神への信仰(パート 1/3)
説明: 神への信仰と崇拝、そして人が神を探求する手段。
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- 掲載日時 05 Dec 2009
- 編集日時 08 Dec 2013
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序文
神への信仰は、イスラームの心臓部にあたります。
イスラーム教義の核とは、「ラー・イラーハ・イッラッラー(アッラー以外には真実の神は存在しない)」 という証言です。この信仰証言はタウヒードと呼ばれ、イスラームの全ての教えがそこを巡って回転する中心軸であるといえます。またこれはムスリム(イスラーム教徒)になるための二つある証言の内の一つです。唯一性、すなわちタウヒードを認識したあとの努力こそが、イスラーム的人生の中核を担うといえるでしょう。
どうやら多くの非ムスリムにとって、アラビア語で神を指す“アッラー”という単語は、遠く離れた地のアラブ人が信仰する未知なる神を連想させるようです。またある者などは、それが多神教の“月の神”であると誤解さえしています。しかしアラビア語でアッラーは、唯一なる真実の神を意味しているのです。アラビア語を話すユダヤ教徒やキリスト教徒も同様に、最高の存在である神をアッラーと呼んでいます。
神の探求
西洋の哲学者や東洋の神秘主義者、また現代の科学者たちは、各々の方法で神を探し求めます。ある種の神秘主義者は霊的な経験をすることにより神を発見することが出来、神は世界の一部、つまり彼自身の創造の中に潜んでいると主張します。また一部の哲学者たちは純粋な論理から神を見出そうとし、たびたび神は創造に無関心かつ冷徹な“時計職人”であるとします。また別の哲学者たちは、人には神の存在を証明することも反証することも不可能だとする不可知論を主張します。実際問題として不可知論者は、神を直に知覚出来なければ信念を持つことは出来ないと主張しますが、神は仰せられています:
“知識のない者たちは、「アッラーは、何故私たちに話しかけられず、またみしるしを下されないのだろう。」と言う。以前にもかれらのように言う者がいた。かれらの心は同じようなものである。”(クルアーン 2:118)
そう、この議論は目新しいものではありません。人々は過去も現在も同じ異議を唱え続けているのです。
イスラームの教えでは、神を求める正しい方法は本来の形で保存された預言者の教えによらなければならないとします。またイスラームは、神自身により諸預言者が遣わされたのは、かれが人類を常にかれ自身へと導くためであったのであると主張します。神は聖クルアーンにおいて、信仰への正しい道とは神のみしるしを熟考することであると仰せられています:
“しっかりした信仰を持つ人びとには、われは種々のみしるしを既に明示している。”(クルアーン 2:118)
クルアーンでは啓示の軌跡として、神の創造に度々言及されます。自然界の驚異を啓かれた目と心で見ることの出来る人は、誰しもそこから創造主のみしるしを発見することが出来るのです。
“言ってやるがいい。「地上を旅して観察せよ。かれが如何に、最初の創造をなされたかを。やがてアッラーは、最後の(甦りの)創造をなされる。本当にアッラーは全てのことに全能であられる。」”(クルアーン29:20)
また神の創造は、個々人の内部にも秘められています。
“地上には信心深い者たちへの種々の印があり、またあなた方自身の中にもある。それでもあなた方は見ようとしないのか。”(クルアーン51:20−21)
神への信仰(パート 2/3)
説明: この記事の説明:神の信仰における四事項の内の二つ‐すなわち神の存在、そして神の至高なる主権性に関する信仰‐の説明。
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イスラームにおける神への信仰は四事項から構成されています。
(一)神が存在するという信念
(二)神は至高なる主
(三)神のみが崇拝の対象
(四)神の最も美しい名前と性質
(一)神が存在するという信念
