大いなる疑問(2/3):なぜ私たちはここにいるのか?
- より ローレンス・B・ブラウン
- 掲載日時 06 Dec 2009
- 編集日時 21 Oct 2010
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二つの大いなる疑問の一つ目は、“私たちをつくったのは誰なのか?”というものでした。この記事の第一部では、その答えが“神”であるということで落着したかと思います。私たちは創造物であり、神がその創造主なのです。
それでは次の“大いなる質問”である、“なぜ私たちはここにいるのか?”に進みましょう。
改めて問いただしてみましょう。なぜ私たちはここにいるのでしょうか?音楽や赤ん坊をつくるため?“最も多くのおもちゃと一緒に墓場に行く者が勝者である”と冗談めかして言われているように、世界で一番の大金持ちになるためでしょうか?
いえ、人生にはそれよりも重要なものがあるはずです。そこのところを考察してみましょう。まずあなたの周りを見回して下さい。洞窟に住んでいるのではない限り、あなたは私たち人間の手によって作られた様々なものに囲まれているはずです。なぜ私たちはそれらのものを作ったのでしょうか?答えはもちろん、それらが私たちのために特定の機能を果たすためです。つまり自分たちに仕えさせるために、私たちは色々な物を作るのです。これを拡大解釈すれば、神が私たちをかれに仕えさせる目的もなく創造したなどと言うことは出来ないのではないのでしょうか?
そうだとすれば、私たちの存在目的は神に仕えることになります。私たちはこの教えを諸預言者、そして諸啓典から学んでいます。しかしそれがイスラームの聖典であるクルアーンほど、明確にされているものはありません。
“ジンと人間を創ったのはわれに仕えさせるため。”(クルアーン51:56)
そしてもしも私たちが創造主の存在、そして私たちの創造の理由はかれに仕えるためであると認めるのであれば、次の問いは“どうやって?”ということになるでしょう。私たちはどのようにしてかれに仕えるのでしょうか?この質問に対して最も良い回答を与えられるのは、私たちを創造した者でしょう。そしてもしも神に仕えるために私たちが創造されたのであれば、神は私たちがその目的を果たすために、それを特定の方法で行なうことを望んでいるはずでしょう。しかし、どうすればその特定の方法を知ることが出来るのでしょうか?どうすれば、神が私たちに何を命じているのかを知ることが出来るのでしょうか?
こう考えてみて下さい:神は私たちに光を授けられ、私たちはそれによって周りを見ることが出来ます。例え夜であれ、月は明かりとなり、星は道標となります。また神は動物に、その状況と要求に最も適した能力を与えています。渡り鳥はたとえ曇りの日であれ、光の偏光パターンを道標にすることによって迷うことがありません。クジラは地球の磁界を「読んで」移動します。また鮭は海で育った後、「臭覚」によって産卵のために生まれた川の全く同じ地点に帰って来ます。魚は自分から離れた場所の動きを、体に備え付けられた受容体によって知ることが出来ます。またコウモリやカワイルカ科は、反響定位によって辺りの位置関係を把握します。一部の水棲生物(電気ウナギの高圧電流が良い例でしょう)は磁気を発生させ、濁った水や深海の暗さのなかでも“見る”ことが出来ます。また昆虫はフェロモンによって交信し、その痕跡を利用して食糧のありかを仲間に示し、巣に戻ります。また植物は太陽光を察知し、それに向かって育ち(屈光性)、その根は重力を感じて地に根を張るのです(屈地性)。これらを一言で言えば、神が全ての要素に渡って導きを授けているということなのでしょう。それでは、神が私たちにとって最も重要な要素である、自らの存在意義(レゾン・デートル)に対して導きを授けられないこと、またはかれが私たちに救済の手段を授けられないということは有り得るでしょうか?
無論、そんなことは有り得ないでしょう。啓示はそれゆえに下されたのです。
またはこのように考えることは出来ないでしょうか:あらゆる製品には明細と規定があります。それが複雑で直感的に扱えないものには、取り扱い説明書が付属しています。説明書とは、その製品を最も良く知る者、つまり製造者によって記されているでしょう。一般的に説明書には間違った取り扱いに対する注意書きやその危険性、また適切な取り扱い法とそれによって得られる有益さ、そしてその仕様や困った時の対処法などが記されているはずです。
啓示は、これと同じことなのです。
啓示とは、私たちが何をし、何をしないべきか、そしてその理由がなぜなのかを私たちに告げ知らせ、神が私たちに何を望んでいるのか、いかにして私たちの過ちを正すのかを教えてくれます。啓示とは究極的な説明書/手引書であり、私たちの自分自身の使用法に対して導きをもたらしてくれるのです。
この世界では、その明細事項に忠実、もしくはそれを上回る機能を提供する製品は成功と見なされ、もてはやされます。一方そうでないもの、つまり製造者の機能詳細に準じない製品は修理されるか、廃棄物として再利用されます。分かりやすく言えば破壊されるのです。この辺でようやくこの議題は真剣さを帯びて来ましたね?というのもこの議論において私たちは、創造主によって管理された製品であると言えるからです。
ここで私たちの生活にありふれた道具に関して、更に考えてみましょう。それらが私たちの要望を満たす限り、私たちは満足します。しかしそれらが適切な働きをしなくなると、私たちは処分します。一部は購入店に返品され、また一部は誰かに寄贈されたりすることもあるでしょうが、やがては皆ゴミ箱に捨てられ、埋められるか焼却されるかするのです。同じように、能力の乏しい社員や従業員は解雇(fire)されます。この言葉に関して考察してみましょう。能力の乏しい者への罰として使われる、この婉曲語句の“fire”はどこから来たのでしょうか?宗教的な教訓を信じる者が現世における教訓に置き換えて生み出した言葉なのかも知れませんね。
これらの類推が単なる冗談であるとされてはダメです。実際にはその逆なのです。私たちは旧約・新約聖書は類推に溢れており、イエスがたとえ話や比喩を駆使して彼の教えを説いたことを忘れてはなりません。
それゆえ、私たちはこの件に関して真剣に受け止めなければなりません。天国の至福と地獄の拷問の違いを笑い話として受け止める人々はいないのですから。
Copyright © 2009 Laurence B. Brown.
著者のローレンスB. ブラウン博士について:
彼とは、BrownL38@yahoo.comから連絡をとることが出来ます。彼はThe First and Final Commandment (Amana Publications)と、Bearing True Witness (Dar-us-Salam)を著しています。近刊書として、歴史物のThe English Scrollと、第2版のThe First and Final CommandmentがMisGod’ed、続編のGod’edとして書き直され、分割されています。
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