預言者ムハンマド伝(1/12):預言者ムハンマド以前のアラビア半島の状況
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- 掲載日時 06 Dec 2009
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当時のアラビア半島には3つの影響力が存在していました。北部では(キリスト教の)東ローマ帝国と(ゾロアスター教の)ササン朝ペルシャの二大帝国が絶え間ない闘争に明け暮れつつも力の均衡を保っており、北部のアラブ人たちは時にはこちら、また時にはそちら、という風に流動的な盟約を結びつつ、分裂して暮らしていました。
一方南部では、その乳香と没薬の芳香によってローマ人たちに‘幸福のアラビア’と呼ばれていた土地(主に現在のイエメンとサウジアラビア南部)が広がり、その価値は非常に魅力的でした。エチオピアの統治者ネグスによるキリスト教への改宗は、彼の国と東ローマ帝国との同盟をもたらしました。6世紀初頭にエチオピア人がこの肥沃な地の所有権を手に入れたのも、東ローマ帝国による承認によるものです。南部の人々は無情な征服者による没落以前、アラビア半島中部の砂漠地帯を隊商貿易によって開拓しており、諸隊商のガイドと諸オアシスにおける交易所の開設の役目を果たしていたベドウィンたちの生活に秩序をもたらしていたのです。
これらの人々の象徴が乳香の木であれば、乾燥地帯のそれはナツメヤシの木でした。一方の手には贅沢品の香料があり、そしてもう一方の手には最低限必要な食料があっただけだったのです。南部のある詩人が‘鳥の歌声は聞こえず、草木が茂ることもない’と詠んだように、ヒジャーズ地方(アラビア半島西部)に魅力的な資源があるとは、誰一人として思いもしなかったことでした。こういった理由からヒジャーズの諸部族は侵略や征服を経験したことがなく、彼らは誰かを‘ご主人さま’と呼ぶよう強いられたこともありませんでした。
貧しさは彼らの保護者でしたが、彼らは自分たちを貧しいとは感じなかったでしょう。貧しさを感じるには裕福な者への嫉妬が必要ですが、彼らは誰をも嫉妬しませんでした。彼らの裕福さは自由、名誉、高貴な祖先、そして彼らが唯一知っていた芸術である詩の中にあったのです。私たちが現在口にする‘文化’とは、全てこの媒体に凝縮されていました。彼らの詩は勇気や自由を讃美し、友を称え敵を嘲り、部族仲間の勇敢さと女性の美しさを賞揚し、それらは焚き火の側、あるいは永遠に続くかのような広い砂漠と青い空の下で詠唱され、地上における不毛の地を永遠に旅する人々の偉大さを証言していたのです。
ベドウィンたちにとって、言葉は剣と同じような強さを持っていました。敵対関係にある二つの部族が戦闘において対峙する時は通常、双方が最も優れた詩人を選出して先陣に立たせ、自陣営の勇敢さと崇高さを称え、敵を中傷させるのです。そして最も優れた戦士同士の一騎打ちが主要であるこのような戦いは、私たちが今日理解する戦闘というよりも、名誉を獲得するための競技のようなものでした。どんちゃん騒ぎや自画自賛、ひけらかしなどの要素も加わり、近代的戦争よりもずっと犠牲者は少なくて済んだのです。それは戦利品の分配による著しい経済効果をもたらす役目も果たしました。また戦勝者が優位性を誇示することは、名誉の概念に反することでもありました。一方が敗戦を認めると、双方の戦死者が数えられ、勝利した部族側は事実上の賠償金を敗戦した部族側に支払うことによって部族間の相対的な力関係は健康的なバランスを保っていたのです。こういった様式と、文明化された戦争の差異には目を見張るものがあります。
しかしながらその当時のマッカは全く別の理由による重要性を持っており、それは現在も尚変わらず続いています。そこには人類が唯一の神を崇拝するために設立された最初の家であるカアバ神殿が建っているのです。古代のカアバ神殿は、この小さな世界の中心であり続けました。ソロモンがエルサレム神殿を建てる1000年以上も前、彼の先祖アブラハムは長男イシュマエルの助けを借りて、古代から存在した基礎の上に壁を建立したのです。有力部族クライシュ族の首領だったクサイイは、そこに定住しました。ここがマッカ(旧称バッカ)の街だったのです。カアバ神殿の側にはザムザムの泉が湧いており、その起源はアブラハムの時代にまで遡ります。この泉こそが子供だったイシュマエルの命を救ったのです。バイブルにはこう記されています:
“神は少年の声を聞かれ、神の使いは天からハガルを呼んで、言った:‘ハガルよ。どうしたのか。恐れてはいけない。神があそこにいる少年の声を聞かれたからだ。行ってあの少年を起こし、彼を力づけなさい。わたしはあの子を大いなる国民とするからだ。’神がハガルの目を開かれたので、彼女は井戸を見つけた。それで行って皮袋に水を満たし、少年に飲ませた。神が少年とともにおられたので、彼は成長し、荒野に住んで、弓を射る者となった。”(創世記 21:17−20)
または、詩編にはこうあります:
“彼らは乾いたバッカの谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。”(詩篇 84:6)
マッカの発展を促した当時の状況として、そこが大きな商業地であったことが挙げられます。ペルシャとローマの戦争は北方の東西交易路を閉ざしており、アラビア南部の影響力と繁栄はエチオピア人たちによって破壊されていました。更にマッカは、巡礼の中心地としての役割でその名声を高め、またクライシュ族はカアバの守護者として両方の利点を享受していたのです。当時、アブラハムの息子イシュマエルの末裔であるアラブ人としての彼らの高貴さ、更に富と精神的権威の両立は世界の他者のそれと比べられた時、太陽の輝きに対する星々のきらめきに例えられていました。
しかし、偉大なる諸預言者の時代からの長い時の流れと半島の不毛な砂漠地帯による隔離は、偶像崇拝の興隆を許してしまいました。彼らは諸々の神による最高神への執り成しを信じ、崇拝儀式によってそれらの神々が、彼らの祈りを最高神へ届けてくれる力を持つと信じていたのです。全ての地域と諸部族、そして実に全ての民家には彼らの小さな‘神々’がありました。アブラハムによって唯一、真実の神を崇拝する目的で建立されたカアバ神殿とその内部、及びその周辺には360体もの偶像が設置されていたのです。アラブ人たちが神への敬意を払ったのは偶像に対してのみには留まらず、あらゆる超自然的存在に対してもまた同様に向けられました。彼らの間には諸天使が神の娘たちであるという信仰や、飲酒や賭博が蔓延していました。更には女児殺し、新生女児の生き埋めは当時の一般的な慣行だったのです。
預言者ムハンマド伝(2/12):生誕から成人まで
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- 掲載日時 06 Dec 2009
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預言者の生誕
西暦570年、預言者ムハンマド(彼に神の慈悲と祝福あれ)は、現在のサウジアラビアの一都市であるマッカに誕生しました。彼の父親アブドッラーはマッカの創設者であるクサイイの曾々孫に当たり、クライシュ族のハーシム家に属していました。彼の母親アーミナは、クサイイの兄弟の子孫でした。アブドッラーはシリアとパレスチナからの隊商の帰途、マッカ北部のオアシスに住む親族の訪問中に病で倒れ、息子の誕生数ヶ月前に亡くなりました。
生まれた子供を数年間砂漠のベドウィン部族のもとに送り、乳母の元で幼年期を過ごさせることはクライシュ族の慣習でした。それは健康的に有益であっただけでなく、広大な砂漠の中での自由の享受と、彼らのルーツを体験させる意味合いも含まれていました。預言者ムハンマドはハリーマという女性の養育を受け、このベドウィン家族の元で4年間(他の伝承によると5年間)を過ごしました。彼は歩き始めて間もなく、羊飼いとして家畜の世話や砂漠での生き方を学び初めました。
彼が6歳になって母親の元に帰って来てから間もなく、彼女はムハンマドの父親が亡くなったヤスリブ(現在のマディーナ)の街へと彼を連れて行きました。しかし彼女自身もオアシスの伝染病にかかってしまい、その帰途で亡くなってしまいます。ムハンマドは彼の祖父であり、ハーシム家の長であったアブドル=ムッタリブの庇護を受けることになりました。そして彼が8歳の時にアブドル=ムッタリブも亡くなると、今度はハーシム家の新しい長となったアブー・ターリブが彼の庇護者となりました。預言者ムハンマドは羊飼いとして暮らし、10歳の時には商人としての技巧を学ぶべく、叔父とともにシリアへと隊商の旅に出ました。
