イスラームにおけるイエス(1/3)
- より M.Abdulsalam(IslamReligion.com)
- 掲載日時 06 Dec 2009
- 編集日時 05 Aug 2024
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イスラームのイエスに対する見解は、両極端の中間に位置します。イエスを預言者と見なすことを拒否するユダヤ人は彼を詐欺師と呼び、他方キリスト教徒は彼を神の子と見なして崇拝します。このような中イスラームは彼をノア、アブラハム、モーゼ、ムハンマド(彼らに神の称賛あれ)と共に最も偉大かつ忍耐強かった人物の一人であるとし、同時にメシアであるととらえています。これはイスラームにおける神の唯一性と神の導きの唯一性、そして神の諸使徒による連続的使命における補足的役割の概念と一致するものです。
神の人類への教えとは、神のみを崇拝し、かれの示す道に従って生きることであり、それは最初にアダム(彼に平安あれ)に啓示され、それから彼の子孫に受け継がれていきました。ノア、アブラハム、モーゼ、イエス、そして最終的にムハンマドに対して連続的に下された啓示は、その教えと一致するものです。従ってイスラームは、啓示宗教間に存在する矛盾点は人為的に導入された要素が原因であると見なしています。これは三大啓示宗教であるユダヤ教、キリスト教、そしてイスラームにおけるイエスの位置づけの問題に関しても例外ではありません。
クルアーンはイエスの物語を仔細に渡って描写してはいませんが、彼の誕生や使命、昇天などの重要な場面を強調しています。またキリスト教、そしてユダヤ教の彼に対する見解に対して批判します。それでは神がクルアーンで啓示した、イエスに関する真実の一片を見ていきましょう。
処女懐胎
キリスト教徒同様、ムスリムはマリア(アラビア語ではマルヤム)が純潔な処女であり、奇跡の処女懐胎によってイエスを生んだと信じています。イエスには父がいないことにより、その誕生自体が奇跡だったのです。神はクルアーンの中で、彼の誕生について次のように述べています:
“またこの啓典の中で、マリア(の物語)を述べよ。彼女が家族から離れて東の場に引き籠った時、彼女は彼らから(身をさえぎる)幕を垂れた。その時われはわが聖霊(ガブリエル)を遣わした。かれは1人の立派な人間の姿で彼女の前に現われた。彼女は言った。「あなた(ガブリエル)に対して慈悲深き御方の御加護を祈ります。もしあなたが、主を畏れておられるならば(私に近寄らないで下さい)。」かれは言った。「私は、あなたの主から遣わされた使徒に過ぎない。清純な息子をあなたに授ける(知らせの)ために。」彼女は言った。「未だかつて、誰も私に触れてはいません。また私は不貞でもありません。どうして私に息子がありましょう。」かれ(天使)は言った。「そうであろう。(だが)あなたの主は仰せられる。『それはわれにとっては容易なことである。それでかれ(息子)を人々への印となし、またわれからの慈悲とするためである。(これは既に)アッラーの御命令があったことである。』”(クルアーン19:16−21)
しかしながらこの事実は、イエスが本質的または精神的に神性であること、そして崇拝に値することにはなりません。というのもアダムの存在はイエスよりも奇跡的であり、もしも奇跡的誕生がイエスを神の具現、または神の子であるとするのなら、アダムはイエスよりも神性が強いことになります。しかし両者は全能なる神によって啓示を授けられた預言者であり、両者とも神の戒律に従って生きた、忠実なしもべだったのです。
“イエスはアッラーの御許では、丁度アダムと同じである。かれが泥でかれ(アダム)を創られ、それに「有れ。」と仰せになるとかれは(人間として)存在した。”(クルアーン3:59)
奇跡の数々
ムスリムはキリスト教徒と同様に、イエスが数々の奇跡を起こしたと信じます。これらの奇跡は、あらゆる諸事を司る全能なる神のご意志とお許しによって行なわれました。
“アッラーがこう仰せられた時を思い起せ。「マリアの子イエスよ、あなたとあなたの母が与えられた、われの恩恵を念じなさい。われは聖霊によってあなたを強め、揺り籠の中でも、成人してからも人々に語らせるようにした。またわれは啓典と英知と律法と福音をあなたに教えた。またあなたはわれの許しの許に、泥で鳥を形作り、われの許しの許に、これに息吹して鳥とした。あなたはまたわれの許しの許に、生まれつきの盲人と癩患者を癒した。またあなたはわれの許しの許に、死者を甦らせた。またわれはあなたが明証をもってイスラエルの子孫の許に赴いた時、彼らの手を押えて守ってやった。彼らの中の不信心な者は、『これは明らかに魔術に過ぎない。』と言った。”(クルアーン5:110)