神の存在は、科学、数学、または哲学的証明を必要としません。神の存在は科学的手法や数学的な定理により証明される“発見”ではないのです。簡単に言ってしまえば、神の存在の証人となるには僅かな常識を備えているだけで十分なのです。船を目にすれば船の建造者の存在を知ることができるように、宇宙からもその創造者の存在を知ることが出来ます。また神の存在は、祈願の成就、諸預言者のもたらした奇跡、そして諸啓典の教えからも窺い知ることが出来ます。
イスラームにおいては、人類は天からのメッセージによって原罪を赦されるべき罪深い存在であるとは見なしません。そうではなく、私たちは神による先天的性質(アル=フィトラ)を依然として魂の奥底に有している存在であるとされています。人類は罪深い存在として生まれて来るのではなく、ただ忘却しやすい存在なのです。アッラーは仰せられています:
「われは、あなた方の主ではないか。」彼らは申し上げた。「はい、私たちは証言いたします。」(クルアーン 7:172)
この節で“彼ら”とされているのは、男女を含む全人類のことです。ここでの“はい”という返事は、現在の姿に創造される前の私たちによる、神の唯一性の肯定です。イスラームは、この“はい”という返事がいまだ人の魂の奥底に響き続けているという教義を掲げています。イスラームへの呼びかけは、この“はい”という返事をした、まだ地球に存在する前のこの原始的性質に対して向けられたのです。この宇宙の創造者が存在することの証明は、イスラームにおいて本能的なものであり、証明を必要とはしません。宗教における脳神経学者の先駆者であるペンシルバニア大学のアンドリュー・ニューバーグ、そしてユージーン・ダギリといった科学者たちは、その著書の中で“我々は神とつながっている”と主張しています[1]。
聖クルアーンは修辞的手法を用いてこう問いかけます:
“あなた方は天と地を創造された方、アッラーに就いて疑いがあるのか?”(クルアーン14:10)
ある人は尋ねるでしょう。“もし神への信仰が天性のものであれば、なぜ人々には信仰が欠如しているのでしょうか?”答えは単純です。全ての人間には創造主への先天的な信仰が潜在していますが、この信念は学習、または演繹的思考の結果ではありません。外部の影響が時間の経過と共にこの先天的信念に働きかけ、その人物を混乱させるのです。こうして人の環境と教育が、この根源的性質から真実を覆い隠すのです。預言者ムハンマド(彼に神の称賛あれ)は言いました。
“全ての子はフィトラ(先天的な神への信仰)に基づいた状態で誕生するが、彼の両親が彼をユダヤ教徒やキリスト教徒やゾロアスター教徒へと変えてしまうのだ。”(サヒーフ・ムスリム)
そしてこれらの覆いは人間が精神的危機に直面した時や、救いがたい状況や自分の弱さを感じるような状態に置かれた時にたびたび取り除かれるのです。
(二)神は至高なる主であるということ
神は天地の主です。神は物理的な全宇宙の主であり人類への立法者です。かれは自然界の長、人類の諸事の支配者であり、あらゆる老若男女の主です。歴史的に見ると、主の存在を否定したのはごく僅かな者だけでした。つまり大半の人々は人間の歴史を通じて、至高の存在、超自然的創造者である唯一の神を信じて来たということです。なお神が主であるということは以下の意味を含んでいます。
第一に、神は物理的世界の唯一の支配者だということです。「主」とは、かれが天地の王国の創造者、支配者、そして所有者であるということを示しています。天地にある全てのものは独占的にかれに属しているのです。またかれは無から存在をもたらし、全ての存在の維持と存続においてかれにのみ依存しているのです。かれは宇宙を創造し、不変の掟によりそれが自ら存続出来るように放置した訳ではありません。生ける神の力は全ての創造物の維持のため、あらゆる瞬間に必要とされているのです。創造物はかれ以外に主を有しません。
“(ムハンマドよ)言ってやるがいい。「天と地から、あなた方に用度を供給するのは誰か。聴覚や視覚を司るのは誰か。また死んだ物から生命を齎し、生から死を齎せられるのは誰か。また全ての事物を規制統御するのは誰であるのか。」彼らは必ずや「アッラー」と言おう。言ってやるがいい。「何故あなた方は、主を畏れないのか。”(クルアーン10:31)