彼は商人として働き始め、やがて評判を得るようになりました。マッカの富裕層の中の一人として、二人の夫を亡くしている未亡人ハディージャが居ましたが、彼女は今やアル=アミーン(正直者)として知られるようになったムハンマドの評判を耳にし、彼の人柄を見込んで彼女の商品をシリアへ運ぶ隊商の一員として雇用しました。そして彼の人格、そして能力に更なる感銘を受けたハディージャは、彼に結婚を申し込みました。当時ムハンマドは25歳、ハディージャは40歳でした。ハディージャはムハンマドに若い奴隷のザイドを贈りました。ムハンマドは彼を解放しましたが、ザイドの親族が彼を引き取りに来た際、彼はムハンマドに対する深い敬愛から彼の元に留まることを選びました。ムハンマドはハディージャとの間に6人の子をもうけ、その内唯一の男児だったカースィムは2歳になる前に夭折しました。
ムハンマドは尊敬された一資産家となり、寛大さと思慮深さにおいて称賛されていました。彼の将来は約束されていたかのように見えました。そのまま行けば彼によって部族の繁栄は再確立され、彼はマッカにおける影響力のある長老のひとりとなり、恐らくは彼の祖父がそうであったように、カアバ神殿の陰で横たわり、長い世俗的人生の思い出に浸りながら人生を終えたことでしょう。しかし彼の魂は満たされず、中年期に差し掛かるとその惑いはさらに増していったのです。
フナファー(誤った信仰を避け、純正な宗教を奉じる者たち)
マッカの住人たちはアブラハムの息子イシュマエルの子孫であり、彼らのカアバ神殿は唯一神の崇拝のため、アブラハムによって建てられたのであると主張していました。そこは神殿と呼ばれてはいましたが、崇拝の主な対象はその内部に収められた数々の偶像や、彼らが執り成してくれると信じていた神々の彫刻‐彼らはそれらを神の娘たちと見なしていました‐に取って代わられてしまったのです。この何世紀にも渡って続いた偶像崇拝を拒否した一部の人々は、アブラハムの宗教の再来を望んでいました。このような真実の追求者はフナファー(本来は偶像崇拝を“拒否する者たち”という意味)として知られており、彼らは集団を形成することはありませんでしたが、個々人の持つ内面的意識の光によって真実を求めていました。アブドッラーの息子ムハンマドも、そうした者たちの内の一人だったのです。
預言者ムハンマド伝(3/12):啓示の始まり
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- 掲載日時 06 Dec 2009
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預言者はこの時期から、心地よい正夢を見始めていました。また彼は俗世間から離れる必要性を感じ始め、マッカ郊外の岩山にある洞窟へ赴いては瞑想を行なっていました。彼は食料を持ち運んではそこに数日間留まり、その後家に戻っては食料を補給し、またそこへ戻ったのです。日中の灼熱、そして夜間の澄んだ空のなか、まるで目を貫くかのような星々の輝きに、彼の本質は宇宙の‘しるし’に満たされました。それは、それらの‘しるし’の内に既に内在する、啓示の仲介者としての適切な役割を果たすための準備期間だったのでしょう。つまりそれは預言者の務めであり、彼の民、そして全人類に対する神の真実の宗教の伝道のことです。
それはライラトル=カドル、または‘神威の夜’として知られる、聖月ラマダーンの最後にさしかかったある日の夜に起こりました。
預言者ムハンマドはヒラーの洞窟で瞑想に没頭していました。彼は突如、啓示の天使でありイエスの母マリアをも訪れたガブリエルの降臨を見、彼によって締め付けられました。そして‘イクラア!’―‘読め!1’と命じられたのです。読み書きの出来なかった彼は言いました:‘私は読むことが出来ません!’しかしその命令は更に二回繰り返され、預言者はその都度同じ返答をしました。最終的に、彼は天使のとてつもない力によって締め上げられた後に解放され、それからクルアーンの最初の節が彼に啓示されたのです:
“読め、創造なされる御方、あなたの主の御名において。一凝血から、人間を創られた。読め、あなたの主は、最高の尊貴であられ、筆によって(書くことを)教えられた御方。人間に未知なることを教えられた御方である。”(聖クルアーン 96:1−5)
こうして、神による人類への最後の啓示にまつわる壮大な物語が始まったのです。14世紀前のアラブ人の興隆は、それまで歴史的に全くの空白だった地帯から人々を地球上に拡散させ、何千万人という規模の人々に影響を与え、大都市、大帝国を築き上げ、強大な軍隊の衝突を刺激し、それまで未知だった美と輝きが砂埃の中から引き起こされたのです。またそれは大衆を楽園の諸門へと導き、その更なる先の至福に満ちた展望をもたらしました。ヒジャーズの峡谷にこだましたイクラアという言葉は、それまでの世界の固定概念を破壊し、そして岩々の中に隠遁していたこの一人の男に、山々に下されたのであればそれらは木っ端微塵に砕け散ったであろう程の責務を与え、彼はそれを両肩に背負って立ち上がったのです。
預言者ムハンマドは40歳に達しており、熟年期に入っていました。この遭遇の強い衝撃により、彼の実体は溶けてしまったという主張もある程です。彼は光によって焼き尽くされた皮膚のようになり、山を下りてその妻ハディージャの両腕に助けを求めたその男と、山を登る前の彼は別人のようになりました。
しかしムハンマドはその時、あたかも追われている男のようでした。山を下りようとしたムハンマドに、大いなる声が聞こえて来たのです:‘ムハンマドよ、汝は神の使徒であり、我はガブリエルなり。’彼が空を見上げると、天使が空を覆っていました。彼がどこに行ってもその姿は見え、逃げることは不可能でした。彼は帰途を急ぎ、ハディージャに叫びました:‘私を覆い隠してくれ!私を覆い隠してくれ!’彼女は彼を横たわらせ、外衣で包みました。少し落ち着きが戻って来ると、彼は何が起こったかを彼女に話しました。預言者は恐怖に震えていたのです。彼女は彼を抱擁し、励ましました:
“いいえ!神に誓って、神はあなたの名誉を傷つけるようなことはなされません。あなたは親族との良い関係を保ち、貧者を養い、来客を寛大にもてなし、困窮者を援助するではありませんか。”(サヒーフ・アル=ブハーリー)
彼女には、その徳と誠実さ、正義感、慈善心から、夫が神によって恥をかかされるような男には見えなかったのです。この地球上で最初に彼を信じたのは彼の妻ハディージャでした。直ちに彼女は聖書学者である叔父のワラカに会いに行きました。彼女の夫の経験を聞いた後、ワラカは聖書の予言にあるように、彼が待望された預言者であることを認知し、洞窟で彼が見たのは啓示を担う天使のガブリエルであることを確認したのです。
“それはモーゼを訪れた、秘密の守護者(ガブリエル)である。”(サヒーフ・アル=ブハーリー)
その後、預言者には生涯に渡って啓示が下されました。それらは彼の教友たちによって記憶され、羊の革片などに書き留められました。
クルアーン、または“朗誦するもの”
ガブリエルによってムハンマドに下された言葉は、ムスリムによって神聖であると見なされ、彼自身が話した言葉とは厳格に区別されるため、混同されることはありません。前者は聖典クルアーンであり、後者はハディース、または預言者のスンナと呼ばれるものです。天使ガブリエルは、読み書きが出来なかった預言者に対して、口頭でクルアーンを朗誦したため、聖典はアル=クルアーン(“朗誦するもの”)として知られています。
預言者ムハンマド伝(4/12):マッカでの迫害
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- 掲載日時 06 Dec 2009
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初期の改宗者
預言者としての使命における最初の数年間、預言者ムハンマドは家族と親密な友人たちにのみ宣教をしました。最も最初に改宗した女性は彼の妻ハディージャであり、最初に改宗した未成年は彼の従兄弟であり彼の後見を受けていたアリー、そして最初に改宗した奴隷は彼に仕え,その後解放されたゼイドでした。彼の旧友アブー・バクルは、自由成人男性としては最初の改宗者です。後に預言者は彼に関してこう述べています:‘誰でもイスラームに呼びかけられると最初は躊躇するが、アブー・バクルだけは例外だった。’
その後、公に偶像崇拝を禁じ、布教する命令が神によって下されました。当初はクライシュ族の長老たちもこの‘奇妙な集団’を無視し、ムハンマドを自己欺瞞に陥った悲しい事例であるという位に見なしていましたが、徐々に彼の布教に貧者や困窮者を中心とした人々が応え始めると(それゆえ破滅的であるとみなされたのでしょう)、マッカの宗教とその繁栄への驚異であると捉え始められたのです。しかし、彼らは真っ向から対立することを望んではいませんでした。彼らの権力はその結束性に大きく依存しており、部族間の抗争によって分裂していたヤスリブ(現在のマディーナ)に起こっていたことの厳然たる例は彼らをより警戒させ、迫害の好機をうかがわせたのです。さらに当時の部族社会では、例えその一員が部族全体にとって好ましくない者であったとしても、もしも他者から攻撃を受けた場合には彼を保護しなければならない慣習上の義務があったため、ハーシム家は断固として彼を擁護しました。従って彼ら(クライシュ族)は中傷作戦に出ました。それは暴力につきものの責任が伴わないため、真実を封じ込めるのに最も効果的な武器だったのでしょう。当時のムハンマドの庇護者アブー・ターリブが彼の布教に答えなかったのは、自分と部族の安全のためでした。ムハンマドは言いました:‘叔父よ、例え彼らが私の右側に太陽、左側に月を持って来たとしても、私は神が成功をもたらしてくれるまで、死ぬまで自分の目的を断念する意志はありません。’アブー・ターリブは溜息をついて言いました:‘私の甥よ、私はあなたを見捨ぞ。’