神は全ての預言者に、それぞれの民族や国家に対して特定の奇跡を起こさせることにより、彼らの教えが人々に対して明確な真実となるようにしました。これらの奇跡は彼ら自身が望んで起こしたのではなく、神の意思によって彼らの手に託されただけなのです。イエスによって行なわれた奇跡も例外ではありません。当時のユダヤ人は医学に長けていました。イエスの奇跡が彼らの得意分野で起こされたのは(代表的なものとして死者の蘇生など)、それにより彼の教えが真実であることを証明し、人々を確信させるためだったのです。
イスラームにおけるイエス(2/3)
- より M. Abdulsalam (IslamReligion.com)
- 掲載日時 06 Dec 2009
- 編集日時 12 Dec 2009
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イエスの神性
ムスリムは、神は絶対的唯一者であり、人間が有するような限界や欲求を超越した至高者であると信じます。神に同位者はなく、あらゆるものの創造主であると同時に、それらの創造物からは完全にかけ離れている存在なのです。そして全ての崇拝行為はかれのみへと向けられなければなりません。
これはイエスを含む、全ての神の預言者がもたらした同一の教えです。イエスは一度も自身の神性の主張、そして自らが崇拝に値するなどと主張したことはありませんでした。また彼は自身が“神の子”である、または“三位一体”の一部であると発言したこともありません。ただ逸脱したユダヤ人に対して神のみを崇拝させ、彼らを戒律に従う真実の教えに回帰させるために遣わされた、神の忠実なしもべだったのです。イエスに関して言及するクルアーンの節々の大半も、こういった見解を示しています。そしてそれらの節々は、人々が彼に対して捏造した虚偽をもとに、崇拝の対象とされてしまったという事実を明確にします。それらはイエス自身が、自らが崇拝に値するという権利をはっきりと否定した彼の人生を記述し、また神が提示した例えが彼の不死性や神性、そして神の御子であることを否定しているという見解を支持しているのです。神はクルアーンの中で、イエスに関してこう述べています:
“「神こそは、マリアの子キリストである。」と言う者は、確かに不信心者である。しかもキリストは言ったのである。「イスラエルの子孫よ、私の主であり、あなた方の主であられる神に仕えなさい。」”(クルアーン 5:72)
また神は、イエスが“三位一体”の一部であるという信仰に対してはこう述べています:
“「神は三(位)の一つである。」と言う者は、本当に不信心者である。唯―の神の他に神はないのである。もし彼らがその言葉を止めないなら、彼ら不信心者には、必ず痛ましい懲罰が下るであろう。彼らは何故、悔悟して神に返り、その御赦しを求めようとしないのか。誠に神は寛容にして慈悲深くあられる。マリアの子キリストは、一人の使徒に過ぎない。彼の以前にも使徒たちがあって、逝ったのである。彼の母は誠実な婦人であった。そして彼ら両人は食べ物を食べていた。見よ、われが如何に彼らに印を明示したかを。また見よ、如何に彼ら(不信者)が迷い去るかを。”(クルアーン 5:73−75)
また、次のようにも述べられています:
“啓典の民よ、宗教のことに就いて法を越えてはならない。また神に就いて真実以外を語ってはならない。マリアの子イエス・キリストは、只神の使徒である。マリアに授けられたかれの御言葉であり、かれからの霊である。だから神とその使徒たちを信じなさい。「三(位)」などと言ってはならない。止めなさい。それがあなた方のためになる。誠に神は唯―であられる。かれに讃えあれ。かれに、何で子があろう。天にあり、地にある全てのものは、神に属する。神は管理者として万全であられる。”(クルアーン 4:171)
そして神は、かれを冒涜するそのような信仰を、大罪と見なします:
“また彼らは言う。「慈悲深き御方(神)は子を設けられる。」確かにあなた方は、酷いことを言うものである。天は裂けようとし、地は割れて切々になり、山々は崩れ落ちよう。それは彼らが、慈悲深き御方に対し、(ありもしない)子の名を(執り成すものとして)唱えたためである。子を設けられることは、慈悲深き御方にはありえない。天と地において、慈悲深き御方のしもべとして、罷り出ない者は唯の1人もないのである。”(クルアーン 19:88−93)
イエスは審判の日に、この虚偽の主張が間違っていることを自ら証言するでしょう。神は彼に、なぜ人々が彼を崇拝したのかと質問します。そして神はその受け答えの一部を、次のように明らかにしています:
“また神がこのように仰せられる時を思え。「マリアの子イエスよ、あなたは『神の他に、私と私の母とを2柱の神とせよ。』と人々に告げたか。」彼は申し上げるだろう。「あなたに讃えあれ。私に権能のないことを、私は言ってはおりません。もし私がそれを言ったならば、必ずあなたは知っておられます。あなたは、私の心の中を知っておられます。だが私はあなたの御心の中は知りません。本当にあなたは全ての奥義を熟知なされています。私はあなたに命じられたこと以外は、決して彼らに告げません。『私の主であり、あなた方の主であられる神に仕えなさい。』…”(クルアーン 5:116−117)
