。かれは陸と海にある全てのものを知っておられる。一枚の木の葉でも、かれがそれを知らずに落ちることはなく、また大地の暗闇の中の一粒の穀物でも、生気があるのか、または枯れているのか、明瞭な天の書の中にないものはないのである。”(クルアーン6:59)
先の諸預言者に下された啓典である律法、詩編、そして福音は全て来世について言及しています。そして私たちは神の最後の預言者であるムハンマドに下された最終啓示であるクルアーンのみによって、来世に関する最も多くの知識を得ることが出来ます。クルアーンは永久に人の手による改竄から守られており、そこから得られる不可視の世界に関する情報は信仰者にとっての真実であり、科学的研究によって得られるいかなる事実にも勝るのです。
“啓典の中には一事でも、われが疎かにしたものはない。やがてみな彼らの主の御許に召集されるのである。”(クルアーン6:38)
「私たちが死んだ後はどうなるのか」という質問と共に、「私たちはなぜここにいるのか」という質問も生じます。もしただ生きるだけの人生よりも、人生そのものに大きな意義がないのであれば、死後どうなるかという質問は、無意味ではないにしても学究的なものとなってしまうでしょう。しかしもし私たちが“知的設計(知性ある設計者である神によって生命や宇宙の精妙なシステムが設計されたとする説)”や、私たちの行いを審判する創造主が存在する“創造”の概念を受け入れさえすれば、この地球における人生は重要な意味を持つのです。
“あなた方は、われが戯れにあなた方を創ったとでも考えていたのか。またあなた方は、われに帰されないと考えていたのか。アッラーは、尊くて気高い、真実の王者である。高潔な玉座の主を置いて他には神はない。”(クルアーン23:115−116)
そうでなければ少しでも洞察力のある者は、この世の人生は弱肉強食の掟が最も重要であり、不正、迫害、残酷さに満ちたもの、あるいはそこにおいて物質的快適さ、肉体的情愛、その他の享楽などの現世での喜びを見つけられなければ、生きる価値はないと判断せざるを得ないような人生になってしまうでしょう。事実人が現世において絶望し、自殺にまで至るのは、来世への信仰を持たない、あるいはその信仰が完全でない場合においてなのです。何といっても、不幸で、愛されず、求められてもおらず、かつ落胆した上に絶望し、その末に意気消沈した者に失う物などないのです。3
“迷った者の他は、誰が主の御慈悲に絶望しましょうか。”(クルアーン)
では、私たちの死は単に生理学的な結末ということに過ぎないのでしょうか?あるいは私たちは、生命が単なる盲目で独りよがりな進化の結果であると認めることが出来るのでしょうか?いいえ、生と死にはそれ以上のものがあることに疑いの余地はないのです。
Footnotes:
1一日5回行なわれる礼拝(サラー)において、最後の礼拝(イシャー)の後、最初の礼拝(ファジュル)の前に行なわれる、夜間の任意礼拝のことです。夜間の最後の三分の一が最も適している時間帯です。
2人工的に心臓を鼓動させて血液を送り出すことは可能ですが、もし脳死状態となれば、その存在自体も死の状態となります。
3国連による‘世界自殺予防の日’レポートによると、自殺による死者は、戦争と殺人の双方による死者の合計を上回るとされています。毎年2,000万人から6,000万人の人々が自殺を試みており、その内の約100万人が自殺を完遂していると記録されています。(ロイター通信 2006年9月8日付)
来世への旅路(2/8):信仰者にとっての墓
説明: 死と審判の日の中間である墓の中における、信仰が厚かった者の生命について。
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- 掲載日時 06 Dec 2009
- 編集日時 21 Oct 2010
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墓の世界
それでは死んだ後の魂の旅に関して少しずつ見て行きます。これは真に驚愕すべき物語ですが、その真実性、及び私たち皆が必ず通る道であることが更なる驚きを呼びます。この旅に関して私たちが有している深い知識、そしてその正確さと詳細は、ムハンマドが神によって人類に遣わされた最後の使徒であることの真の明確な印です。彼が主によって下され、私たちに伝えた啓示による来世の叙述は包括的であり、決して曖昧ではありません。それではまず、いかにして信仰する魂が死の直後から最終的な休息の場である楽園に辿り着くまでを大まかに見て行きましょう。
まず信仰者が現世から離れる時、白い顔の天使たちが天から舞い降りてこう言います:
“平安なる魂よ、神によるお赦しとご満悦へと出よ。”(ハキーム、その他の伝承)
そして預言者(彼に神の慈悲と祝福あれ)が述べられているように、信仰者は彼の創造主との接見に心をはずませます:
“・・・信仰者の死が近づくと、彼は自らに対する神のご満悦と祝福に関する吉報を受ける。そして彼を待ち受けていることが何よりも待ち遠しくなるのである。彼は神との謁見をこいねがい、神も同様にそれを寵愛するのである。”(サヒーフ・アル=ブハーリー)
魂は、容器から水のしずくが流れ出るように穏やかに肉体を離れ、天使はそれを受け止めます:
そして天使たちはこう言って、優しく魂を抜き取ります:
“「・・・恐れてはならない。また憂いてはならない。あなた方に約束されている楽園への吉報を受け取りなさい。われわれは現世の生活においても、また来世においても、あなた方の友である。そこではあなた方の魂は望むものを得、そこではあなた方の求めるものが得られる。寛容にして慈悲深い御方からの歓待である。」(と言うのである)。”(クルアーン41:30−32)
一旦魂が肉体から抜き取られると、天使たちは麝香の香りのする布で魂を包み込み、天へと昇ります。楽園の扉が魂へと開かれると、天使たちは歓迎します:
“地上から善き魂がやって来た。あなたとあなたの宿っていた肉体に神の祝福がありますように。”
・・・そしてその魂は現世において呼ばれていた最善の名前で紹介されます。神はかれの“書”に記録を命じ、魂は地上へと戻されます。
次に魂は、バルザフと呼ばれる墓場に留まり、審判の日を待ちます。それからムンカルとナキールと呼ばれる、二人の恐ろしい天使が魂を訪れ、宗教と神と預言者に関して尋問します。信仰する魂は墓の中に真っ直ぐに座り、神は魂がその天使に対して完全な信仰と確信によって答えることをお許しになります。1
ムンカルとナキール:“汝の宗教を答えよ。”
信仰する魂:“イスラームです。”
ムンカルとナキール:“汝の主は誰か?”
