神の擬人化(3/5):神が一人の人間となり、複数の人間が神とされるのはどうしてなのか
- より ビラール・フィリップス博士
- 掲載日時 07 Feb 2011
- 編集日時 07 Feb 2011
- プリント数: 217
- 観覧数: 27,676 (日平均: 6)
- 評価者: 0
- メール数: 0
- コメント日時: 0
神が一人の人間に
神の顕現というキリスト教の信仰は、古代ギリシャの信仰に元を辿ります。神が人間になるという用語はヨハネの福音書1:1と14に、“ 初めに、ことば(ロゴス)があった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。”そしてヨハネ書の著者はこう述べます:“ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。”ギリシャ語のロゴスは「ことば(word)」と訳されていますが、英語にはそれ(logos)に相当する単語が存在しません。その重要性は、紀元前六世紀から紀元三世紀までに専門用語として使用されたギリシャ哲学の言葉と、ユダヤ教、キリスト教思想家たち双方によって流用された事実に潜みます。 まずそれはヘラクレイトス(紀元前540−480年)によって宇宙の原理の表現として登場しましたが、アリストテレスの時代になると、実態のない力であるnousとして取って変わられ、それは物質的な力とされました。ロゴスは目的論の原理をロゴスと神であるとしたストア哲学者のシステムにおいて再現しました。アレキサンドリアで活躍したユダヤ人哲学者フィロン(紀元前50年没)は、旧約聖書の言葉をストア哲学者のロゴスを用いて解釈しました。それゆえ、ロゴスは神が世界でかれご自身を表現する方法として超越的な原理とされました。しかしロゴスは同時に贖罪的機能も持ちました。それはより高い精神的性質へ通じる手段だったのです。ヨハネの福音書においてロゴスは創造的であり贖罪的でもあります。後者の側面は前者のそれよりもより強く強調されています。1
この信仰には論理が必要とされ、原罪論と聖なる犠牲論といった概念が開発されました。アダムの罪はその子孫にまで受け継がれ、それはいかなる人間による犠牲によっても償いきれないほどに巨大なものとなり、神の犠牲が必要になると主張されています。従って神には人間の息子があり、彼自身も神の顕現であり、神そのものなのです。神の子はその後、人類の罪のため、神(つまり自分自身)への犠牲として十字架で命を落とします。神である息子はその後復活し、現在は神の玉座の右側に座り、この世の終わりに人類を裁くために待っているのです。よって人類の5分の1であるキリスト教徒にとり、神は歴史において一度だけ人間となり、彼の人間化についての信仰は救済において必須とされているのです。
人々が神に
イエスの人間性という観念から、彼が神であるというキリスト教信仰は一人の人間を神の地位に高めることと捉えることが出来ます。しかし、イスラームに追従する人々の中にも、ヒンズー教や仏教と同様、人間に神になる機会があるとする宗派があります。
彼らの信条は神秘主義に発端し、それは古代ギリシャの様々な神秘宗教にその起源を見出すことが出来ます。神秘主義とは神と結合する経験であると定義され、人の人生において最も重要な目的はその結合を求めることであると信じられています。ギリシャの哲学者プラトンはこの概念を彼の著作、特に「シンポジウム」の中で提言しています。その中で彼は、いかにして人間の魂が精神的なはしごを上り詰め、神と再び同一になることが出来るかを説明しています。2こういった信条の基礎となるものは、人間はこの物質的世界に閉じ込められてしまった神の一部であるという教えなのです。物質的な肉体は人間の魂を宿すとしています。従って彼らの信条では、魂は神性となります。この世界に閉じ込められている神の一部は物質的世界から開放され、神と再結合されなければならないといわれます。
ムスリムの中にもまさにこれと同じ概念を広めようとした宗派が誕生しました。その追従者たちは伝統的に「スーフィー」、彼らの信条システムは「スーフィズム」と呼ばれました。この用語は一般的に英語で「神秘主義」または「イスラーム神秘主義」と翻訳されました。それはギリシャの神秘主義と同じく、人間の魂は神性であり、それが神と再結合するには特定の精神的修行を行わなければならないという概念の上に成り立っています。様々なスーフィーの集団は「タリーカ」(道、または教団)
と呼ばれるカルト組織に発展しました。それぞれのカルトは実際の、または仮定の創始者にちなんで名付けられ、メンバーが厳しく従わなければならない独自の精神修行を持ちました。その大半は、追従者が規定された精神的・感情的・肉体的修行をすれば、神と同一になれると説かれたのです。この同一性は、アラビア語でファナー(融解)3、もしくはウォスール(到達)と名付けられました。「神との結合」という概念は主流のムスリム学者たちによって否定されましたが、一般大衆によって受け入れられました。10世紀のスーフィー修行者アル=ハッラージ(858−922)は彼自身が神であると公言し、様々な詩やキターブッ=タワースィーンという本などを著しました。その中で彼はこう書いています:「もしあなたが神を認識しないのであれば、最低限かれのしるしを認識しなさい。私が究極かつ絶対的真実であるのは、真実によって私は永久の真実であるからである。私の友であり教師はイブリースであり4、ファラオである。イブリースは地獄の業火によって脅かされたが、それでも彼自身と神の間の何者をも認めなかったし、私は殺され十字架に磔にされ、手足が切断されたが、私は自らの主張を取り消さない。」5
イブン・アラビー(1240年没)は神との同一性をさらに強調し、神以外には何も存在しないと主張しました。彼は著作の一つにこう記しています:「本質としてありながらもすべてのものを出現されたかれに讃えあれ。」6別の場所ではこう書いています:「かれは姿を見せるあらゆるものの本質であり、かれが姿をみせているとき、かれは隠れたものの本質なのである。かれを見るものはかれ以外にはないが、誰一人としてかれからは隠されていないのだ。なぜならかれが隠れているときでも、かれはかれ自身を表しになるからである。」7彼のこうした概念はワハダトル=ウォジュード(存在の同一性)と呼ばれ、ムスリム世界のスーフィー界において人気を博しました。
なぜ?
