来世への信仰
説明: 来世を信じることの重要性、墓の下で待ち受ける試練、審判の日、そして終末の時について。
- より IslamReligion.com
- 掲載日時 05 Dec 2009
- 編集日時 05 Dec 2009
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人は誰でも死ぬのが怖いものです。その先に何があるのか分からず、予測もつかないのはとても恐ろしいことには違いありません。イスラームは、来世で何が起こるか、また何が待ち受けるかということを最も鮮明に描写する宗教です。イスラームは死というものを、人間という存在にとっての次の段階への自然な入り口であると見なしています。
イスラームの教義では、人間はその肉体の死後も霊的、かつ物理的な復活をすることにより存在し続けると主張します。そして現世での行いは来世の行き先と密接な関係を持ちます。来世では現世での自らの所業に応じて、褒美か懲罰のどちらかが与えられるのです。神はその日最初のものから最後のものまでの全ての創造物を蘇らせて召集し、その全てを公正に裁くのです。そして人々は最後の住処である楽園もしくは火獄に振り分けられます。私たちはこの世で篤心な人々が苦しみ、不信心な人々が楽しむのを見ますが、やがて全ての人々は公正に裁かれ、最終的には正義がもたらされるのです。
来世への信仰はイスラームの信仰六か条の一つであり、ムスリムの信仰を完全なものとするためには欠かせません。それら六か条の内の一つでも拒否すれば、例え他の五つを信じていても意味を成さないのです。子供が火の中に手を入れないのはなぜでしょうか?火傷することを知っているからです。しかしその子が宿題をする際に面倒くさいと感じるのは、それが将来的に何をもたらすかを完全に理解していないからです。では審判の日を信じない男についてはどうでしょうか?彼は神への信仰とそれに基づいた人生の重要性を熟慮しているでしょうか?彼のような人物にとって、神への服従は無益なのであり、不服従は無害なのです。一帯このような者に、神を意識した生活を送ることが可能でしょうか?彼が人生の試練に耐え、世俗的な快楽に耽ることを回避する動機とは何でしょうか?そして例え彼が神への信仰を持っていたとしても、神が示した道に従わないのであれば、その信仰自体には何の意味があるのでしょうか?来世への信仰に対する受容と拒否は、個人の人生の行方を左右する最も重大な要因の一つであると言えるかもしれません。
イスラームの教義において死者は墓の中においてもまだ意識を持ち、その存在を続けています。ムスリムは人の死後、死と復活の中間状態に入ることを信じます。この“新しい世界”では、全ての人間が天使によって現世における彼の宗教、彼の預言者、そして彼の主に関する質問を受けることや、また“墓場の試練”など、多くの出来事が起こります。墓地は人によっては天国の庭園、もしくは火獄の穴となり得ます。慈悲の諸天使は信仰者の魂を訪れ、懲罰の諸天使は不信仰者を訪れます。
そして終末の後には復活がもたらされます。神は大天使に対してラッパを吹くよう命じ、そのひと吹き目によって神が望む者以外の全ての者は意識を失い、山々は粉塵と化して破壊され、地上は平らになり、空は裂け、宇宙の諸惑星は散乱し、墓地は覆されます。
人々は元々の肉体のままで墓地から復活させられ、それによって生命の三番目である最終段階に入ります。そしてラッパが再び吹かれると人々は復活し、墓地から立ち上がるのです。
神は信仰者、不信仰者に関わらず、人類、ジン、悪魔、更には動物まで全て召集されます。それは万物の集いとなります。諸天使は、全人類を裸で割礼していない状態でその大いなる集いへと召集します。人々は審判の時を待って立ち尽くし、余りの苦しさにより汗が流れ出ますが、篤心の人々は神の至大なる玉座の陰に匿われてその保護を受けます。
そして人々にとってその場の苦悩が堪え難い程度にまでなると、彼らは預言者や使徒に対して彼らの苦悩をどうにかしてもらえるよう、彼らの代わりに神の執り成しを要求します。
そしてそこには天秤が置かれ、人々の所業が秤にかけられます。そこでは現世で行った所業の記録が明らかにされます。それらの記録を右手に渡される者は善い清算を受けたのであり、喜々として家族のもとに戻るでしょう。しかしその記録を左手に渡される者は火獄へと投げ込まれ、永久に死んだ方がましだと思うでしょう。彼は後悔の念に苛まれ、その記録を受けないで済んだのならよかったのに、それを知らないままでいればよかったのに、と悔やむのです。
そして神は、かれの創造に対する審判を下します。全創造は彼らの善行と罪を知らされます。信仰深い人々は彼ら自身の過失を認め、赦されます。信仰のない人々はそもそも現世において報われていたがために、何も善行が残っていません。一部の学者たちは、もし信仰なき人々に善行が残っている場合、最も大きな罪である不信仰に対する罰以外の懲罰が軽減されるという見解を持っています。
そして火獄の上には、スィラートと呼ばれる楽園へ続く橋が架けられます。神の宗教に確固たる信念を持っていた人々は、その橋を容易に渡ることが出来ます。
楽園と火獄は、正しい人々、そして呪われた人々が最後の審判の後に居住する最終的な住処となります。そこは真実の場であり、未来永劫に続くのです。楽園の人々の祝福、そして火獄に落された不信仰者の懲罰は決して絶えることがありません。他の宗教に見られるような合格・不合格システムとは違い、イスラームの観点はより複雑であり、かつより高尚である、神による正義を唱えます。これは次の二つの点によって理解することが出来ます:第一は、一部の不信仰たちの悔悟を怠った大罪による火獄の苦しみであり、第二は楽園と火獄の双方に段階が存在する事実です。
楽園は物理的快楽と精神的喜びに満ち溢れた永久なる園であり、そこにはいかなる苦痛も存在せず、肉体的要求は全て満たされ、あらゆる望みがかなえられます。そこには宮殿、召使い、富、ワインや乳、蜜の川、芳しい香り、心地良い声、親密な配偶者たちなどがもたらされます。人は決して退屈にならず、飽きを感じることもないのです。
しかしその中でも最大の祝福は、不信仰者には決してその機会が巡ってこない、主との面会です。
火獄とは不信仰者のための悲惨な懲罰の場であり、罪深い信仰者の浄化の場でもあります。拷問と懲罰は肉体と魂への堪え難い苦痛であり、そこでは燃えさかる獄火で焼かれ、煮えたぎる熱湯と食料を口に詰め込まされ、鎖で縛り付けられ、火柱によって閉じ込められます。不信仰者は永久にその中に留まりますが、罪深い信仰者はいずれ火獄から救い出されて楽園へ入れられます。
楽園とは神のみを崇拝し、諸使徒を信じて従い、啓典の教えに沿った道徳的な人生を送った人々のためのものです。
一方火獄とは神を拒否し、神以外のものを崇拝し、諸使徒の呼びかけを拒絶し、罪深い、悔悟なき生活を送った人々の最終的な住処なのです。
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