これらの節々で、神はイエスを‘神の子’、または‘三位一体の一部’として崇めることは、深刻で重大な冒涜であると宣言しています。というのも神は唯一無二であり、本質的にその創造物とはかけ離れており、そして独自の神性と性質、そして主権を有しているからです。これら全ては神が諸啓典において啓示した厳格な一神教の教えであり、それは十戒の中にも認めることが出来ます:
“それから神はこれらの言葉を、ことごとく告げて仰せられた。「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。あなたには、わたしの他に、他の神々があってはならない。”(出エジプト記 20:1−3)
神に子供を配することは、かれが創造し、諸預言者を遣わせた原則に相反します。神はクルアーンの中でこう述べられました:
“ジンと人間を創ったのはわれに仕えさせるため。”(クルアーン 51:56)
また、かれは述べられました:
“本当にわれは、各々の民に一人の使徒を遣わして「アッラーに仕え、邪神を避けなさい。」と(命じた)。”(クルアーン 16:36)
イエスの使命
前述したように、クルアーンはイエスが預言者であり、それ以上の存在ではないという事実を明確にしています。諸預言者が創造物の中において最良の地位を占めており、神が啓示を下すために選び抜いた者たちであることに問題はないのですが、その一方で彼らは神の使徒に過ぎず、崇拝を受けるには値しないのです。クルアーンで述べられているように、イエスもその例外ではありません。
尚イエスはクルアーンの中では終始、モーゼと他の諸預言者の教えから逸脱したユダヤ人に遣わされた神の預言者という描写をされています。
“マリアの子イエスが、こう言った時を思い起せ。「イスラエルの子孫たちよ、本当に私は、あなた方に(遣わされた)神の使徒で、私より以前に、(下されている)律法(トーラー)を確証し、また私の後に来る使徒の吉報を与える。」”(クルアーン 61:6)
マリアの子、イエス・キリストは一連のユダヤ人に遣わされた諸預言者の最後の者でした。彼はモーゼの律法であるトーラーの教えに従って生き、同じことを彼の弟子たちに説きました。マタイの福音書5:17−18において、イエスはこのように語っています:
“私が来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためではなく、成就するために来たのです。あなた方に告げます。まことに、天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。”
この観点から、彼の教えは神のみへの崇拝と、かれの戒律を守るよう説いた過去の諸預言者のものと何の変わりもないことが分かります。神の奇跡によって支えられた彼の受胎、誕生、幼少期、そしてその生涯においてもたらされた様々な奇跡などによって、彼は神の預言者であることを証明されました。しかし、ユダヤ人の大半は、彼の預言者性を否定しました。
またイエスは彼以前に啓示された諸啓典の存在を確証しただけでなく、彼の後に現れるもう一人の預言者についても予告をしました。神はこう述べています:
“マリアの子イエスが、こう言った時を思い起せ。「イスラエルの子孫たちよ、本当に私は、あなた方に(遣わされた)神の使徒で、私より以前に、(下されている)律法を確証し、また私の後に来る使徒の吉報を与える。その名前は、アハマドである。」だが彼が明証をもって現れた時、彼らは「これは明らかに魔術である。」と言った。”(クルアーン 61:6)
この事実は新約聖書でも言及されています。そして綿密な研究により、イエス(彼に平安あれ)自身もその預言者について述べていたことが明らかになっているのです:
“私は父にお願いします。そうすれば、父はもう一人の助け主をあなた方にお与えになります。その助け主がいつまでもあなた方と、ともにおられるためにです。” (ヨハネの福音書 14:16−17)
イスラームにおけるイエス(3/3)
- より M. Abdulsalam (IslamReligion.com)
- 掲載日時 06 Dec 2009
- 編集日時 12 Dec 2009
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イエスのはりつけ
神はクルアーンの中で、イエスの十字架へのはりつけが事実ではなかったことを明らかにしています。実際はユダヤ人がそう思い込んだだけなのであり、神はイエスを天に召されているのです。しかしながらイエス(彼に神の称賛あれ)の身代わりになった人物は、明確にされていません。
