イスラームにおける社会的連帯(上):信仰の絆
説明: 社会に連帯の基礎を築くこととは。
- より ジャマールッディーン・ザラボゾ
- 掲載日時 27 Aug 2012
- 編集日時 27 Aug 2012
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社会は人種、民族、宗教において異なる、一人一人の個人によって構成されています。今日の多元的社会について、そしてそういった社会において、いかにして社会的連帯を達成することが出来るのか、という話を良く耳にするようになりました。この問題に関するイスラームのアプローチは、独特なものです。その過程において、イスラームは可能な限りの強力な絆を築き上げます。
最も強い絆というものの説明に入る前に、イスラームは社会的不調和の最たる根幹、つまり人種差別と偏見を根絶するということに言及しなければなりません。国家はいくらでも法を制定することが出来ますが、心の中にそういった病が根付いている限り、社会的連帯は決して実現しません。欧米でなされている移民についての議論が、この事実をよく反映しています。「外国人」に対する嫌悪感は、たとえ彼らが社会におけるれっきとした市民であったとしても、社会的連帯を常に妨げるのです。
イスラームはこうした病を一つの節によって払拭しました。神はこのように述べています。
“人びとよ、われらは一人の男と一人の女からあなたがたを創り、種族と部族に分けた。これはあなたがたを、互いに知り合うようにさせるためである。神の御許で最も貴い者は、あなたがたの中最も主を畏れる者である。本当に神は、全知にしてあらゆることに通暁なされる。”(クルアーン49:13)
それゆえ異なる人種や様々な民族は、ムスリムにとっての社会的連帯の達成において影響しないのです。しかしながら、イスラームが考慮に入れる区別というものも存在しています。それは信仰と宗教の違いです。それゆえ、ここにおける社会的連帯の議論は、宗教における多元的社会に的を絞ったものとなります。
信仰の絆
人々の間の最も強い絆について尋ねたとしたら、その答えの大半は血縁関係、民族的出自、国籍などに基づいたものとなるはずです。実際クルアーンでは、これらの種類の絆はその下にある基盤が弱い限り、大して強いものとはならないということを示しています。神はクルアーンにおいて、実の兄弟を殺害したカインとアベル、そしてヨセフを井戸に放り込んだヨセフの兄弟たちの例を示しています。彼らは血縁関係で結ばれていましたが、そういった関係よりも私欲を優先しました。こうしたことは現在、世界中で顕著に見られます。人々の間の絆は、彼らの現世における願望、目標、欲求に屈従するものです。多くの人は、現世の欲望ため、自らの身内や友人を売り渡すことすら厭いません。
これらすべては、一つのことを指し示します。人々の絆が世俗的願望に基づいたものであれば、たとえそれが血縁の絆であれ、世俗的願望がそれを要求する限り、そういった絆は破られるのです。それゆえ、そういった絆は人々が築くことのできる最も強い絆ではありません。人が勝ち取ることの出来る最も強い絆とは、イスラームと真の信仰に基づいた絆なのです。それは、神への信仰と、彼らによる神への愛情の結果として、人々の間に打ち立てられる絆です。このことは、神によってクルアーンの中で明確に指摘されています。
“またかれは、かれら(信仰者)の心を一つに結ばれる。あなたがたとえ地上の一切のものを費やしても、あなたはかれらの心を一つに結ぶことは出来ない。だが神はかれらを結合させる。本当に神は偉力ならびなき英明な御方であられる。”(クルアーン8:63)
神はこのようにも述べられています。
“あなたがたは神の絆に皆でしっかりと縋り、分裂してはならない。そしてあなたがたに対する神の恩恵を心に銘じなさい。初めあなたがたが(互いに)敵であった時かれはあなたがたの心を(愛情で)結び付け、その御恵みによりあなたがたは兄弟となったのである。あなたがたが火獄の穴の辺りにいたのを、かれがそこから救い出されたのである。このように神は、あなたがたのために印を明示される。きっとあなたがたは正しく導かれるであろう。”(クルアーン3:103)
クルアーンとスンナは、信仰の絆があらゆる絆の中でも最も強い絆であることを示しています。それは、世界中の人間を、唯一なる神への崇拝の確立という、一つの目的でもって連帯させるのです。この目的を達成させるため、ムスリムはお互いを思いやり、慈悲と愛情によって相互の扶助に務めます。
ムスリムが一つの普遍的・国際的な同胞愛を育ませることは、無数のクルアーンとハディースのテキストから論証されています1。ここでは簡潔に、その中からの数例を取り上げてみます。
神はこう述べています。
“男の信仰者も女の信仰者も、互いに仲間である。かれらは正しいことをすすめ、邪悪を禁じる。また礼拝の務めを守り、定めの喜捨をなし、神とその使徒に従う。これらの者に、神は慈悲を与える。本当に神は偉力ならびなく英明であられる。”(クルアーン9:71)
別の節では、このように述べられます。
“信仰者たちは兄弟である。”(クルアーン49:10)