かれはこの上ない叡智に溢れた永遠の王、救世主であり、慈愛深き神なのです。誰もかれの決定を覆すことは出来ません。天使も、預言者も、人類も、そして動植物の王国でさえもかれの支配下にあるのです。
第二に、神は人類の諸事における唯一の支配者です。神は至高なる立法者[2]、絶対なる審判者、そして制定者であり、かれこそが正誤の判断を下されるお方なのです。そして物質世界が主に服従するのと同じように、人類も善と悪を分け隔てる主の宗教的・倫理的な教えに従わなければなりません。言い換えれば神のみが法を制定し、崇拝の方法を定め、道徳を決定し、人類の相互関係と行動の基準を設定する権利を有するのです。かれによる命令こそが真の命令なのです:
“かれこそは創造し統御される御方ではないか。万有の主アッラーに祝福あれ。”(クルアーン7:54)
神への信仰(パート 3/3)
説明: 神への信仰における残り二事項についての説明。神のみが崇拝の対象とされること、そして神の美名と属性によりかれを知ること。
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- 掲載日時 05 Dec 2009
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(三)神のみが崇拝の対象であるということ
イスラームでは、神の存在を複雑難解な神学によって証明するのではなく、神への信仰がいかにして良い道徳観と正しく従順な人生をもたらしてくれるかを強調します。それゆえイスラームのモットーとは、神の存在の証明よりはむしろ、諸預言者によって説かれたメッセージである神の意思への服従や崇拝行為といった面に置かれているのです:
“(ムハンマドよ)あなた以前にも、われが遣わした使徒には、等しく、「われの外に神はない、だからわれに仕えよ。」と啓示した。”(クルアーン21:25)
神のみにこそ、人々の心身による内面的かつ外面的な崇拝行為を受ける権利があるのです。そして何ものもかれをさしおいて崇拝されることが許されないだけでなく、何ものもかれと並べて崇拝されてはなりません。神には同位者や協力者がいないのです。包括的な意味での崇拝行為とは、あらゆる側面において神のみに対して行なわれなければなりません。
“あなた方の神は唯一の神(アッラー)である。かれの他に神はなく、かれは慈悲あまねく慈愛深き方である。”(クルアーン2:163)
神の崇拝される権利については、誇張してもし過ぎることはありません。というのも、これこそがイスラームにおける信仰証言である、「ラー・イラーハ・イッラッラー」の本質的意味であるからです。人は、神の崇拝権利を証言することによってムスリムとなります。これはイスラームにおける神への信仰の最も重要な点であり、神により遣わされた全ての預言者の主要なメッセージでした。それはすなわちアブラハム、イサク、イスマエル、モーゼ、ヘブライの諸預言者、イエス、そしてムハンマド(彼らに神の平安あれ)のメッセージです。例えばモーゼはこのように宣言しています:
“聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。”(申命記 6:4)
イエスはこの1500年後、同じメッセージを繰り返したのです:
“第一のいましめはこれである、「イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。」”(マルコによる福音書 12:29)
イエスは悪魔に言いました:
“サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてあるのだから。”(マタイによる福音書 4:10)
そしてイエスの約600年後、ムハンマドの呼びかけはメッカの丘々に響き渡りました:
“あなた方の神は唯一の神(アッラー)である。かれの他に神はなく、かれは慈悲あまねく慈愛深き方である。”(クルアーン 2:163)
そして彼ら預言者と使徒は皆、明確にこう宣言しています:
“アッラーに仕えなさい。あなた方にはかれの他に神はないのである。”(クルアーン 7:59、65、73、85;11:50、61、84;23:23)
崇拝行為とは何か?