信仰する魂:“アッラーです。”
ムンカルとナキール:“汝の預言者は誰か?”(もしくは“この者に関してあなたは何と言うか?”)
信仰する魂:“ムハンマドです。”
ムンカルとナキール:“これらについて知ったのは何故か?”
信仰する魂:“アッラーの書(クルアーン)を読み、信じました。”
そして魂がその試練を乗り越えると、天からの呼びかけが聞こえてきます:
“われの僕は真実を語った。彼に楽園の住処と衣服を与え、その扉を開きなさい。”
信仰者の墓は大きく広がり、光に満ち溢れます。彼には毎朝毎夕、楽園への扉が開かれ、そこにおける住まいが示されます。そしてもし彼が罪人であった際には、そこに行くことになっていた火獄での彼の住処も示されます。期待感に喜々とする信仰者は何度も尋ねます:‘(復活の)時はいつ来るのですか?!時はいつ来るのですか?!’そして彼は落ちつくよう、促されるのです。2
来世への旅路(3/8):信仰者にとっての審判の日
説明: 審判の日は信仰者にとってどのようなものになるのか?そして楽園へと続く門をくぐることを容易にする信仰者の特徴とは?
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審判の日
“人が自分の兄弟から逃れる日、自分の母や父や、また自分の妻や子女から(逃れる日)。その日誰も彼も自分のことで手いっぱい。”(クルアーン80:34−37)
審判の時は、圧倒的かつ恐るべき出来事です。しかし預言者(彼に神の慈悲と祝福あれ)が主から伝えるところによると、その恐ろしさにも関わらず信仰者は恍惚状態に入ります:
神は仰せられています:“われの威光と主権にかけて。われは僕に二つの安心と二つの恐怖を与えはしない。もし彼が現世においてわれに安心するのであれば1、われは僕を寄せ集めるその日、彼を恐怖に陥れるであろう。そしてもし彼が現世においてわれを畏れるのであれば、われはしもべを寄せ集めるその日、彼を安心させるであろう。”2
“見なさい。アッラーの友には本当に恐れもなく、憂いもないであろう。彼らは信仰し、(アッラーを)畏れていた者たち。彼らに対しては現世でも、来世においても吉報がある。アッラーの御言葉には変更はない。それこそは偉大な、幸福の成就である。”(クルアーン10:62−64)
歴史において創造された全ての人類が、割礼されていない裸の状態で、灼熱の太陽のもと、大いなる荒野に寄せ集められる時、選び抜かれた男女の信仰者は神の玉座の陰に入れられます。その他にいかなる陰も存在しない日、これらの幸運な魂たちが現世においていかなる者であったかを預言者ムハンマドはこう予言しています:3
·神の啓示に基づいた法のもとに治め、権力を悪用しなかった公正な統治者。
·彼の主を崇拝しながら育ち、貞節を保つために欲望を抑えた若者。
·モスクをこよなく愛し、そこを去る時にはまた早くそこに戻って来たいと願う者たち。
·神のためにお互いを愛し合った者たち。
·魅惑的で美しい女性に誘惑されたが、神への畏れから罪を犯さなかった者たち。
·神のために真摯に施し、それを秘密とした者。
·神への畏れから、一人涙する者。
また特定の崇拝行為はその日人々を守ります。それらは以下の通りです:
·現世において、災難を受けている者に対して慰め、困窮者を救済し、他者の過ちを見逃すことは審判の日における自らの困難を和らげます。4
·債務者に対する寛容さ。5
·家族、そして委託された事柄に対し公正な者。6
·怒りの抑制。7
·礼拝の呼びかけを行なう者。8
·イスラームの状態のまま年を重ねること。9
·清めの儀礼(ウドゥー)を定期的かつ適切に行なうこと。10
·マリアの子イエスと共に、偽キリスト及びその軍隊と戦う者たち。11
·殉教。
神は信仰者をかれに近寄せ、保護し、覆い、そして彼の罪に関して質問されます。彼は自らの罪を認めた後、それらによって破滅が待ち構えると思い込みますが、神はこう仰せられます:
“われはあなたのためにそれを隠蔽し、あなたのために今日それを赦そう。”
彼は過ちに関して譴責されますが、12自分の善行が記された書を右手に渡されます。13
“その時右手にその書冊を渡される者に就いては、彼の計算は直ぐ容易に清算され、彼は喜んで、自分の人々の許に帰るであろう。”(クルアーン84:7−9)
それから彼は自分の記録を見て、喜びをあらわにします:
“それで右手にその(行状)記を渡される者は言う。「ここに(来て)、あなた方は私の(行状)記を読め。いずれ私(信者)の清算(審判)に合うことが、本当に分っていた。」こうして彼は至福な生活に浸り、高い(丘の)園の中で、様々な果実が手近にある。「あなた方は、過ぎ去った日(現世)で行った(善行の)ために、満悦して食べ、且つ飲め。」(と言われよう)。”(クルアーン69:19−24)
なお善行の記録は文字通り秤にかけられ、それが悪行よりも重いかどうかを見極められます。それに従って報奨、もしくは懲罰が割り当てられます。
“れは審判の日のために、公正な秤を設ける。一人として、たとえけし粒ほどの重さであっても不当に扱われることはない。われはそれを(計算に)持ち出す。われは清算者として万全である。”(クルアーン21:47)
“一微塵の重さでも、善を行った者はそれを(勤労の実りとして)見る。”(クルアーン99:7)
“復活の日、秤にかけられる最も重いものとは、(信仰の証言以外では)善き品行である。神は卑猥で不道徳な者を嫌悪される。”(アッ=ティルミズィーの伝承)
