西アフリカにおけるイスラームの広がり(2/3):マリ帝国とソンガイ帝国

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説明: サハラ以南の西アフリカ地域において、いかにイスラームが広まり、偉大な文明が築かれ、現地民を多神教から唯一神への崇拝へと導いたかについて。第二部:マリ帝国、ソンガイ帝国の歴史。

  • より A・ラフマーン・I・ドイ教授
  • 掲載日時 26 Dec 2011
  • 編集日時 26 Dec 2011
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マリ帝国におけるイスラーム

アル=バクリーによると、マリにおけるイスラームの影響は、その為政者がイスラームに改宗した15世紀にさかのぼります。マリ帝国はガーナ帝国の跡地から勃興しました。マリにおけるイスラームでは、二人の著名な人物がいます。スンジャータ(1230−1255)とマンサ・ムーサー(1312−1337)です。スンジャータはマリ帝国の創立者でしたが、イスラームの実践においては混合主義を採ったため、ムスリムとしての信仰は弱く、学者たちからも嫌悪されています。マンサ・ムーサーに関しては敬虔なムスリムで、マリ帝国における事実上の設計者であると見なされています。1255年になりスンジャータが死去すると、ガーナの旧従属国家だった多くの国々もマンサ・ムーサーの支配下に置かれるようになりました。彼の後には、マッカ巡礼を果たしたマンサ・ウリー(1255−1270)が登場しました。

マンサ(皇帝の意)・ムーサーは1312年に為政者となり、彼の名声はスーダン、北アフリカ、そしてヨーロッパにまで轟きました。マンサ・ムーサーは1312年から1337年まで国を治め、1324−1325年にはマッカへの巡礼(ハッジ)を行いました。彼は大勢のムスリム学者や建築家らを従えて帰国し、初の焼煉瓦建てのモスクを5軒造らせました。こうしてイスラームは、マンサ・ムーサーの時代に大きな後援を得たのです。多くの学者たちは、マンサ・ムーサーはイスラームへの愛着心を元に、自らの統治における様々な新しい発想を思いついたのであると合意しています。著名な旅行家であり学者でもあるイブン・バトゥータは、マンサ・スライマーンの統治時代(1341−1360)にマリを訪れており、マンサ・ムーサーによる政策の遺産である、マリの政治と経済発展についての卓越した記録を残しています。マンサ・ムーサーによる巡礼は、多くのムスリム商人や学者たちを魅了した、マリの多大な富と可能性を投影しているのです。これらのムスリム学者、商人たちは、マリの文化と経済の発展に大きく貢献しました。彼の統治期において、チュニジアとエジプトとの外交関係が確立し、マリは世界地図にその姿を現すこととなったのです。

ソンガイ帝国におけるイスラーム

およそ11世紀頃、支配層であるザー、もしくはディア族によってイスラームが受容されたのと同時に、イスラームはソンガイ帝国に広まりました。そこは、ガオとの盛んな交易により繁栄していた地域でした。13世紀になると、マリ帝国の支配下に置かれましたが、14世紀末には独立し、帝国はスンニーと改名されました。ソンガイの開拓地は拡大し、15世紀にはスンニー・アリーの支配の元、1464−1492年の間を統治し、西スーダンの主要な街はすべてソンガイ帝国の統治下となりました。イスラーム学問の重要都市であったトンブクトゥやジェンネは、1471−1476年の間、彼の支配下にありました。

スンニー・アリーは、イスラームを利用した名目上のみのムスリムでした。彼はムスリム学者たちを追放し、土着のカルト信仰や魔術を実践していたのです。著名な学者であるアル=マギッリーがスンニー・アリーを異教徒であると名指しすると、彼は懲罰を受けました。しかしながら、カルトや魔術の信仰はソンガイにおいて目新しいものではありませんでした。それらは18世紀に盛んになった信仰復興運動の時代まで西アフリカに存在していたのです。スンニー・アリーに関しては、礼拝や断食をしていたものの、土着信仰とイスラームの折衷を試みていたと言われています。学者たちは、それを単なる冒涜であると呼んでいました。

スンニー・アリーによる混合の試みは、当時イスラーム学問と文化の中心地だったトンブクトゥの権力者や学者たちによって異論が唱えられるようになりました。ベルベル人学者たちで有名なアジト族は、司法長官の職務を担っており、為政者たちに対する勇敢な反抗で知られていました。スンニー・アリーは生前、(1469年、1486年に)トンブクトゥの学者たちにとって不利な対策を採用していました。しかし彼の死と同時に状況は一変し、イスラームとムスリム学者たちは大勝利を収めました。軍の司令官だったムハンマド・トウリーが、スンニー・アリーの後継者だったスンニー・バロウに対し、公の場で自身のイスラーム信仰について明らかにするよう求めたのです。バロウがそれを拒むと、ムハンマド・トウリーはクーデターを起こして政権を奪い、アスキヤ王朝という自らの名を冠した新しい政権を樹立しました。スンニー・アリーはマリのスンジャータと不正の度合いが比較され、アスキヤ・ムハンマド・トウリーはマンサ・ムーサーとイスラームへの情熱において比較されます。

権力に就く際、彼はイスラーム法を確立し、大勢のムスリムたちに裁判官としての訓練を施しました。彼は学者たちに惜しみない援助をし、広大な土地を贈与しました。彼は有名な学者だったムハンマド・アル=マギッリーの親友となり、彼の支援によって著名なムスリム学者たちはトンブクトゥに惹きつけられ、そこが16世紀に学問の地となったのです。トンブクトゥは西アフリカにおける初のムスリム大学であるサンコレ大学を設立したことも知られています。その名は現在でもイバダン大学の職員居住区の通りの名前として残されています。

マリのマンサ・ムーサーのように、アスキア・ムハンマド・トウリーは巡礼に赴き、アラブ諸国のムスリム学者たちと懇切になりました。マッカでは国王による表敬を受け、ターバンを与えられました。彼は国王から、西スーダンにおけるカリフの称号と剣を贈呈され、1497年にマッカから帰国した際には、アル=ハーッジの尊称を得ました。

アスキアはイスラーム法の確立に力を注ぎ、彼の友人だったムハンマド・アル=マギッリーにイスラーム神学についての数々の質問をしました。アル=マギッリーは彼の質問への詳細な返答をし、それをアスキアはソンガイ帝国に広めたのです。それらの質問は、「真のムスリムとは誰のことか」、「異教徒とは誰のことか」などといった信仰における根本的なものでした。シェイフ・ウスマーン・ダン・フォディオの著作を読むと、アル=マギッリーを典拠とする議論が引用されているのが分かります。つまり、アスキヤ・ムハンマドによって提示された諸問題の、アル=マギッリーによる詳細な議論は、シェイフに多大なる影響を与えたということなのです。

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