ムハンマドの影響力が広まり、クライシュ族の長老たちの主導権に傷が付き、彼らの部族内に分裂が見られるようになると、月を追うごとにマッカの緊張感は増して行きました。そしてこの兆候として啓示が増え、その内容にマッカの金権政治の冷淡さに対する弾劾、彼らの貪欲さの指摘などが含まれるようになってくると、支配層にとって更に危険なものとなりました。やがて対立はアブー・ジャハルとアブー・ラハブ、そして後者の義兄弟であり、彼らより若く才能に溢れ、計算高いアブー・スフヤーンによって率いられるようになりました。ある日、彼らと中立の立場だったムハンマドの叔父ハムザが狩りから戻って来ると、彼は彼の甥に対する中傷を耳にしました。それに酷く腹を立てた彼は真っ先にアブー・ジャハルの元を訪れ、彼の頭を弓で叩き付け、その場でイスラームへの改宗を表明したのです。
迫害の始まり
預言者としての使命開始から3年目が経過した頃、預言者に“立ち上がり、警告せよ”という命令が下され、公での宣教が開始され、神の輝かしい創造に対する偶像崇拝という卑劣で愚かな行為の非難がさ行われ始めました。彼らの神々が非難されると、クライシュ族は遂に積極的な敵対行為を始め、ムハンマドの貧しい教友たちを虐げ、嘲笑し、侮辱したのです。彼らがムハンマドの殺害をためらったのは、彼の出身部族による血の復讐を恐れていたのでしょう。クライシュ族はムハンマドの教えを嘲り、その追従者を落胆させるためには何でもしましたが、預言者は力強い警告と嘆願を続けたのです。
アビシニアへの避難
布教初期4年間の改宗者たちの大半は、そういった迫害から身を守ることが出来なかった弱い立場にある者たちでした。彼らが耐え忍んでいた凄惨な迫害に対して、可能な者は一時的にアビシニア(現在のエチオピア)へ移住することが預言者によって勧められました。そこには誰であれ良い待遇をもって迎えることで知られた、キリスト教徒のネグスという‘公正なる王’がいたからです。西暦614年、約80名の改宗者たちはそのキリスト教国家に避難しました。
しかしこの一見すると他国勢力との同盟にも見える出来事にマッカの人々はさらに激怒し、ムスリムたちの引き渡しを求める使節団をネグスに送りました。そこでは法廷において大きな議論が交わされました。しかしムスリムたちが、彼らがキリスト教徒と同じ神を崇拝しているという事実を説明し、それから聖母マリアに関するクルアーンの節を朗誦すると、ネグスは涙してこう言ったのです:‘実にこれはイエスがもたらしたものと同じ源泉を共有するものだ。’こうしてムスリムたちは勝利を勝ち取ったのです。
こうした迫害や避難にも関わらず、ムスリムの数は増え続けました。クライシュ族の懸念は頂点に達していました。全アラビア半島の聖地であるカアバ神殿における偶像崇拝は、彼らにとっての保護そのものでした。マッカの外から多くの巡礼者が押し寄せる巡礼期になると、彼らはありとあらゆる道筋に、彼らの中で宣教を行なう‘狂人’‐ムハンマドのこと‐に対する警告を行ないました。彼らは、もし預言者が彼らの神々を認め、それらに神の仲介者としての地位を与えるよう宗教に変更を加えるのであれば、イスラームを認めるという妥協案も画策しました。彼らの神々への攻撃を阻止する見返りとして、彼らは王位の提供も約束したのです。しかし預言者ムハンマドの断固たる拒否は、その交渉における彼らの努力を頓挫させました。
ウマルの改宗
マッカで最も恐れられていた若者の一人、ウマル・ブン・ハッターブの改宗も特筆すべき重要な出来事です。彼が生まれ育った教えとは正反対の新しい宗教が収めつつある成功に激怒した彼は、それがもたらすであろう結果をも熟慮することなく、ムハンマド(彼に神の慈悲と祝福あれ)の殺害を誓ったのです。しかし彼はそうする前に、まず自分の家族がどうなっているか確かめるよう促されました。彼の妹とその夫はイスラームに改宗していたのです。彼は彼らの家へと飛んで行くと、彼らが‘ター・ハー章’と呼ばれる章を朗誦しているのを発見しました。そして彼の妹がイスラームへの改宗を明言すると、彼は怒りのあまり彼女を殴ってしまいました。彼はすぐに自分が行なった過ちに恥じ入り、彼らが何を朗誦していたのかを尋ねました。彼女に促され、自らの身体を洗浄した後にクルアーンのテキストを手にした彼は、それを読んで突然の変化を感じました。クルアーンの言葉は彼を永久に変えたのです。彼は直接ムハンマドの元を訪れ、すぐにイスラームを受け入れました。
これらの男たちはその高い社会的階層において、攻撃を受けるには重要過ぎる存在でしたが、新しく改宗したムスリムの大半は貧困層か奴隷でした。宗教を破棄させるために貧者は打たれ、奴隷は拷問されましたが、ムハンマドによる彼らの保護には限界がありました。
あるとき、ビラールという名の黒人奴隷ムスリムが裸にされ、灼熱の太陽の下、地べたに括り付けられ、胸には重い石を置かれ、渇きで死ぬまで放置されていました。彼は拷問から解放される代わりに、彼の宗教を放棄するよう多神教徒たちから強いられていましたが、彼の回答は‘アハド!アハド!’(神は唯一なり!神は唯一なり!)だったのです。彼が正に瀕死の状態だった時、アブー・バクルが彼を見つけ出し、法外な身代金を支払って彼を解放したのです。彼はムハンマドの家で健康を取り戻すまで介護され、最も卓越し、愛された教友の一人となりました。後に、いかにして人々に礼拝時間を知らせるかという議論がなされた時、ビラールはイスラームにおける最初のムアッズィン(ムスリムの礼拝場から声高に礼拝の呼びかけを行なう者)となりました。彼は痩せて背が高く、力強い声の持ち主でした。彼はふさふさした灰色の頭髪を持つカラスの顔をした男と呼ばれ、拷問の際に太陽によって焼き尽くされ、唯一神への愛、そして唯一神の使徒への愛だけが残った男と呼ばれました。
ボイコット文書の壊滅
あらゆる面で行き詰まっていたマッカの少数独裁者たちは、アブー・ジャハルの指揮によってハーシム家全体のボイコットを宣言する公式文書を発行しました。彼らがムハンマドを追放するまで彼らとの商業取引、婚姻関係の一切を禁じる、というものでした。それから3年間、預言者はその親族と共に彼らの拠点である峡谷の中に閉じ込められた状態となりました。
そんなある時期、一部の良心的なクライシュ族が旧友、旧隣人へのボイコットにうんざりし、カアバ神殿の中に放置されていた公式文書を再び審議にかけることに成功しました。その文書を取り出してみると、全ての文章が白蟻によって食い尽くされていましたが、ビスミカッラーフンマ(‘神よ、あなたの御名において’)という言葉だけが残っていました。長老たちがその驚異を目にしたとき、ボイコットは廃止され、預言者は再びマッカ内を自由に行き来出来るようになりました。しかしその間、彼の布教に対する反対派は勢力を強めていました。彼のマッカにおける布教は著しくなく、ターイフの町での布教の試みも失敗に終っていました。彼の使命は思うように進展しませんでしたが、巡礼期になるとある小さな一団が喜んで彼の話しを聞きに来ました。
預言者ムハンマド伝(5/12):移住の準備
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ヤスリブから来た男たち
彼らはマッカから約400キロ以上離れた、後にアル=マディーナとして知られるようになる町ヤスリブから、巡礼(ハッジ)の目的でマッカを訪れました。ヤスリブは緑豊かなオアシスとして、現在でも良質のナツメヤシの産地として有名ですが、それ以外の部分では様々な不幸がもたらされていました。そこでは部族間の抗争が絶えることがなく、ユダヤ人たちはユダヤ人同士で、アラブ人たちもアラブ人同士で争っていました。アラブ人たちはユダヤ人と同盟を組み、他のユダヤ人と同盟を組んだアラブ人部族と争いました。マッカは繁栄していましたが、ヤスリブは荒廃しており、その住民を団結させる能力のある指導者を求めていたのです。
ヤスリブのユダヤ人部族の中には学識のあるラビたちがおり、彼らはたびたび多神教徒たちに対し、やがて彼らの中から現れる預言者に関して言及していました。そして彼が現れた暁には、過去に偶像崇拝のため滅ぼされたアードやサムードの部族のように、アラブ人たちを破滅に追いやるだろうと主張しました。