信仰者は、預言者ムハンマドに捧げられた特別な水場によって喉の渇きを癒します。そこから飲む者は、二度と渇きを経験することがありません。その美しさ、広大さ、そして甘く素晴しい味は預言者によって詳しく説明されています。
イスラームの信仰者―敬虔な者、そして罪深い者―は、不信仰者が火獄へと投げ込まれた後、偽信者と共に大いなる荒野に留まります。しかしその後、火獄の上をまたぎ、暗がりと続く長い橋が彼ら偽信者を楽園から切り離します。14信仰者は神によって灯される光によって力と安心を得、燃え盛る業火の上を困難なく素早く渡り切ることが出来るのです。そしてその光によって彼らの永久なる住処に導かれます:
“その日あなたは、信者の男と信者の女の、前の方や右側に、彼らの光が走るのを見るであろう。(彼らには言われよう。)「今日は、あなた方への吉報がある。川が下を流れる楽園のことである。永遠にその中に住むのである。」それこそは、本当に偉大な幸福の成就である。”(クルアーン57:12)
そして橋を渡った後には、信仰者は楽園へ入る前に清められます。そこで信仰者たちの間にある全ての恨みは解消され、お互いにいがみ合う者はいなくなるのです。15
来世への旅路(4/8):信仰者と楽園
説明: 信仰において、楽園という成功を成し遂げる者たちが、そこでどのように迎え入れられるかについて。
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- 掲載日時 06 Dec 2009
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楽園
信仰者たちは楽園の巨大な8つの門の前へと先導されます。そこで彼らは天使たちによって、火獄からの救いと安全な到着に対して至福に満ちた歓迎と祝福を受けます。
“また彼らの主を畏れた者は、集団をなして楽園に駆られる。彼らがそこに到着した時、楽園の諸門は開かれる。そしてその門番は、「あなた方に平安あれ、あなた方は立派であった。ここに御入りなさい。永遠の住まいです。」と言う。”(クルアーン39:73)
“(善行を積んだ魂に言われるであろう。)おお、安心し、大悟している魂よ、あなたの主に返れ、歓喜し御満悦にあずかって。あなたは、わがしもべの中に入れ。あなたは、わが楽園に入れ。 ”(クルアーン 89:27−30)
まずムスリムの内でも、最善の者たちが最初に楽園へ入ります。そして彼らの内の最も誠実な者たちがその最上層へと昇ります。1
“だが、多くの善行をして、信者としてかれの許に来た者には高い位階を与える。”(クルアーン20:75)
“(信仰の)先頭に立つ者は、(楽園においても)先頭に立ち、これらの者(先頭に立つ者)は、(アッラーの)側近にはべり、至福の楽園の中に(住む)。”(クルアーン56:10−12)
クルアーンの楽園に関する叙述は、そこがいかに素晴しい所であるかを私たちに教えます。そこは私たちの欲求を全て満たし、感覚を誘惑し、ありとあらゆる望みを叶える永久の住処なのです。楽園は、麝香の粉からなる砂2、サフランの土3、金と銀のれんが、真珠とルビーの小石から成っていると神は述べられています。楽園の庭園の下には泡立つ水、甘い乳、純粋な蜜、そして酔うことのないワインから成る川が流れています。それらの川岸にあるテントは真珠の丸屋根4で出来ています。その場は輝かしい光に満ちており、芳しい植物や、はるか彼方から匂い取れる香気で溢れています。5そこには高くそびえ立つ宮殿、巨大な館、ぶどうのつる、ナツメヤシの木、ザクロの木6、金の幹からなる蓮やアカシアの木があります。7そして漿果類、柑橘類、核果類、瓜類、林檎類など、信仰者の考え得るあらゆる種類の熟した果物があるのです。
“(楽園の)中には各自の望むもの、また目を喜ばすものがあろう。”(クルアーン43:71)
各信仰者には、優雅な衣服をまとった、最も美しく敬虔で純粋な配偶者が与えられます。そしてその輝かしき永久の新世界には更なる至福が待ち受けているのです。
“彼らはその行ったことの報奨として、喜ばしいものが自分のためにひそかに(用意)されているのを知らない。”(クルアーン32:17)
楽園はその居住者に対し、物質的な喜びだけでなく、感情的、精神的な至福をも与えます。預言者は述べられています:
“誰であれ楽園に入る者は、喜びの人生を祝福される。彼は決して悲しまず、彼の衣服は決してほころびず、彼の若さは決して老いないであろう。人々は神の呼びかけを聞くだろう:‘われはあなた方に健康を与え、二度と病気にならず、あなたは生き、決して死なず、あなたは若く、決して老いはせず、あなたは至福に満ち、決して悲しまないであろう。’”(サヒーフ・ムスリム)
究極的に、最高の喜びとは神ご自身との謁見です。真の信仰者にとり、神の祝福されたお姿を目にすることこそ、究極の報奨なのです。
“その日、或る者たちの顔は輝き、彼らの主を仰ぎ見る。”(クルアーン75:22−23)
これが、誠実な信仰者にとっての最終目的地であり、永久なる住処である楽園なのです。至高なる神が私たちを楽園にふさわしくしてくださりますよう。
来世への旅路(5/8):不信仰者にとっての墓
説明: 死と審判の日の中間である墓の中での生命は、真実を頑に拒む不信仰者にとっていかなるものとなるか?