イスラームにおける崇拝行為とは、アッラーが認め愛されるところのあらゆる行為、信念、言明、感情などから成り立ちます。それらはすなわち、人を創造主へと近づける全てのものです。そしてそこには日々の礼拝、断食、喜捨、巡礼などの‘外面的’崇拝、そして信仰六か条の信仰、敬意、崇敬、愛、感謝の念、そして信頼などの‘内面的’崇拝も含まれます。神は心と体、そして魂によって崇拝されるべきで、重要な四つの要素‐恭しい神への畏れ、神への愛情と崇敬、神からの報奨への期待、そして強い謙遜の念‐を欠けば、それは不完全とされます。
最も大きな崇拝行為の一つは礼拝であり、聖なる存在である神の援助を乞うことです。イスラームは、礼拝が神のみへと向けられるべきであることを明確にしました。全ての人間の運命を完全に管理し、人々の要求を満たし苦悩を取り除くことが出来るのは神だけなのです。イスラームにおいては、神が礼拝を受ける権利を保持します。
“またアッラーを差し置いて、あなたを益せずまた損いもしないものに祈ってはならない。もしそのようなことをするならば、あなたは本当に不義者の仲間である。”(クルアーン10:106)
預言者、天使、イエス、マリア、偶像、もしくは自然界など、その対象がいかなるものであれ、礼拝などの神のみへと向けられるべき崇拝行為をかれ以外の者に向ける行為はシルクと呼ばれ、イスラームにおける最も重い罪とされます。シルクは創造の目的を根本から否定し、そこから悔悟しない限りは絶対に赦されない罪なのです。
(四)神の美名と属性
神はイスラームにおいて、その数々の美名と性質で知られています。それはそれらが本来の明白な意味の改ざんや否定、あるいは具現化や擬人化などを見ないまま、イスラームの原典の中に啓示が下されたその時のままの形で残っているためです。
“最も美しい全ての御名はアッラーに属する。それでこれら(の御名)で、かれを呼びなさい。”【クルアーン 7:180】
それゆえ神を呼ぶ際、根本的原因、作者、実質、絶対自我、絶対者、純粋観念、論理的観念、未知者、無意識者、自我、観念、大男などの名をあてがうべきではないのです。それは神がご自身をそのように描写しておらず、単純に言って美しさに欠けるからです。神の美名の数々は、神の荘厳なる美しさと完璧さを表しています。神は不正をせず、子や親や兄弟、仲間や助手などを有しません。神は生まれたのでもなく、生みもしません。また神は完全であるため、いかなる助けも必要としません。そして神は私たちの苦難を“理解”するために人間になったりもしません。神は全能者(アル=カウィー)であり、比類無き者(アル=アハド)であり、悔悟を受け入れる者(アッ=タウワーブ)であり、慈悲あまねく者(アッ=ラフマーン)であり、不滅者(アル=ハイユ)であり、自存者(アル=カイユーム)であり、全知者(アル=アリーム)であり、全聴者(アッ=サミーウ)であり、全視者(アル=バスィール)であり、容赦する者(アル=アフーウ)であり、援助者(アン=ナスィール)であり、治癒する者(アッ=シャーフィー)なのです。
最も頻繁に用いられている美名としては、“慈悲あまねく者”、“慈愛深き者”などがあります。そしてクルアーンの全ての章は唯一つの章を除き、次の言い回しによって始まるのです。
“慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名において。”
この言い回しはムスリム(イスラーム教徒)によって、キリスト教徒の祈願で聞かれるような、「父と子と聖霊の御名によって」という言い回しよりも頻繁に使用されています。ムスリムは飲食を始め、生活のあらゆる場面でいかなる事を始めるにあたっても神の名において開始し、神のご慈悲とお情けを思い起こしているのです。
また“赦し”とは、人と神との関係において多大なる重要性を持っています。人間は弱い存在であり罪を犯さずにはいられませんが、神はその深いご慈悲によって快くお赦しになるのです。預言者ムハンマドはこう言われています:
“神の慈悲は、かれの怒りに勝るのです。”(サヒーフ・ブハーリー)
ゆえに“慈悲あまねき者”や“慈愛深き者”と並んで“赦す者”(アル=ガフール)、“よく赦す者”(アル=ガッファール)、“悔悟を受け入れる者”(アッ=タウワーブ)、そして“容赦する者”(アル=アフーウ)などの美名もまた、ムスリムの礼拝中に最も頻繁に使用される御名の中に含まれてるのです。
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