何が古代の人々に、神が人となったり、神と人が同一であるということを信じさせたのでしょうか?その根本的な原因とは、神が虚無からこの世界を創造したという理解と容認の欠如です。彼らは神が彼ら自身と同様に、すでに存在するものから創造するのであると知覚していました。人間は何かを創るとき、すでに存在する物質の姿形を変え、違う働きをする物質に加工します。 例えば木製のテーブルは過去、森林に存在する樹木で、釘やネジは地表下の鉱石から採れる鉄でした。人間は樹木を切り倒し、木材を卓上や支柱の形にし、また鉄鉱石を掘り出し、それを溶かして鋳型に流し込み、釘やネジを作ります。それから各部品を組み立てて様々な用途に使用出来るテーブルを作り上げるのです。同様に、人が座るプラスチック製の椅子は、過去には地球の深部に貯蔵されていた液体である石油だったのです。 人は誰かが椅子に座るように、石油に座ることを想像することが出来ません。 しかし、石油の化学成分を加工する人間の能力を通してプラスチックは精製され、人が座ることのできる椅子が製造されるのです。これは人間活動の本質であり、私たちはすでに存在する物質を単に加工・変形させているだけなのです。人は樹木や石油を創り出しているのではありません。私たちは石油の生産に関して議論しますが、それは実際には石油の採掘のことを指します。石油は何百万年もの昔に地質学的過程によって創り出されたものであり、人間はそれを地下から掘り出し、精製しているだけなのです。人間は樹木を創造したわけでもありません。たとえ私たちがそれらを植え付けたのであっても、種子という本質部分を創り出した訳ではないのです。
従って、人間は神の存在への無知から神が自分たちと同じような存在であると思い込みがちなのです。例えば旧約聖書では、「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造した。」と書かれています。ヒンズー教において、プルシャは創造神であるブラフマーを人間化したものであり、人間が身の回りの世界の物質を加工することによって物を創造することから、創造神も同じでなければならないとされます。
ヒンズー哲学において、プルシャはブラフマーの子孫であり、二千の頭に千の目を持つ巨人です。彼からその女性の片割れであり、創造過程の配偶者であるヴィラージュが発生しました。プルシャ神は犠牲としての奉納(vv. 6-10)でもあり、その切断された肉体から四つのカースト(ヴァルナ)が生まれたのです。8「リグ・ヴェーダ」10:90に収められたプルシャ賛歌によれば、ブラフミンがプルシャの口であり、クシャトリヤがその両腕、ヴァイシャがその両腿、そしてシュードラがその両足であったとされています。9神がこの世界を虚無から創造したことに対するヒンズー教の理解の欠如は、神が世界と人類を自らの肉体から創りだしたという虚構の概念をもたらすことにつながったのです。
観念や概念を理解する人間の能力には制限があり、それは有限です。人間は無限というものを把握し、理解することが出来ません。神がアダムに教えた信仰とは、神が虚無からこの世界を創造したということです。かれが何かの存在をお望みであれば、単に「在れ」と言う命令だけで過去に存在しなかったものが存在することになるのです。この世界とここにあるものはかれご自身の体から創られたものではありません。事実、神が自分の体から世界を創造したという概念は、神ご自身の存在を、他のものから何かを創りだす、創造物と同じレベルまで引き下げることになるのです。こういった信条を掲げ、それに固執する人々は神の唯一性を捉えることは出来ないでしょう。かれは唯一無比であり、かれに似通ったものは何一つありません。もしかれが世界をご自分の体から創造したというのであれば、かれは自らの創造物と似通った存在であるということになるのです。
Footnotes:
1 Dictionary of Philosophy and Religion, p. 314.
2 Colliers Encyclopedia, vol. 17, p. 114.
3 Ihyaa ‘Uloom ad-Deen, vol. 4, p. 212.
4 イスラームにおけるサタンの正式名称。
5Idea of Personality, p. 32.
6 Al-Futoohaat al-Makkiyyah, vol. 2, p. 604.
7Fusoos al-Hikam, vol.1, p. 77.
8 Dictionary of World Religions, p. 587.
9 The New Encyclopedia Britannica, vol. 20, p. 552.
コメントを付ける