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- 掲載日時 06 Dec 2009
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邪な不信仰者に死が近づくと、彼は火獄の熱のようなものを感じ取るようになります。やがて来るであろう苦しみの予兆は、この世での善行の義務を知りつつもそれを怠っていたことを彼に後悔させます。彼の後悔は何の役にも立ちません:
“だが死が訪れると、彼らは言う。「主よ、私を(生に)送り帰して下さい。私が残してきたものに就いて善い行いをします。」決してそうではない。それは彼の口上に過ぎない。復活の日まで、彼らの後ろには戻れない障壁がある。”(クルアーン23:99−100)
邪な魂には、彼から遠くに座っている、恐ろしく醜く暗い天使を介し、神の怒りと懲罰がもたらされます:
“煮えたぎる水、膿、そしてそれらを何倍も上回る激痛の吉報を受けるが良い。”(イブン・マージャ、イブン・カスィールの伝承)
預言者が述べられているように、不信仰の魂は彼の主との謁見を望みません:
“不信仰者に死が近づくと、彼には神による懲罰と報復の悪報が告げられ、彼にとっては先に待ち受けるものが何よりも忌わしいものとなる。それゆえ彼は主との謁見を嫌い、神ご自身も彼との謁見を嫌われるのである。”(サヒーフ・アル=ブハーリー)
また預言者はこのようにも述べられています:
“誰であれ、神との謁見を心待ちにする者との謁見を神は心待ちにされ、神との謁見を嫌う者との謁見を神は嫌われるのである。”
死の天使は墓に眠る不信仰者の枕元に座り、こう言います:“邪なる魂よ、アッラーのお怒りの前に出て来るのだ。”そして肉体から魂をもぎ取るのです。
“これらの不義の徒が、末期の痛苦の中で、天使たちが手を差し出して、「あなた方の魂を渡せ。あなた方はアッラーに就いて、真実ではないことを言ったりその印にたいして傲慢な態度をとってきたりしたことに、恥ずべき懲罰を載くのだ。」と言う時の姿をあなたに見せてやりたいものである。”(クルアーン6:93)
“あなたはもし天使たちが不信心な者たちの(死に際し)魂を取る時、その顔や背中を(如何に)打つかを見るならば(どうであろう)。(その時天使たちは言うであろう。)「火炙りの懲罰を味わえ。」”(クルアーン8:50)
天使たちによって、濡れた羊毛から絡まった串が抜き取られるかのように、邪な魂が肉体から抜き取られる際には多大な苦痛が伴います。1そして死の天使は魂を捕らえ、それはこの世で最も強く匂う死骸のような腐敗臭のする髪で編まれた袋に入れられます。そして天使たちは他の天使たちの集団のもとを通りかかり、こう尋ね合います:“誰だ、その邪な魂は?”彼らは答えます:“誰々の息子の誰々だ。”彼はこの世で呼ばれた最悪の名前で呼ばれます。そして彼が天界の最も低い層に連れて行かれると、彼のためにその門を開くよう要請されますが、それは拒絶されます。預言者はこれらの出来事を説明する際、この時点に差し掛かった時、次の節を朗誦しました:
“わが印を偽りであるとし、それに対し高慢であった者たちには、天の門は決して開かれないであろう。またラクダが針の穴を通るまで、彼らは楽園に入れないであろう。”(クルアーン7:40)
神は仰せられます:“最も低い地上で、彼の書をスィッジーンに記録せよ。”
そして彼の魂は下に向かって放り投げられます。この時、預言者(彼に神の慈悲と祝福あれ)は次の句を朗誦しました:
“アッラーに神々を配する者は、丁度天から落ちて鳥に攫われた者のようである。または風が、彼を遠い所に吹き攫った者のようである。”(クルアーン22:31)
邪な魂は肉体に戻され、ムンカル、ナキールと呼ばれる恐ろしい二天使によって尋問を受けます。彼を座らせると、彼らはこう問います:
ムンカルとナキール:“汝の主を答えよ。”
不信仰の魂:“ああ、ああ、分かりません。”
ムンカルとナキール:“汝の宗教は何か?”
不信仰の魂:“ああ、ああ、分かりません。”
ムンカルとナキール:“汝に遣わされたこの者(ムハンマド)に関して何と言うか?”)
不信仰の魂:“ああ、ああ、分かりません。”
試練を乗り越えることの出来なかった不信仰者は、鉄の金槌によって山を粉砕する程の猛烈な力で頭を打たれます。その叫び声は天にまで届きます:“彼は嘘をついた。彼のために火獄の絨毯を広げ、その門を開けよ。”2彼の墓は、火獄の燃え盛る炎によって床が照らされ、彼の体は左右の肋骨同士が絡み合う程に狭められ、押し潰されます。3そして、醜い衣服をまとい、不快な異臭を放つ、極めて醜悪な存在が不信仰者の魂を訪れ、こう言います:“汝を苛ますことに悲観するがよい。この日こそ、汝に約束されていた日なのである。”不信仰者は尋ねます:“その醜い顔で悪をもたらすお前は何者だ?”醜悪な者は答えます:“我こそは汝による悪行である。”そして毎朝毎夕、火獄への門が開かれる前に、不信仰者は彼が誠実な人生を送っていれば、楽園で彼の住処になるはずだったものを見せつけられ、深い悲しみに陥ります。4アッラーはかれの書において、ファラオの民がいかに邪悪であったかを述べられていますが、彼らは今この瞬間も、墓の中の火獄による懲罰によって苦しんでいるのです:
“彼らは朝にタベに業火に晒され、それから時が到来するその日、「ファラオの一族を、最も厳しい懲罰に投げ込め。」(と仰せられよう)。”(クルアーン 40:46)
恐怖と嫌悪感、不安と絶望に打ち負かされる不信仰者は、墓の中でこう求め続けます:“私の主よ、最後の時をもたらさないでください。最後の時をもたらさないでください。”
教友の一人であるザイド・ビン・サービトは、ある時預言者ムハンマドと彼の教友たちが多神教徒の墓地を通り掛かっていた際、預言者の馬が突然駆け出し、彼が落ちそうになった逸話を語りました。その時、預言者(彼に神の慈悲と祝福あれ)はこう述べました:
“これらの人々は墓の中で拷問を受けているのだ。あなた方が故人の埋葬を止める恐れがなければ、私(とこの馬)に聞こえている墓の懲罰をあなた方が聞こえるよう神に頼んだのだが。”(サヒーフ・ムスリム)
来世への旅路(6/8):不信仰者にとっての審判の日
説明: 不信仰者たちが審判の日に受ける試練の一部とは?