預言者ムハンマド(彼に神の慈悲と祝福あれ)は、まだその時点ではマッカの郊外で秘密裏にイスラームの布教を行なっていました。ある日彼はマッカの郊外にあるアカバにおいてある集団と出会い、同席を尋ねたところ、快く迎え入れられました。このヤスリブから来たハズラジュ族の男たちはムハンマドの教えを受け入れ、彼をユダヤ人が彼らに説明した預言者であると認め、そこにいた6人全員がイスラームを受け入れました。また彼らはこの新しい宗教によって、ムハンマドが彼らの部族とその兄弟部族であり同祖にも関わらず長年敵対し憎悪の対象となっていたアウス族との統合の助けになることを望みました。彼らはヤスリブに戻り、ムハンマドの説く教えを広めようと決心しました。その結果、ヤスリブではイスラームの教えを知らない家は一軒もなくなり、翌年の巡礼期である621年には、ヤスリブからの代表団が預言者ムハンマドとの面会に訪れたのです。
第一のアカバの誓い
この代表団は12人の男たちによって構成されており、前年からの5人、そしてアウス族からも2人が参加していました。彼らはアカバで預言者と再会し、彼らの名とその妻たちの名にかけて、神に何者をも同配しないこと(ムスリムになること)、盗み、姦通、生まれた女児の殺害をしないこと、そして全ての正しい事柄において預言者に従うことを誓いました。これが第一のアカバの誓いとして知られるようになったものです。彼らがヤスリブに戻った際、預言者は彼らのもとにムスアブ・ブン・ウマイルを大使として送り、新しい改宗者たちに信仰の基礎を教えさせ、依然としてイスラームを受け入れていない者たちのため、更なる布教をさせたのです。
ムスアブは、ヤスリブのほとんど全ての家庭の中に最低一人はムスリムがいるような状態になるまで布教を続け、翌年622年のハッジ前に預言者のもとへ戻り、彼の使命の吉報と、ヤスリブの人々の徳と強さを報告しました。
第二のアカバの誓い
そして622年、ヤスリブから2人の女性を含む、75人のムスリムからなる巡礼者がハッジを行うためにやってきました。その日の夜遅く、人々が眠りの最中にある頃、ヤスリブのムスリム巡礼者たちは事前に預言者と打ち合わせていたアカバの岩場に密かに集まり、預言者へ忠誠を誓い、彼をヤスリブへと招くことを協議しました。その場には預言者と共に、多神教徒ではあったものの、親族としての義理から甥を守り抜いた叔父がいました。彼はムスリムたちに対し、彼らの計画の危険性を警告しました。また、過去2年間の巡礼に参加した一人の巡礼者も立ち上がり、同じくその危険性と心構えを喚起しました。彼らの預言者への敬愛と決心の固さは、彼らが自分自身やその家族と同等のものでもって預言者を守るという宣誓をさせました。この時、ヤスリブへの移住である「ヒジュラ」(移住)が決定したのです。
この誓いは、預言者を守ることに関しては武器の使用をもいとわないことに言及されているため、戦争の誓いとしても知られています。そしてマッカのムスリムたちがヤスリブに移住して間もなく、宗教への攻撃を防ぐためには武器の使用が許されるというクルアーンの啓示が下されました。これらの節は、イスラームの歴史においてとても重要なものです:
“戦いをし向ける者に対し(戦闘を)許される。それは彼らが悪を行うためである。神は、彼ら(信仰者)を力強く援助なされる。(彼らは)只「私たちの主は神です。」と言っただけで正当な理由もなく、その家から追われた者たちである。神がもし、ある人々を他の者により抑制されることがなかったならば、修道院も、キリスト教会も、ユダヤ教堂も、また神の御名が常に唱念されているモスクも、きっと打ち壊されたであろう。”(聖クルアーン 22:39−40)
ここで、預言者ムハンマドとムスリムたち、そして世界にとっての転換期が訪れました。それは預言者ムハンマドの宿命であり、また迫害され、虐げられた人々にとっての新たな選択肢を示す、預言者の任務としての一つでもありました。一方では寛容さが重要視され、他方ではキリスト教徒のように‘正当な戦争’が説かれましたが、その後啓示されたクルアーンでは―“アッラーが人間を、互いに抑制し合うように仕向けられなかったならば、大地はきっと腐敗したことであろう。”(聖クルアーン 2:251)という言葉が使われました。13年間に渡り、彼とその追従者たちは迫害、脅迫、侮辱を受け続けて来ましたが、自己防衛のために手を上げたことはありませんでした。それが可能であることを彼らは態度で示したのです。しかし状況は変わりつつあり、イスラームの教えが世界で生き残るためには全く違う反応が要求されたのです。平和の期間があるように、戦争の期間もあるのです。そしてムスリム一人一人は、物理的な力が備わっていなければ精神的な努力が求められていることを決して忘れないのです。この事実を無視しようと試みる者たちは、遅かれ早かれ隷属させられるでしょう。
預言者殺害の計画
ムスリムたちは小さな集団を作ってマッカを脱出し、ヤスリブへと出発しました。こうしてヒジュラ(移住)が始まったのです。
それはクライシュ族にとって、到底容認の出来ることではありませんでした。同じ都市の中に敵がいるだけでも十分な問題なのに、彼らはマッカの北の地に拠点を作ろうとしているのです。伯父アブー・ターリブの死によって、ムハンマドは重要な支持者を失いました。それにより、先祖伝来の掟と血の復讐を恐れる必要のなくなったマッカの指導者たちは、遂にムハンマド(彼に神の慈悲と祝福あれ)の殺害を決心したのです。アブー・ジャハルはある計画を企てました。それは、複数の部族から若者たちを集め、それぞれがムハンマドに致命的な一撃を与えることによって血の責任が分散されるようにするというものです。彼は、ハーシム家がそれら全ての部族から賠償を請求することは出来ないと見たのです。
預言者ムハンマド伝(6/12):預言者のヒジュラ(移住)
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ヒジュラ(西暦622年、9月23日)
一方、預言者は少数の親近者と共に、ヤスリブのムスリムたちと合流出来る時期を待っていました。彼は神の啓示による指令が来るまでそれが出来ずにいましたが、ある日遂にその啓示が下されました。彼は自分の外套を甥のアリーに渡し、彼の寝床で寝るよう指示しました。そうすることにより、誰かが捜索に来た際には彼がまだそこにいると思わせたかったのです。暗殺者たちは昼夜問わず、彼が家から出て来次第、襲いかかる予定でしたが、彼は彼らがアリーを襲うことはないことを知っていました。暗殺者たちは、預言者ムハンマドが密かに家を抜け出した際、既に家の包囲を開始していました。彼はアブー・バクルの家へ行って彼を呼び、二人は追跡が止むまで砂漠の丘陵地帯にある洞窟に身を隠しました。アブー・バクルの息子と娘、そして牧夫は日が暮れると彼らのもとへと食料を持ち込み、情報を伝えました。一度は、彼らのもとにその会話が聞こえる程にまでマッカの追跡隊が接近して来ました。アブー・バクルは恐れて言いました:“神の使徒よ、もし彼らの一人が足元に目をやれば、我々を発見してしまいます!”預言者は言いました:
“その3人目として神がついている2人に関してどう思うか?恐れてはならない。神は我々と共におられるのだ。”(サヒーフ・アル=ブハーリー)
追跡隊が彼らのもとから遠ざかると、アブー・バクルはラクダと案内人を夜間の内に調達し、彼らはヤスリブまでの長い旅に出発しました。
人通りの少ない旅路を何日にも渡って進んだ末、彼らはヤスリブの近郊クバーに到着しました。町の人々は預言者がマッカを離れたという知らせを聞いて以来、何週間にも渡り地元の小山から毎朝暑さが厳しくなるまで待ち続けていました。預言者の一行は見張り人が去った後、日中の暑さが厳しい時間帯に到着しました。一人のユダヤ人が預言者を発見すると、彼はムスリムたちが待ち望んでいた預言者の到着を知らせ、ムスリムたちは彼を歓待するためにクバーへと集まりました。
預言者はクバーに数日間滞在し、そこでイスラーム史上最初のモスクを建立しました。その時までには、預言者出発の3日後にマッカを出たアリーも到着していました。マッカにおける預言者の教友たち、そしてクバーの“援助者”たちは、人々が預言者の到着を心待ちにしているマディーナへと預言者を案内しました。
マディーナの住人たちは、その歴史上最も喜びに満ちた日を迎えました。預言者に近い教友の一人、アナスは言いました:
「私は彼がマディーナに入った日をこの目で見たが、彼が我々のもとに来た日よりも良く、明るい日を知らない。私は彼が逝去した日もこの目で見たが、彼が亡くなった日よりも悪く、暗い日を知らない。」(アハマド)
マディーナの全ての家主は、預言者が彼らの家に留まることを望み、一部の人々は彼の乗っていたラクダを彼らの家に導こうとしました。預言者は彼らをなだめてこう言いました:
“彼女(ラクダ)を放っておきなさい。彼女は(神の)指令に従っているのだから。”
ラクダは多くの家々を通り過ぎ、やがて立ち止まり跪きました。そこはバヌー・ナッジャールの地でした。ラクダが再び立ち上がり、少し歩いて振り返り、同じ場所にまた跪くまで預言者はラクダから降りませんでした。預言者はラクダから降りると、その選択を喜びました。バヌー・ナッジャールは彼の母方の叔父たちにあたり、彼は彼らに敬意を示したかったからです。人々が預言者を彼らの家に招待していた時、アブー・アイユーブが進み出て預言者の鞍を取り、彼の家に運び入れました。預言者は言いました:
“人は鞍のある場所に行くものだ。”(サヒーフ・アル=ブハーリー、サヒーフ・ムスリム)
マディーナで彼が最初に取りかかったのはモスクの建立でした。預言者(彼の神の慈悲と祝福あれ)はナツメヤシの実の店を持つ2人の少年を呼び、彼らの畑の値段を聞きました。彼らは答えました:“いいえ、神の預言者よ、私たちはそこをあなたのための贈り物にします。”預言者はその申し出を断り、適切な価格を支払い、そこにモスクの建築を決め、彼自身もその作業に携わりました。その際に彼がこう言ったのが記録されています:
“神よ!来世以外には善徳はありません。それゆえ援助者と移住者たちをお赦し下さい。”(サヒーフ・アル=ブハーリー)
モスクはムスリムたちにとっての崇拝の場として機能しました。個人によって密かに行われていた礼拝は、今ではムスリム社会を象徴する、公然の行為となりました。ムスリムとイスラームが軽視・抑圧されていた時期は終わったのです。礼拝の呼びかけであるアザーンは町中に高らかに響き渡り、ムスリムたちに対して創造主への義務遂行を喚起しました。モスクはイスラーム社会の象徴であり、崇拝の場であり、宗教を学び、教える啓発の場であり、相争う二者が集う問題解決の場であり、社会におけるあらゆる事柄に端を発する場として、いかにイスラームが人生のあらゆる諸事を包括しているかということを示す真の実例なのです。これら全ての役割は、ナツメヤシの木の幹をもとに築かれ、その葉が屋根となった場で行なわれたのです。
最初の最も重要な作業が終ると、彼は自分の家族のために、モスクの両側に同じ材料で家を建てました。預言者モスクと彼の家は、今現在も全く同じ場所に建っています。
ヒジュラは完遂されました。622年9月23日、イスラーム暦はこの出来事をもとに開始しました。そしてこの日からヤスリブは新たな栄光の名を持つようになりました。それはマディーナトゥン=ナビー、すなわち預言者の町という意味を持ち、短縮してマディーナと呼ばれました。
これがマッカからヤスリブへの居住であるヒジュラです。13年間に渡る屈辱と迫害、そして限定的な成功の季節は終ったのです。
そして、一人の人間によってもたらされた最も完全な10年間に渡る成功が始まりました。クルアーンに明記されているように、ヒジュラは預言者の使命において、はっきりとした転機となりました。それまで彼は宣教者としてのみ活動していましたが、彼は小さな都市国家の長となり、それから10年後にはアラビア半島全体の元首となりました。彼とその人々がヒジュラ以前に求めていた導きは、ヒジュラ後のそれとは異なるものでした。それゆえ、マディーナ啓示の章はマッカ啓示のものと主旨が異なります。後者は個々の魂に対する導きであり、預言者へ訓戒する者としての役割を与えました。前者は成長する政治共同体への導きと、立法者、改革者、そして模範的人物としての役割を預言者へ与えたのです。
預言者ムハンマド伝(7/12):マディーナにおける新たなる局面
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通常、預言者ムハンマドの主な食事内容は、ナツメヤシの実とミルクを混ぜた穀物粥、そうでなければ単にナツメヤシの実と水だけでした。彼は度重なる飢えに耐え忍び、時には平らな石を腹部に巻き付けてその苦しさを和らげたこともありました。ある日一人の女性が、預言者が必要としていた外衣を彼に贈与しました。しかし同日の晩、ある者が埋葬する遺体を包むための布を求めて来た時、彼はそれを即座に施してしまいました。また彼は多少の備蓄食料を所有する者から食事を提供されていましたが、彼は自分自身の口にそれを運ぶ前に、より必要としている者たちにそれを差し出すことを常としていました。年齢も52歳に達し、体力が衰えていた預言者は、神が彼に与えた様々な種類の人々の間で、真の宗教であるイスラームに基づいた国家の建設に苦闘しました。
卓越した外交手腕と人格の組み合わせによって、預言者ムハンマドはマディーナで対立し合う派閥の和解に取り組みました。彼の別の教友たちが次々と移住して来る中、新参者の支援制度は非常に重要な要素を持ちました。‘移住者(ムハージルーン)’と地元の改宗ムスリムである‘援助者(アンサール)’の結束のために、彼は相互関係確立の制度を制定します。それは、各‘援助者’たちが、‘移住者’の一人を自分の兄弟とし、遺産相続の権利にまで渡るあらゆる状況において、その者を実の家族と同じ扱いをさせるというものでした。僅かな例外を除き、‘移住者’たちは移住に伴い、全ての財産を失ったため、新しい兄弟たちに頼るしかなかったのです。援助者たちは、時には住居、資産、土地、農園といった形で彼らの半分の財産を渡す程でした。これが信仰上の兄弟に対する援助者たちの熱意であり、彼らはあらゆる財産を半分に分け、くじ引きで自分の配分を決定したのです。大半の場合、彼らは移住者たちに、彼らの財産の内のより良い部分を贈呈したといわれています。
ある日突然、全くの他人を自分の家族に加えなければならなかった状況にも関わらず、彼らの間に何の問題も発生しなかったとされているのは、‘奇跡’であると形容する誘惑に駆られます。この同胞愛の結束はあらゆる先祖元来の伝統、肌の色、国籍など、その他名誉の基準と見なされた諸々の要素を破壊しました。そして人々の間に結束をもたらす唯一のものが宗教となったのです。信仰心がここまで人を変え、はっきりと実践されたのは、歴史上他に類を見ません。
しかしマッカから来たムスリムたちは、彼らの技能を忘れたわけではありませんでした。移住者の一人に対し、彼の新しい同胞が言いました。‘哀れなお方よ、私に何か出来ることがあれば教えてください。私の家と蓄えもご自由にお使い下さい。’彼は答えました:‘慈愛深き友よ、市場がある場所を教えて頂ければそれで十分です。そこから後は、自ずと道が開けるでしょう。’伝承によればこの男は、チーズと純バターの販売を始め、まもなくその富から現地の女性と結婚する結納金の支払いが出来る程となり、やがて隊商に700頭のラクダを装備出来るほどにまでなったと言われています。
そういった事業は推奨されていましたが、同時にそれを行う能力を有さず、また家族や資産がない者たちもいました。彼らは一日をモスクでの勉強で過ごした後、預言者によって異なる援助者たちの家に送られ、そこで夜を過ごしたのです。彼らは‘アハルッ=サファー’として知られるようになりました。彼らの一部は預言者自身の食卓で養われ、食料のないときには共同貯蔵庫から大麦を焼いて食べました。
ヤスリブにおける統治の元年、預言者は彼の人々とマディーナ及び近辺のユダヤ教徒たちとの間に、相互義務に関する正式な誓約を結び、彼らの国民としての平等な地位、完全な信教の自由、そして他者からの攻撃の際には互いに守り合うことにおいて合意したのです。
しかし彼らにとっての預言者は単なる支配者であり、預言者はアラブ人ではなくユダヤ教徒でなければならなかったのです。またユダヤ教徒たちは、アラブ人部族間の抗争による不安定な情勢を利用して通商による大きな利益を上げていたため、それは不都合でもありました。マディーナとその近辺における部族間の和平は、彼らにとって脅威となるものだったのです。
同時に、マディーナの住民の中には新参者を憎み、一時的に和平を我慢していた者たちもいました。彼らの首謀者であるアブドッラー・ブン・ウバイイ・ブン・サルールは、預言者以前のヤスリブにおける事実上の首領であったため、預言者の到来を心から憎悪していました。彼は形式上はイスラームへの改宗を装っていましたが、その後‘偽信者たち’の長としてムスリムたちを裏切ったのです。
預言者とムスリムたち、そしてヤスリブにおける新国家の誕生に対するこのような不満分子の存在により、ユダヤ教徒たちとマディーナの‘偽信者たち’の同盟は必然的でした。彼らはマディーナにおいて常に裏で策略を企て、ムスリムたちを騙し続けていたのです。クルアーンではこの理由により、マディーナ啓示の章ではユダヤ教徒と偽善信者たちが頻繁に言及されています。
キブラ
この時点までは、エルサレムが礼拝のキブラ(ムスリムが礼拝を行なう方角)でした。ユダヤ教徒たちは、エルサレムがキブラとして選ばれている事実はユダヤ教の教えが元にされており、預言者は彼らの教えを必要としていると思い込んでいました。預言者はキブラがカアバへと変更されることを望んでいました。そこはアブラハムにより地上で最初に築かれた神の崇拝の場なのです。移住後2年目にして、預言者はエルサレムからマッカのカアバへとキブラを変更することを命じる啓示を受けました。アル=バカラ章の全体は、このユダヤ教徒の争点に関連付けられています。
最初の遠征