“彼らが彼(イエス)を殺したのでもなく、また彼を十字架にかけたのでもない。只彼らにそう見えたまでである。”(クルアーン4:157)
“神は彼を、御側に召されたのである。神は偉力ならびなく英明であられる。”(クルアーン4:158)
このようにイスラームはイエスの地上に現れた目的が、自らを犠牲にすることによってアダムとイブを初めとする全人類の罪を贖い、人類をその重荷から解放することであるという間違った概念を否定します。イスラームでは、誰かが誰かの罪を背負うという概念を厳しく排除されています。神はこう述べています:
“重荷を負う者は、他の者の重荷を負うことは出来ない。”(クルアーン36:7)
またイスラームは神の全能性とその慈悲深さゆえ、人が心から悔い改め、二度と同じ罪を繰り返さないと誓えば、あらゆる罪が赦されることを強調しています。神はそのための血の犠牲を必要ともしなければ、自ら人の形で降臨し人類の罪のために死ぬようなこともありません。神の慈悲は信仰者、不信仰者に関わらず全創造に及ぶのです。そして慈悲の扉は、それを求める全ての人々に開かれています。
イエスの再臨
キリスト教徒と同じように、ムスリムもイエス・キリストの地上での再臨を信じますが、彼の役割と再来の理由についてはキリスト教と異なります。彼が地上に戻って来る理由とは第一に、彼が人間であることの証明であり、また人々が持っている彼への間違った信仰を正すためです。彼はいわゆる人間的な人生を送り、結婚し、また普通の人間がそうであるように、やがて死ぬのです。その時点で彼に関する事実は明確となり、全ての人々は彼が人間であることに確信を持つでしょう。
“啓典の民の中、彼の死ぬ前にしっかり彼を信じる者は一人もいなかった。審判の日において、彼は彼らにとって(不利な)証人となろう。”(クルアーン4:159)
またイエスは、彼の再臨の直前に現れ、自分自身を神とする信仰へと人々に呼びかける偽キリストと戦うとされています。イエスは偽キリストを破り、全人類は神の真実の宗教を受け入れます。世界は歴史上類を見ない、平和でのどかな時代を見ます。人々は皆同じ神を崇め、かれのみに仕え、お互いに手を取り合うのです。
結論
以上が、神がムハンマドに下した最後の啓示であるクルアーンにおいて語られている、イエスに関する真実のほんの一部です。神は唯一であり、一つの種族である人間を創造し、一つの教えを彼らに伝えました:それはつまり神への崇拝における服従、唯一の神の教えの追従―すなわちアラビア語でのイスラームです。その教えこそは地球の最初の人間に伝えられ、その後あらゆる時代に渡って全ての預言者たちが確証してきた教えなのです。
マリアの処女懐胎により誕生したイエス・キリストは数々の奇跡を行ない、イスラエルの民に対して彼以前の諸預言者と同様の教え、すなわち神への服従(イスラーム)を説きました。彼は神ではなく、‘神の子’でもありませんでしたが、メシアであり、偉大なる神の預言者の一人だったのです。イエスは人々に対し、彼自身を崇拝するようには命じませんでした。実際には彼自身が崇拝しているものと同じ神への崇拝を呼びかけたのです。また彼は預言者モーゼが説いたトーラーの律法を確証し、自身もその法に従った人生を生き、ユダヤ人たちが勝手に違法としたものを合法として正した後、弟子たちに対してもそれに忠実に従うよう指示しました。そしてイエスは昇天の前、彼の弟子たちに対して最後の預言者であるアラブ人ムハンマドについて予告し、彼の教えを認めるよう指示しているのです。
イエスの昇天から何世代も経った後、彼の教えは歪曲され、彼の存在は神の地位にまで高められてしまいました。しかしそれから6世紀が過ぎた後、預言者ムハンマドの登場によってイエス・キリストに関する真実は最終的に訂正され、そしてそれは最後の啓典であるクルアーンに永久保存されたのです。更にイエスが従っていたモーゼの律法の多くはその純粋で完全な形を保ったまま復活し、イスラーム―すなわち神によって定められた生き方―として施行されたのです。同時にそれ以前の諸預言者からもたらされた法は、緩和されたり廃止されたりしました。
従って諸預言者の真実性と彼らの説いた同一の教え、更に彼らが従った生き方は、神が人に定めた唯一の宗教であるイスラームによってのみ維持され、かつ見出すことが出来るのです。そしてそれは現在、ムスリムだけがイエスと彼の真実の教えに従っているという事実を浮き彫りにします。ムスリムはイエスが実践した生き方において、今日のキリスト教徒が実践している生き方よりもより忠実に追従していると言うことが出来ます。またイエス・キリストへの敬愛はイスラームにおける信仰箇条の一つに数えられており、また神はクルアーンのあちこちに登場するイエスへの信念の重要性を強調しています。
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