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- 掲載日時 06 Dec 2009
- 編集日時 18 Nov 2021
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復活の日、復活した者たちには大いなる恐怖が襲いかかります:
“・・・かれは(恐れのために)目が坐る日まで、彼らに猶予\を与えられるだけである。”(クルアーン14:42)
神によって次の句で述べられているように、不信仰者は彼の墓地から復活させられます:
“彼らが墓から慌ただしく出て来る日。それはまるで(現世で)彼らが偶像神へと急いだように。彼らは目を伏せ、屈辱を被るであろう。これが彼らに約束されていた、その日である。”(クルアーン70:43−44)
そしてその先に待ち構\える悪への報いに心はおののき、混乱します:
“だが(ある者たちの)顔は、その日埃に塗れ、暗黒が顔を覆う。これらの者こそ、不信心な者、放蕩者である。 ”(クルアーン 80:40−42)
“不義を行う者を、アッラーは疎かになされると考えてはならない。かれは(恐れのために)目が坐る日まで、かれらに猶予\を与えられるだけである。(その日)彼らは首を上げて前の方に走って行き、目は坐って自分に戻らず、心は空ろである。”(クルアーン14:42−43)
不信仰者たちは生まれたままの姿―\割礼されていない裸の状態―\で顔から引きずられ、盲目かつ聴力のない状態で大いなる荒野に寄せ集められます:
“われは復活の日に、彼らの顔を俯けにして召集する。見えない者、物言えない者、聞こえない者として。彼らの住まいは地獄である。そして(火勢が)衰える度にわれは彼らのために烈火を加える。”(クルアーン17:97)
“だが誰でも、わが訓戒に背を向ける者は、生活が窮屈になり、また審判の日には盲目で甦らされるであろう。”(クルアーン 20:124)
彼らは三度、神に“会い”ます。最初に彼らは全知全能\の神に対し、虚しい言い分によって自分たちの弁護を試みます:“いかなる預言者も我々には遣わされませんでした!”アッラーはかれの書において、このように啓示されています:
“・・・われは(警告のため)一人の使徒を遣わさない限り決して懲罰を下さない。”(クルアーン17:15)
“・・・これはあなた方に、「私たちには吉報の伝達者も警告者も来ない。」と言わせないためである。”(クルアーン5:19)
二度目に、彼らは自分たちの罪を認識しながらも、言い訳をします。悪魔たちでさえ、人類を道に迷わせた罪から言い訳をするのです:
“彼の仲間(悪魔)は言う。「主よ、私が彼を背かせたのではありません。彼が(自ら)遠く迷い込んでしまったのです。」”(クルアーン50:27)
しかし、いと高き最も公正な神は騙されません。かれはこう仰せられます:
“「われの前で議論してはならない。われは既にあなた方に警告したのである。われは言ったことを変えることはない。またわれのしもべたちに対し、決して不正ではないのである。」”(クルアーン50:28−29)
三度目に邪な魂が彼の創造主と会うのは、彼の所業の書1を受け取る時です。その中にはいかなる行いも脱落してはいません。
“(行いを記録した)書冊が(前に)置かれ、犯罪者がその中にあることを恐れているのを、あなた方は見るであろう。彼らは言う。「ああ、情けない。この書冊は何としたことだ。細大漏らすことなく、数えたててあるとは。」彼らはその行った(全ての)ことが、彼らの前にあるのを見る。あなたの主は誰も不当に扱われない。”(クルアーン18:49)
記録を受け取るにあたり、邪悪な者たちは全人類の目前で非難されます:
“彼らは列をなして、主の御前の所定の位置に付かされる。(主は仰せられるであろう。)「あなた方は、われが最初創ったように、今、正にわれの許に来た。いや、われがあなた方に対し(会見の)約束を果たさないと、あなた方は決めつけていたのだ。」”(クルアーン18:48)
預言者ムハンマドはこう述べられています:“これらは、神を信じなかった者たちである。”2そしてこれらこそが、神によって自分たちに与えられていた祝福を、当然のように捉えていた者たちなのです。彼らはそれぞれ質問されます:‘われわれに会うことを知っていたか。’彼らは皆、こう答えます:‘いいえ!’神は告げられます:‘汝がわれを忘れたように、われも汝を忘れよう。’3そして不信仰者は嘘をつこうと試みますが、神は彼の口を封じ、彼の体の各部位は彼に対する証言をするのです:
“その日われは、彼らの口を封じる。するとその手がわれに語り、彼らの足は、その行ったことを立証する。”(クルアーン36:65)
不信仰者たちは自分たちの行なった罪のみならず、彼らが迷わせた者たちの罪をも背負うことになります:
“彼らに向かって、「あなた方の主が(ムハンマドに)下されたのは何か。」と問われる時、彼らは、「昔の物語です。」と言う。彼らは復活の日に、自分自身の重荷の全部と、知識がないために、彼らに迷わせられた者の重荷をも負う。ああ、彼らが負うものこそ哀れである。”(クルアーン16:24−25)
そこでは欠乏、孤独感による精神的苦痛のみならず、肉体的な拷問も加わります:
“・・・復活の日には、アッラーは彼らに御言葉も与えず、また顧みられず、清められることもない。かれらは痛ましい懲罰を受けるであろう。”(クルアーン3:77)
預言者ムハンマドは信仰者のために執り成しますが、唯一・真実の神を差し置いて虚偽の神々を崇拝した不信仰者を執り成す者は現れません。4