統治者としての預言者の第一の懸念は、公共での崇拝を確立し、国家の法を定めることでした。しかし、彼はクライシュ族が彼の宗教を滅ぼすと誓ったことを忘れていませんでした。彼らは預言者のマディーナへの移住の成功に激怒し、マッカに居残ったムスリムたちへの拷問・迫害を増加させました。彼らの邪悪な策略はそれだけには留まりませんでした。彼らは同時に既述のアブドッラー・ブン・ウバイイのようなマディーナの多神教徒と秘密裏に同盟を結び、彼に預言者の殺害を命じたのです。クライシュ族は、たびたびマディーナのムスリムたちへ彼らの全滅を脅迫するメッセージを送りつけました。また多神教徒による策略・計画の情報は預言者自身の耳にもが届き、彼の家の周囲には番人を配置しなければならない程でした。そして遂にこの時、神はムスリムたちに武器を取り、不信仰者たちと戦うことを許可されたのです。
13年間に渡り、彼らは厳格な平和主義を貫いていましたが、それからは数回に渡って預言者ムハンマド自身、または数人のマッカからの移住者の指揮によって小さな遠征が行なわれるようになり、マッカへと続く陸路の偵察、そして他の部族との同盟などが模索されました。また他の遠征では、シリアからマッカへの帰途にある隊商を奇襲することによってクライシュ族への経済的打撃を狙い、マッカ、マディーナ双方のムスリムに対する攻撃を食い止めるのが目的でした。これらの遠征ではごく一部を除き、実際に戦闘が行なわれたことはありませんでしたが、それによってムスリムたちは自分たちを被抑圧的対象としてではなく、急成長を続ける手強い新勢力として、アラビア半島における新しい地位を築き上げたのです。
預言者ムハンマド伝(8/12):バドルの戦い
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バドルの戦い
ムスリムによるある遠征において、シリアへと向かっていたクライシュ族の隊商は彼らの襲撃を逃れ、ムスリムたちはその帰路において待ち構えていました。ムスリム偵察隊の一部がアブー・スフヤーン(クライシュ族側の首領の一人)の率いる隊商を発見すると、彼らは急いで預言者にその規模を知らせに行きました。もしもこの隊商を捕らえることが出来たのであれば、それはムスリムたちに多大なる経済的利益をもたらし、マッカ社会全体への打撃を与えることが望めたのです。ムスリム偵察隊は、隊商がバドルの水場で停留することを突き止め、ムスリムたちは急襲の布陣を敷きました。
この知らせがマッカに向けて南下中だったアブー・スフヤーンの耳に入ると、すぐさま彼はマッカへ敵に対抗するための軍勢の緊急出動を要請しました。そして隊商を失うことによる破滅的な結果を恐れた彼らは、可能な限りの兵力を集結させ、直ちに出動させました。しかしマッカからの軍勢はバドルへの道中、アブー・スフヤーンの隊商が海岸沿いの陸路へと変更したことにより、ムスリム勢の手を逃れることに成功したという知らせを受け取ります。それにも関わらず約1,000人のマッカ勢はムスリムへ対して教訓を与えるため、つまり今後の隊商への襲撃を思い留まらせるため、バドルへの進軍に固執しました。
ムスリム勢がマッカ勢の進軍を知った時、彼らは対抗手段として大胆な作戦がとられなければならないことを確信していました。もしもムスリムたちが彼らをバドルで迎え撃たなければ、マッカの民はあらゆる手段を尽くしてイスラームへの敵対行為を続け、いずれはマディーナへ侵攻し、家畜などの富を脅威に晒したでしょう。預言者(彼に神の慈悲と祝福あれ)は顧問会議を開き、どのような行動をとるか教友たちと話し合いました。預言者はムスリムたちが同意しないことを望んではおらず、特に軍隊の大半を占め、自分たちの領土外では戦わないとしたアカバの誓いにおける誓約にも関わらず戦うことを辞さなかったマディーナの援助者たちを、無理に戦いに関与させたくはなかったのです。
そのような中マディーナの援助者の中の一人、サアド・ブン・ムアーズは預言者への忠誠とイスラームへの献身を再確認しました。以下は彼が語った言葉です:
“神の使徒よ!我々はあなたを信じ、あなたがもたらしたものを証言し、それが真実であるとはっきり宣言します。我々はあなたに確固とした服従と犠牲の誓約を結びます。我々は進んであなたに服従し、いかなる命令にも従います。―あなたを真実とともに遣わせた神に誓って。もしあなたが我々に海に沈めと命令されるのであれば、それに躊躇なく従い、我々の内一人も後には残らないでしょう。我々は敵との対峙に関して私怨を抱きません。我々は戦闘経験が豊富であり、格闘にも定評があります。神が我々の手によって我々の勇敢さをあなたに示し、あなたを御満悦させることが出来ますように。神の御名において、どうぞ我々を戦場へとご先導下さい。”
援助者と移住者の双方により、このような極めて強い支持が預言者とイスラームに向けて示された後、300人余の軍勢によってバドルへの出陣が開始されました。彼らは僅か70頭のラクダと3頭の馬を有していただけに過ぎなかったので、それらに交代で乗らなければなりませんでした。彼らは、歴史上アル=ヤウム・アル=フルカーン(区別の日)として知られるようになる日へと向かっていました。それは光と闇、善と悪、公正と不正との区別を意味しています。
戦いの日に先立ち、預言者は一晩中礼拝と祈願で過ごしました。戦いはヒジュラ暦2年(西暦634年)、ラマダーン月17日に行なわれました。当時のアラブの慣習に従い、戦闘開始前は前哨戦として双方から一人ずつが選ばれ一騎打ちが行なわれました。そしてムスリム側は一騎打ちを全て制し、クライシュ族の重要人物が数名殺されました。クライシュ族は激昂し、ムスリムの全滅を誓って突撃しました。ムスリムたちは戦略的に有利な陣地を確保していたため、マッカ勢へ甚大な損害を与えることに成功ました。預言者はここまで彼の主に対し、全ての力を尽くしてかれの助けを懇願していました。彼は高く両手を掲げ、それによって外套が彼の肩から落ちる程でした。このときに彼は、神の助けを約束された啓示を受けたのです:
“・・・われは、次ぎ次ぎに来る一千の天使であなた方を助けるであろう。”(聖クルアーン 8:9)
吉報を受けた預言者は、ムスリムへ攻勢に出るよう命じました。クライシュ族の大軍はムスリムたちによる情熱、果敢さ、信仰深さに圧倒され、大損害を受けた後、逃げる他に道がありませんでした。戦地には破滅の待ち構えたマッカ勢が少数取り残されていました。その中にはイスラームの宿敵と言われたアブー・ジャハルがいました。クライシュ族は敗北し、アブー・ジャハルは処刑されました。神の約束は現実のものとなったのです:
“やがてこれらの人々は敗れ去り、逃げ去るであろう。”(聖クルアーン 54:45)
人類史上、最も重要な戦いの一つとして挙げられるこの戦いにおいて、戦死者は双方の合計でも僅か約80名余りでした。
新たな支配者となったアブー・スフヤーンを擁するマッカは、その結果に目もくらむばかりの衝撃を受けていました。彼はこのままでは終らせないことを誰よりも強く決心していました。一方、力関係に敏感なベドウィンの諸部族はこの戦いをきっかけにムスリム側へと傾斜していきました。成功は成功を呼び、イスラームは新たな改宗者たちをマディーナにおいて獲得していったのです。
預言者ムハンマド伝(9/12):同盟部族の反逆
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ウフド山の戦い
翌年には、実に3,000人を擁した軍隊がヤスリブ(マディーナ)の破壊を目的としてマッカから進軍して来ました。預言者は当初、“偽信者たちの長”であるイブン・ウバイの案、つまり町に留まり防御に徹することに賛成でしたが、バドルで戦った戦士たちはいかなる逆境であってもアッラーによるご助力があると信じ、壁の後ろで待ち続けることは恥辱であると主張しました。
預言者は彼らの信仰心と熱意を評価し、彼らの意見を承認すると、1,000人の軍隊を率いて敵軍の野営しているウフド山へと出陣しました。イブン・ウバイは報復として、軍の3分の1にも達していた多数の彼の部下と共に撤退しました。このような重大な逆境にも関わらず、ウフド山の戦いはムスリムにとっての更なる大きな勝利に傾いていました。しかし、預言者が敵軍騎馬隊への攻撃のために配置させていた50名の弓隊による不従順によって風向きが一変します。彼らは自軍の戦士たちが一旦勝利を収めたのを見ると、戦闘が終了したと早合点し、戦利品を失うことを恐れて持ち場を去ったのです。クライシュ族の騎馬隊は谷間を乗り越え勝利に喜んでいたムスリムたちを一気に攻め込みました。この形勢逆転により預言者自身も負傷し、彼が殺害されたという誤解が広まる程でしたが、ある者が彼の生存を確認すると、ムスリムたちは預言者の周りに集まり、、山麓に多数の遺体を残して退却を始めました。戦場はマッカ軍のものとなり、クライシュ族の女性たちが自軍の戦死者たちを嘆き悲しむとともに、ムスリムの殉教者たちの遺体を損傷して回りました。殉教者の一人であった預言者の若き叔父ハムザは、彼に特別な怨みを抱いていたアブー・スフヤーンの妻ヒンドによってその殺害に懸賞金を出されていました。彼女は彼のまだ温かい遺体を見つけると、そこから肝臓を裂き出してそれに噛み付くという忌まわしい行いをしました。翌日、預言者は再び残りの軍隊と出撃しました。彼はもしクライシュ族が預言者の生存を知れば、町への攻撃が阻止出来ると予測していました。その作戦は、ムスリムたちと友好関係にあった一人のベドウィンが、彼らと言葉を交わした後にクライシュ族の軍隊に会うことにより見事に成功したのです。彼はアブー・スフヤーンの質問を受けると、ムハンマドがまだ戦場にいること、更に彼は前日の出来事への雪辱に燃えており、これまでにも増して力強くなっていたということを伝えました。こうしてアブー・スフヤーンは、マッカへの退却を決定したのです。