“・・・悪い行いの者には、保護者も援助者もない。”(クルアーン42:8)
彼らはそこで自分たちの諸聖人、精神的指導者から関係を断たれます。それで不信仰者たちは現世に戻って、彼らに対する同様の仕打ちを望みます:
“その時指導者たちは追従者を見捨てて、懲罰を目の辺にして、彼らの間の一切の絆が断絶するであろう。それで追従者たちは言う。「もし私たちが今一度ひき返すことが出来るならば、彼らが私たちを見捨てたように彼らを見捨てるのだが。」アッラーはこのように、自分の行い(の果実)を明示される。彼らにとって痛恨の他ないであろう。彼らは業火(の責め苦)から出ることは出来ない。”(クルアーン2:166−167)
罪深い魂が抱える悲しみの深さは、彼が祈りを捧げ始める程です:‘神よ、私に慈悲をお与え下さい。そして私を火の中へお入れ下さい。’5彼は問われます:‘汝は地上一杯に溢れる黄金を手にし、それを身代金として支払うことを望むか。’彼は答えます:‘はい。’そして彼はこう告げられるのです:‘汝はそれよりも容易なことを求められていたのだぞ。神のみを崇拝することを。’6
“彼らの命じられたことは、ただアッラーに仕え、かれに信心の誠を尽し、純正に服従、帰依して、礼拝の務めを守り、定めの喜捨をしなさいと、いうだけのことであった。”(クルアーン 98:5)
“しかし信仰のない者は、そのすることなすこと、砂漠の中の蜃気楼のようなもので、渇き切った者には水だと思われる。だがやってくれば何も見出せない。そこではアッラーの御前であり、彼の勘定が払われることを知るであろう。アッラーは清算に迅速であられる。”(クルアーン24:39)
“われは彼らの行ったことに報いて、それを塵のようにまき散らすであろう。”(クルアーン25:23)
そして不信仰者の魂は、諸天使によってその左手、そして背中越しに彼の現世における全ての行いが記された所業の記録を渡されます。
“だが左手にその(行状)記を渡される者は言う。「ああ、私の(行状)記が渡されなかったならば。私は自分の清算が、どんなものであるかを知らなかった。」”(クルアーン69:25−26)
“だが背後に書冊を渡される者に就いては、直に死を求めて叫ぶ。”(クルアーン84:10−11)
彼は最終的に火獄へと放り込まれます:
“不信者は集団をなして地獄に駆られ、彼らがそこに到着すると、地獄の諸門は開かれる。そして門番が言う。「あなた方の間から出た使徒は来なかったのですか。(そして)主からの印をあなた方のために読誦し、またあなた方のこの会見の日のことを警告しなかったのですか。」彼らは(答えて)言う。「その通りです。そして不信者に対する懲罰の言葉(定め)が、真に証明されました。」”(クルアーン39:71)
最も先に火獄へと入れられる者は多神教徒であり、次に諸預言者の教えを改竄したユダヤ教徒とキリスト教徒が入ります。7彼らの内の一部は火獄へと転落し、また一部は鈎によってもぎ取られます。8その時点において、不信仰者は自分自身の悪行による報いを受ける程なら、塵となって消えてしまいたいと願います。
“本当にわれは、懲罰が近いと、あなた方に警告した。その日、人は、自分の両方の手が前もって行ったもの(所業)を見るであろう。不信者は、「ああ、情けない、私が塵であったならば。」と言うであろう。”(クルアーン 78:40)
来世への旅路(7/8):火獄における不信仰者
説明: 不信仰者はいかにして業火の罰を受けるかについて。
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- 掲載日時 06 Dec 2009
- 編集日時 21 Oct 2010
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地獄は信仰無き者を猛威と轟音によって迎え入れます:
“・・・にも拘らず、彼らは(審判の)時を虚偽であるとする。われは、その時を虚偽であるとする者に対し、燃え盛る火を用意している。遙かに離れた所から見る時、彼らはその怒声と咆哮を聞くであろう。”(クルアーン25:11−12)
そして彼らがそこに近づくと、彼らは枷を付けられます。そして彼らの地獄の業火の燃料となる運命を知るのです:
“不信心者には、われは鎖と首枷と烈火を準備して置いた。”(クルアーン76:4)
“本当にわれの手元には鎖があり、また炎もある。”(クルアーン73:12)
天使たちは神の命令に従って彼を捉え、束縛します。
“彼を捕えて、縛れ。”(クルアーン69:30)
“・・・われは不信心な者の首に枷をかける。”(クルアーン34:33)
それから鎖をかけられ・・・
“・・・更に70腕尺の長さの鎖で、彼を巻け。”(クルアーン69:32)
・・・引きずられます:
“枷が彼らの首に填められ、また鎖が巻かれ、彼らは引かれるであろう。”(クルアーン40:71)
彼らが鎖で縛り付けられ、引きずられて地獄へと投げ込まれる際、彼らはその獰猛さを耳にします:
“彼らの主を信じない者には、地獄の懲罰がある。何と悪い帰り所であることよ。彼らがその中に投げ込まれる時、それ(地獄)が沸騰するかのように不気味で忌しい音でうなるのを彼らは聞こう。激しい怒りのために破裂するかのようである。”(クルアーン67:6−8)
彼らは裸、空腹の状態で大いなる荒野から追い立てられ、楽園の住人に水をせがみます。
“火獄の民は楽園の民を呼んで(言う)。「私たちに水を注いでくれ。またはアッラーが、あなた方に与えられたものを恵んでくれ。」彼らは(答えて)言う。「アッラーは、そのどちらをも、不信仰者には禁じられる。」”(クルアーン7:50)
一方楽園の信仰者は名誉を授かり、安楽を得て、ご馳走を給仕されます。不信仰者は火獄で食事をします:
“その時あなた方は(どうであろう)、迷って(真理を)虚偽であるとした者よ。必ずあなた方はザックームの木(の実)を食べ、それで腹は一杯になる。”(クルアーン56:51−53)
ザックームとは、火獄の底に根を張り、他の層にまで枝を延ばす樹木です。その実は悪魔の頭部に類似しています:
“それ(楽園)は結構な歓待ではないか。それともザックームの木(をとるの)か。われはこの木を悪事を働く者への試みとして、用意したのである。それは地獄の底に生える木で、その実は、悪魔の頭のようである。彼らはこれを食べて、腹はそれで一杯になる。”(クルアーン37:62−66)
邪悪な者にも食事はありますが、それは喉を詰まらせるもの1や、刺の多い乾いた薮のようなものだけです。2
“また、穢しい腐敗物の他に食物はない。それを食べるのは、罪人だけである。”(クルアーン69:36−37)
それらの忌わしい食事を流し込むため、極めて冷たい自らの膿、血、汗、3そして内蔵を溶かす程の煮えたぎった水を用いるのです:
“・・・煮えたぎる湯を飲まされて、腸が寸断する。”(クルアーン47:15)
また火獄の住民は、炎とタールの衣をまとわされます:
“・・・それで(主を)拒否する者のために仕立てられるのは、炎の衣装であろう。”(クルアーン22:19)
“彼らの下着はタールで、彼らの顔は火で覆われる。”(クルアーン14:50)
同様に彼らの履物4、寝床、そして天蓋は炎から作られたものです。5その懲罰は現世においてこの日のことをおろそかにしていた頭から、法を無視していた足指の先まで、体中を包み込みます:
“それから、彼の頭の上に沸騰する湯の痛苦を浴びせよ。”(クルアーン44:48)
“懲罰は、彼らの上からまた足元から彼らを襲う。その日(声があって)言われよう。「あなたの行ったことを味わえ。」”(クルアーン29:55)
尚彼らの不信仰と罪の度合いにより、火獄での懲罰は異なります:
“業火が、何であるかをあなたに理解させるものは何か。(それは)ぼうぼうと燃えているアッラーの火、心臓を焼き尽し、彼らの頭上に完全に覆い被さり、(逃れることの出来ない)列柱の中に。”(クルアーン104:5−9)
彼の皮膚は、燃え尽きては再生します:
“本当にわが印を信じない者は、やがて火獄に投げ込まれよう。彼らの皮膚が焼け尽きる度に、われは他の皮膚でこれに替え、彼らに(飽くまで)懲罰を味わわせるであろう。誠にアッラーは偉力ならびなく英明であられる。”(クルアーン4:56)
そして悲惨なことに、その懲罰は増加し続けるのです。
“だからあなた方は(自分の行いの結果を)味わえ。われは懲罰を増加するばかりである。”(クルアーン78:30)
この懲罰の精神的影響は計り知れないものです。その凄惨な懲罰は、その中にある者が現世において彼を迷わせた者に対し、その何倍もの罰を要求して叫ぶ程です:
“すると彼らは言う。「主よ、私たちをここに連れて来た者には、火獄で倍の懲罰を御加え下さい。」”(クルアーン38:61)
彼はまず、そこから脱出しようと試みます。しかし:
“その上、彼らには鉄の鞭が加えられる。苦しさのため、そこから出ようとする度に、その中に押し戻され、「火炙りの刑を味わえ。」(と言われよう。)”(クルアーン22:21−22)
その試みに数回失敗した後、彼らは悪魔の長イブリースに助けを求めます。
“全ての事が決定された時、悪魔は言った。「真実の約束を、あなた方に約束されたのはアッラーでした。私も約束したのですが、あなた方の役には立たなかったのです。もともと私は、あなた方に対し権威はないのです。ただあなた方に呼びかけ、あなた方が私に従っただけです。それで私を非難してはならないのです。寧ろ自分自身を責めなさい。私はあなた方を助けることは出来ないのです。あなた方も私を助けられないのです。実はあなた方が、先に私を(アッラーと)同位に置いたが、私はそれを拒否していたのです。本当に不義の徒には痛ましい懲罰があるのです。」”(クルアーン14:22)
こうして彼らは悪魔への望みを棄て、地獄の看守を務める諸天使に対し、僅か一日でも懲罰が軽減されることを求めるのです:
“そこで、獄火の中にいる者たちは、地獄の看守(天使)に言う。「この懲罰が、一日(でも)私たちから軽くなるよう、あなたの主に嘆願して下さい。」”(クルアーン40:49)
彼らはその返答を、神が御望みになられる期間待ち続けますが、看守たちは戻って来てこう言います:
“かれら(天使)は言う。「使徒が、あなた方に明証を持って行かなかったのか」。彼らは(答えて)言う。「その通りです。」かれら(天使)は言う。「それなら祈るがいい。」しかし、これら不信心者の嘆願は、誤り(の迷路)に(虚しくさ迷って)いるだけである。”(クルアーン40:50)
懲罰の軽減への望みを失った彼らは死を求めます。彼らは地獄の番人、天使マーリクへと赴き、40年間に渡って次のように嘆願します:
“彼らは、「マーリクよ、あなたの主に頼んで私たちの始末を付けて下さい。」と叫ぶ。”(クルアーン43:77)
そしてその1000年後に返される彼の返答は、次のようなぶっきらぼうなものです:
“「あなた方は、滞留していればよいのである。」”(クルアーン 43:77)
やがて彼らは現世において拒否していた御方の方へと振り返り、最後の機会を求めます:
“彼らは言う。「主よ、私たちは不運に打ち負け、迷っていました。主よ、私たちをここから出して下さい。もしもなお私たちが(悪に)返るならば、本当に不義の徒です。」”(クルアーン23:106−107)
そしてそれに対する神の返答は、次のようなものです:
“その中に卑しめられて留まるのだ。われに物を言うな。”(クルアーン23:108)
この返答による苦痛は、彼らの熾烈な懲罰よりも一層彼らに重くのしかかります。不信仰者は地獄の滞在が永劫であること、そして楽園を禁じられたことが絶対的であることを知るのです:
“アッラーは信仰を拒否して不義を行う者たちを決して赦されず、また(正しい)道に導かれることもない。地獄への道を行く他になく、永遠にその中に住むであろう。これはアッラーには、非常に容易なことである。”(クルアーン4:168−169)
不信仰者にとって最も大きな損失と悲しみは、精神的なものです。つまり、彼は神から隔離され、かれを見る事が出来ないのです。
“いや、本当に彼らは、その日、主(の御光)から締め出される。”(クルアーン83:15)
彼らが現世においてかれを“見ようと”しなかったのと同様、彼らは来世でも神によって分け隔たれるのです。信仰者たちは彼らを笑います。
“だがこの日は、信仰する者が不信者たちを笑い、彼らは寝床に寄って、見渡すであろう。不信者たちは、その行いの報いを受けたであろうかと。 ”(クルアーン 83:34−36)
彼らの前に死が羊の形で訪れ、それが屠殺されると、彼らは死への避難が出来ないことを悟り、彼らの完全なる絶望と嘆きは頂点に達します。
“あなた(ムハンマド)は悔恨の日(復活の日)に就いて、彼らに警告しなさい。その時、事は決定されるのである。彼らが油断し、また不信心である間に。”(クルアーン 19:39)
来世への旅路(8/8):結論
説明: 天国と地獄が存在するいくつかの理由。
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西暦632年に逝去したイスラームの預言者、ムハンマドはこのように語っています:
“信仰者にとって現世は牢獄であるが、不信仰者にとっては楽園である。同時に不信仰者の来世は牢獄であるが、信仰者にとっては楽園なのである。”
イスラーム初期のある時、貧しいキリスト教徒が、立派な馬に乗り、素晴しい衣服を着たイスラーム学者と出会いました。そのキリスト教徒は裕福なムスリムに上記のハディースを話して聞かせると、こう言いました:“私はあなたの前に、貧しく窮乏した非ムスリムとして立ちますが、あなたはムスリムであり、裕福でかつ成功しています。”イスラーム学者は答えました:“その通りです。しかしもしあなたが来世であなたを待ち受ける真実(未来永劫の懲罰)をお知りになれば、あなたはご自身が今、それと比較すると楽園にいるとお考えになるでしょう。そしてもしあなたが来世で私を待ち受ける真実(未来永劫の祝福)をお知りになれば、あなたは私が今、それと比較すると牢獄にいるとお考えになるでしょう。”
従って、神が天国と地獄を創造されたのは、かれによる大きなご慈悲と正義なのです。地獄の業火に対する認識は、人が悪事を働くことを思い留まらせます。また楽園の宝の知らせは、彼に善行を促し、誠実にさせます。彼ら自身の主を否定する者たちは罪を犯し、その心は頑なであり、地獄へと入れられます。そこは本当の意味での苦痛と懲罰の場です。誠実さへの報奨とは、想像もつかない程の物理的な美と、完璧な理想が実現する天国なのです。
人はたびたび自分自身の魂に関し、彼らの行なうあらゆる善行は純粋に神のみへの愛によるものか、または普遍的な道徳観と徳の法則に従っているためなのであり、そこにおいて何の報奨も必要はないと証言します。しかし神がクルアーンにおいて人間に話しかけられる際、かれは人間の気まぐれな魂を熟知しています。天国の至福は現実、物理的、そして実体的なものなのです。人は、今この現世において食べ物や衣服、住居などの恩恵と甘美さを知っているために、楽園における完全かつ永劫の飲食物や衣服や住まいを魅力的に感じ、期待することが出来るのです。
“様々な欲望の追求は、人間の目には美しく見える。婦女、息子、莫大な金銀財宝、(血統の正しい)焼印を押した馬、家畜や田畑。これらは、現世の生活の楽しみである。だがアッラーの御側こそは、最高の安息所である。”(クルアーン3:14)
同様に、人は現世における燃えたぎる炎の恐ろしさを知っているため、地獄の業火の拷問がいかに恐ろしいかが分かるのです。従って、神とかれの預言者ムハンマド(彼に神の慈悲と祝福あれ)によって鮮明に描写されている死後の世界への魂の旅は、全人類がその高潔な目的であることをはっきりと認識している命題、つまり創造主への崇拝と奉仕、そして無償の愛と畏れと感謝といったことを促す以外の何ものでもないのです。
“彼らの命じられたことは、ただアッラーに仕え、かれに信心の誠を尽し、純正に服従、帰依(イスラーム)して、礼拝の務めを守り、定めの喜捨をしなさいと、言うだけのことであった。”(クルアーン98:5)
しかし歴史上、極めて多くの人々は、彼らの主である神、そして人々に対する道徳的義務を怠ってきました。彼らは次のことを忘れるべきではありません:
“誰でも皆死を味わうのである。だが復活の日には、あなた方は十分に報いられよう。(またこの日)業火から遠ざけられた者は、楽園に入れられ、確実に本望を成就する。この世の生活は、偽りの快楽に過ぎない。”(クルアーン3:185)
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