ムスリムの虐殺
ウフド山での形勢の逆転によって、アラブ諸部族、またヤスリブのユダヤ教徒たちにとってムスリムの威信は下がっていました。ムスリム側に傾斜していた諸部族は、今度はクライシュ族側へと傾き始めました。預言者の追従者たちは少数での旅路において襲撃を受け殺害され、預言者の使節団の一人であったフバイブらは砂漠の部族に捕らえられ、クライシュ族に売られた挙げ句、マッカでの公開拷問によって命を落としました。
ナディール族の排除
ユダヤ教徒たちは、当初ムスリムたちと締結していた条約にも関わらず、これまで隠していた敵意をあらわにし始めました。彼らはクライシュ族、そして‘偽信者たち’との同盟を交渉し始め、更には預言者の命さえ狙ったのです。預言者は彼らの一部に対して処罰措置をとらざるを得ませんでした。ユダヤ教徒の一部族、ナディール族は包囲、抑制されて移住を強いられました。
塹壕の戦い
アブー・スフヤーンには、このままではいけないという焦りがあったのでしょう。ムスリムたちを徹底的に滅ぼさない限り、彼の勝利はなかったのです。彼は巧みな外交手段により、一部のムスリムに対抗していた諸部族、そして単に略奪を望んでいたベドウィン諸部族との同盟を結び、同時にマディーナにいたユダヤ諸部族とも密かに同盟の可能性を探り始めました。そしてヒジュラ暦5年(西暦627年)、彼は10,000人という、ヒジャーズ地方(アラビア半島の西部)における前代未聞の軍勢と共に出陣しました。一方マディーナでは対抗勢力として3,000人を動員することで精一杯でした。
預言者は作戦協議を開きましたが、そのとき敵軍と真っ向から対峙することを示唆する者は一人もいませんでした。唯一の問題は、いかにして町を守るかということでした。この時、ペルシャ人の元奴隷であり、その後最も著名な教友の一人となったサルマーンは、前線に深い塹壕を掘ることを提言しました。これはアラビアの戦争において前例のないものでしたが、預言者はその案を真っ先に評価し、直ちに実行へと移しました。そして彼自身もその作業に加わり、背中に瓦礫を抱えて運び出しました。
部族連合が地平線に姿を見せた頃、作業は辛うじて終っていました。ムスリム軍が戦闘のために出陣すると、それまでマディーナで同盟を結んでいたユダヤ人部族のクライザ族が敵軍へ離反したという知らせが入って来ました。状況は絶望的に見えました。預言者は全ての兵力を塹壕に結集させており、町は盲目であった教友の指揮下にあったのです。前線で敵軍が予期しなかった障害に到達すると、彼らには矢が雨のように降り注ぎました。彼らは塹壕を越えることが出来ず、3、4週間に渡りその場に留まり、矢の応戦と舌戦が繰り広げられたのです。やがて天候は凍てつくような風と凄まじいどしゃ降りによって堪え難いものとなり、これによって楽な略奪を期待していたベドウィンの連合諸部族は塹壕の側で泥まみれになり、餌の不足で家畜が死んで行くのを見ながら、悪天候の中で得るものは何もないと悟り、アブー・スフヤーンに決別を告げたのです。軍隊は崩壊し、彼自身も撤退を余儀なくされました。戦いは終わりました。彼は敗北したのです。
預言者ムハンマド伝(10/12):フダイビーヤの盟約
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クライザ族への処罰
アラブ人にとって、信頼への裏切り、そして誓約の破棄よりも忌み嫌われるものはありません。クライザ族への対応が問われる時が来ました。預言者は塹壕の戦いから戻って来た当日、既に自分たちの砦へと避難を済ませていたクライザ族との戦争を宣言しました。およそ一ヶ月にも渡る包囲の末、彼らは無条件降伏せざるを得ませんでした。彼らは唯一の懇願として、彼らが支持していたアラブ部族による判決を求めました。彼らは長く同盟関係にあったアウス族の長、サアド・ブン・ムアーズを選びました。彼がウフドの戦いで負った傷は、他人に抱え上げられなければならない程の重傷でしたが、彼は躊躇なく、彼らの成人男子に対し死刑の判決を下しました。
フダイビーヤ
預言者は同年、誰にも抵抗されずにマッカへと入城する夢を見たため、巡礼を決意しました。マディーナのムスリムたちの他にも、彼は塹壕の戦い以来、その数が増えていた同盟アラブ諸部族にもその同伴を要請しましたが、その大半は応答しませんでした。こうして巡礼の装いをし、神へと捧げる犠牲を伴いつつ、1,400人がマッカの旅へと出発しました。彼らがある谷間に差し掛かった時、友好関係にあった一人の男がマッカから彼らを訪れ、クライシュ族は彼らの前に騎馬隊を配置し、彼らを聖域から阻もうと決意していることを預言者に警告しました。そのため預言者は山岳地帯からの迂回を命じ、マッカ近くの渓谷にようやく辿り着いた際にはムスリムたちは疲弊していました。彼らはフダイビーヤと呼ばれる谷間に野営しました。そこから預言者はクライシュ族に対し、彼らはただ巡礼を行なう為だけに来たのであるという心意を説明し、交渉を行おうと試みました。彼が最初にマッカに遣わした使者は冷遇を受け、彼のラクダはひかがみを切断され、彼は何も伝達することが出来ずに戻って来ました。一方のクライシュ族は非常に傲慢で脅迫口調の使節団を送って来ましたが、その内の一人は預言者に対して敬意を払わなかったために厳しく注意を受けたほどでした。彼はマッカに戻った際、このように言ったとされています:“私はカエサルとホスロー(それぞれ当時のローマ帝国とササン朝ペルシャの皇帝の名)の威光を実際にこの目で確かめてきたが、ムハンマドほど仲間から尊敬されている男を見たことがなかった。”
預言者は彼らから敬意を引き出すことの出来る使者を探していました。最終的に、マッカにおいて権威を持っていたウマイヤ家出身のウスマーンが選ばれました。ムスリムたちが彼の帰りを待っていると、彼が殺害されたという知らせが入って来ます。そのとき、フダイビーヤで木の下に座っていた預言者は、全ての教友たちからこれに対して全員で立ち向かうという宣誓をさせますが、しばらくすると殺害の知らせは間違いであることが判明します。また、マッカからムスリムたちを妨害する分隊が送られて来ますが、彼らは捕らえられて預言者のもとに連れ出され、彼らは敵対の破棄を条件に解放されることになります。
フダイビーヤの休戦協定
その後、クライシュ族から正式な使節団が送られて来ました。一定の交渉後、フダイビーヤの休戦協定が結ばれます。そこには10年間の相互敵対行為の休止が明記されていました。そしてその年預言者はカアバ聖殿を訪れずにマディーナに戻り、翌年改めて巡礼を行なうことになりました。一方クライシュ族は、翌年までに彼らがそうすることの出来る準備をすると約束しました。また休戦期間中、クライシュ族側からムスリム側への逃亡者は、クライシュ族側に帰還させること、一方ムスリム側からクライシュ族側への逃亡者の帰還はされないことになりました。また預言者側の同盟として盟約の締結を希望する部族はそれが認められ、同じようにクライシュ族との盟約の締結も認められました。しかしこれらの一見不平等な条件に困惑するムスリムたちも存在しました。彼らは口々にこう言いました:“我々が約束された勝利とは一体何だったのだ?”。
その後、フダイビヤからの帰途において“勝利章”が啓示されました。事実、この休戦はそれまでムスリムたちが収めたいかなる勝利よりも大きなものをもたらしました。彼らと偶像崇拝者たちとの間の戦争はそれまで大きな障壁となっていましたが、双方の話し合いによりイスラームは急激に広まり始めたのです。休戦締結とマッカ入城までの2年間の改宗者は、それ以前の全改宗者の数を上回ったのです。預言者は1,400人を従えてフダイビーヤに向かいましたが、その2年後にマッカ側が休戦協定を破ると、10,000人のムスリムの軍隊がマッカに向けて進軍することになります。
預言者ムハンマド伝(11/12):マッカへの帰還
- より IslamReligion.com
- 掲載日時 06 Dec 2009
- 編集日時 21 Oct 2010
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ハイバルの戦い
ヒジュラ暦7年、預言者(彼に神の称賛あれ)はアラビア半島北部に位置するユダヤ人部族そしてムスリムに対する陰謀・策略の拠点、ハイバルへの遠征を率いました。それ以来、ハイバルのユダヤ人はムスリムによる支配下の借地人となりました。しかしそこで一人のユダヤ人女性が預言者への食事の中に毒を盛り、預言者はそれを口に含みましたが、唇に触れるや否やそれに気付きました。彼はそれを飲み込むことはありませんでしたが、彼が教友たちにそのことを警告した時には、既に一人のムスリムが飲み込んでしまっており、やがて死亡しました。その食事を用意した女性は後に処刑されました。
マッカへの巡礼
その同じ年、預言者の夢は正夢となりました。彼は誰の抵抗もなくマッカを訪れるのです。休戦協定に従ってマッカの多神教徒たちはその場を去り、近辺の丘陵からムスリムたちのその様子を眺めていました。
クライシュ族による休戦協定の破棄
しばらくすると、クライシュ族側の同盟部族が、預言者側の同盟部族をマッカの聖域において虐殺し、休戦協定を破るという事件が発生しました。その後になって、彼らはその行為がもたらすであろうことを恐れました。彼らはアブー・スフヤーンをマディーナへ派遣し、盟約の継続及び延長を求めました。彼らは虐殺の知らせが届く前に彼が到着することを望みましたが、彼の前には被害部族の使者が既に到着しており、アブー・スフヤーンは再び失敗することになります。
マッカ征服
預言者は戦うことの出来る全てのムスリムを集め、マッカへ行軍しました。クライシュ族は圧倒されました。彼らは騎馬隊を前線に出しましたが血を流すことなく敗走しました。そして預言者は彼の故郷に征服者として入城するのです。
マッカ居住者たちは、過去の悪行により復讐されることを予期していましたが、預言者は恩赦を宣言しました。彼らの安堵と驚きの中、全住民が忠誠の誓いに急ぎました。預言者は聖殿にあった全ての偶像の破壊を命じ、このように述べています:“真実は到来した。闇は消え去ったのだ。”こうしてムスリムによる礼拝の呼びかけがマッカに響き渡るようになるのです。
フナインの戦い
その同年、怒り心頭の多神教徒の諸部族が結集し、カアバ奪取を画策しました。預言者は彼らに対し、12,000人の軍を率いました。フナインの深い峡谷において、彼の軍隊は敵の待ち伏せを受け、一時は退却の危機に陥りましたが、困難において彼らは預言者の元に集結し、彼の護衛隊と共に断固としてひるみませんでした。やがて完全な勝利がもたらされました。敵の部族は彼らのあらゆる所有物を伴って来たため、莫大な戦利品の獲得に成功したのです。
ターイフ征服
サキーフ族は、フナインの戦いにおける敵部族の一つでした。フナインでの勝利の後、ターイフの町はムスリムによって包囲され、最終的に鎮圧されました。次いで預言者はマッカの総督を任命した後、そのままマッカに留まり、しばらくした後そこに首都を移すのではないかと危惧したアンサールたちの待つマディーナへと戻ったのです。
タブークへの遠征
ヒジュラ暦9年、シリアにおいて再び軍隊が招集されたという知らせを受けた預言者は、全てのムスリムに対してこれから行なわれる大戦役の支持をするよう呼びかけました。預言者は衰弱した体にも関わらず、真夏にシリアの前線まで軍隊を率いました。長い旅路、暑い気候、そして収穫の時期だったことや敵軍の威信という要素も相まって、それらを口実として、あるいは何の口実もなく留まる者たちが相次ぎました。軍隊はその夜、水と食料のない状態で野営し、ラクダの背後を宿としました。こうして彼らはタブークのオアシスに到着すると、いくつかの諸部族を改宗させてマッカへ帰還しました。戦役は平和裏に終了しました。軍隊はタブーク、そしてシリアとの国境へ進軍しましたが、敵軍は集結しなかったことを知ったのです。
盟約解除の宣言
マッカは既に征服され、人々はムスリムに改宗していましたが、巡礼の公式な手順は変更されておらず、多神教徒のアラブ人たちは彼らなりの方法で、そしてムスリムたちは別の方法で行なっていました。ヒジュラ暦9年に巡礼者たちの隊商がマディーナを出発したあと、つまりイスラームがアラビア半島北部において優勢となると、いわゆる盟約解除の宣言が啓示されます。その趣旨とは、その年以降ムスリムのみが巡礼を行うというものでしたが、彼らには多神教徒たちと継続中の盟約があり、彼らはその内容を一度も破っておらず、また彼らと盟約を結んでいた者たちを支援することもありませんでした。従って彼らは盟約によって定められていた特権を享受することが出来ましたが、盟約期間が失効した折には彼らの扱いは他の多神教徒同様となり、それと同時にアラビア半島における偶像崇拝は終結を迎えたのです。
預言者ムハンマド伝(12/12):別れ
- より IslamReligion.com
- 掲載日時 06 Dec 2009
- 編集日時 21 Oct 2010
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別れの巡礼
しかし終焉の時は徐々に近づきつつありました。彼はヒジュラ暦10年にハッジの巡礼を行なうため、アラビア半島全土から集まった90,000人ものムスリムと共に、マディーナから出発しました。長年の迫害に疲弊しつつも絶え間ない努力を惜しまなかった老齢の預言者によるこの凱旋の旅は、あたかも大いなる光の輪が遂に閉じたかのような黄昏の光を放っており、それは穏やかな輝きで世界を抱擁していました。
ヒジュラ暦10年、彼は巡礼者として最後にマッカの地を踏みました。それは“別れの巡礼”と呼ばれており、彼はアラファの台地において膨大な数の巡礼者を前に説教を行ないました。彼は、彼らに課されたイスラームの義務、そしていずれは各々の行いに応じて審判を下す、主との接見の日がやって来ることを思い起こさせました。話の最後に彼は訊ねました:“私はメッセージを伝えただろう?”それにより、つい数ヶ月前、または数年前には善意のかけらもなかった偶像崇拝者だった大勢がこう叫びました:“その通りです!”預言者は言いました:“神よ!あなたが証人です!”イスラームは確立され、更なる大衆を庇護する大樹となりつつありました。そして彼の役割は完遂され、重荷を下ろして次なる世界へと旅立つ準備が整ったのです。
預言者の病と死
預言者はマディーナに帰還しました。そこにはまだ残された仕事がありましたが、ある日彼は重い病に冒されました。彼は毛布に包まった状態でモスクに現れ、人々は彼の顔色から死の兆候を感じ取りました。
“もしあなた方の中に”彼は言いました。“私によって不当に鞭打ちを受けた者がいたのであれば、私の背中はここにある。今こそあなたの順番だ。そしてもし私があなた方の内の誰かの名誉を傷つけたのであれば、今私に同じことを行なうが良い。”
ある時、彼はこう言いました:
“この世に全く未練はない。この世と私との関係は、あたかも木とその木陰に庇護を求める乗り手のようである。やがて乗り手は出発し、そこを後にするのだ。”
そして次に、彼はこう言いました:
“ここには一人の神の僕がおり、神によって現世に留まるか、またはかれの御許に赴くかの選択肢が与えられた。そしてこの僕は神の御許へ赴くことを選んだのだ。”
ヒジュラ暦11年、ラビーウル=アウワル月12日(西暦632年6月8日)は、彼がモスクに入った最後の日となりました。アブー・バクルが礼拝を先導し、彼はそれを続けるよう合図しました。彼は輝かしい顔で人々を見つめていました。‘私はあの時よりも輝かしい預言者の御顔を見たことがなかった。’と、教友アナスは後に語っています。彼はアーイシャの部屋に戻ると、彼女の膝枕に頭を乗せました。彼女は彼が目を開き、次のようにつぶやいたのを聞きました:‘楽園での至高なる伴侶と共に・・・’これが彼の最後の言葉となりました。しばらくすると、彼の死の噂が飛び交いました。ウマルはその噂を流す者に対する厳しい懲罰を与えると脅し、神の使徒が死ぬはずはないとして、そう考える者は犯罪者である、と宣言しました。彼が人々に懸命にそう訴えていると、アブー・バクルがモスクを訪れ、彼の話を耳にしました。アブー・バクルは預言者の眠る彼の娘アーイシャの部屋を訪れ、事実を確認すると故人の額にキスし、モスクへ戻りました。噂は邪悪な嘘であるとし、彼らの生き甲斐である預言者が死ぬ筈はないとしたウマルの言葉を人々は聞いていました。アブー・バクルはウマルに近寄り、彼に囁きかけることで彼をなだめようとしましたが、彼は取り乱しており、それに留意しないと分かると、アブー・バクルは人々に呼びかけました。人々はそれに気付くとウマルから離れ、彼の周りに集まりました。彼はまず神を称え、イスラーム信仰の要約である次の言葉を述べました:“人々よ!ムハンマドを崇拝していた者にとり、ムハンマドは死んだのだ。しかし神を崇拝する者にとり、神は生きており、不死である。”そして彼は次のクルアーンの節を唱えました:
“ムハンマドは、一人の使徒に過ぎない。使徒たちは彼の前に逝った。もし彼が死ぬか、または殺されたら、あなた方は踵を返すのか。誰が踵を返そうとも、少しもアッラーを損うことは出来ない。だがアッラーは、感謝(してかれに仕える)者に報われる。”
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