神はこのようにも述べます。
“ムハンマドは神の使徒である。かれと共にいる者は不信仰の者に対しては強く、挫けず、お互いの間では優しく親切である。”(クルアーン48:29)
預言者(神の慈悲と祝福あれ)はこう述べました。
“信仰者同士は一つの建物のようであり、一つ一つがお互いを支え合うのである。”(サヒーフ・ブハーリー、サヒーフ・ムスリム)
別のハディースにはこのようにあります。
“信仰者による他者に対する愛情、慈悲、思いやりは身体にたとえることが出来る。身体の一部が痛むのであれば、その身体全体が不眠や熱で苦しむのだ。”(サヒーフ・ムスリム)
イスラームにおける、この偉大な同胞愛は単に理論上だけのことではありません。それは実際に、実践的ガイダンスによって指示されているのです2。それには基本的な構成要素、特定の権利、義務がクルアーンとスンナによって明記されています。これらの権利と義務は、あらゆる時代と場所の全ムスリムに課されているのです。
Footnotes:
1 こうした同胞愛は、共通の信仰を基盤としていることを認識することが重要です。血縁関係は宗教の違いによって終止符が打たれるのです。神はノアとその息子に関して述べます。“ノアはかれの主を呼んで申し上げた。「主よ、わたしの息子は(わが)家の一員です。あなたの約束は本当に真実で、あなたは裁決に最も優れた御方であられます。」かれは仰せられた。「ノアよ、かれは本当にあなたの家族ではない。かれの行いは正しくない。”(クルアーン11:45−46)したがって、非ムスリムはこうした同胞愛の枠組みには含まれません。しかし、彼らがイスラームを受容することによって、この人種・民族・国籍を枠を超越した同胞に加わることは大歓迎されます。さもないと、彼らは異なる宗教と信条によって、この同胞愛には含まれないことを自ら選択しているのです。後述されるように、ムスリムはそうした非ムスリムに対する義務をも負うのです。
2 イスラームにおいて私たちが、求める目標に到達することを助ける詳細な教えを見出すことが出来ることと同時に、それが極めて実践的かつ人間性に沿ったものであることは多大なる恩恵です。そうした教えの欠如こそ、キリスト教が直面している最大の問題の一つなのです。新約聖書において、社会的連帯に関する最大の教えは、イエスの「厳しい言葉」として知られるものです。それはこのようなものです。「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(ムスリムはイエスの言葉が適切に保持されてはいなかったことを承知しており、イエスが本当にそう言ったのかどうかは定かではないことが言及されるべきでしょう。)キリスト教学者たち自身も困惑しています。こうした明らかに不可能、あるいは非実践的な教えがいかにして実践されるべきなのでしょうか。いかにそれが混乱したものかを知るには、これに関する議論の例を一つ挙げるだけで十分でしょう。「(これらの言葉を解釈のため)ヨーアヒム・イェレミーアスによって提示されたモデルは単純、典型的、かつ持続的な影響力を持つものです。このモデルによれば、件の説教は次の三つのうちのどれか一つに当てはめられます。?完全主義的な規定として、ラビ・ユダヤ教の律法主義と完全に一致するもの。?実践不可能な理想的観念として、まず信者を絶望させ、それから神の慈悲を信じさせることへと導くもの。?「暫定的倫理」として、終末の待機期間の一時だけに求められる、現在では廃棄されたもの。イェレミーアスは独自に第四の説を挙げます。それは、件の説教は神の王国の初期の人生における暗示的表現であり、変節の経験の状況の可能性をあらかじめ仮定したものだというものです。より複雑で、包括的な図式化は提示されましたが、主要な解釈者の大半はイェレミーアスによって提示された選択肢に関連して理解することが出来ます。」Lisa Sowle Cahill, Love Your Enemies: Discipleship, Pacifism, and Just War Theory (Minneapolis, MN: Fortress Press, 1994), p. 27.
イスラームにおける社会的連帯(中):イスラーム的同胞愛
説明: 同胞愛において必要な要素と、社会の同胞愛を達成するためイスラームによって定められた様々な実践的方法。
- より ジャマールッディーン・ザラボゾ
- 掲載日時 27 Aug 2012
- 編集日時 27 Aug 2012
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こうした同胞愛において必要な要素の一つは、愛情です。つまり、すべてのムスリムには同胞を愛する義務があるのです。事実、ムスリムは自分と同様の愛情を他者に注ぐべきなのです。預言者(神の慈悲と祝福あれ)はこう述べています。
“あなたがたは自分のために望むものを同胞のために望むようになるまでは、真に信仰したことにならない。”(サヒーフ・ブハーリー、サヒーフ・ムスリム)
こうした同胞愛において次に必要な要素は、相互扶助です。同胞が抑圧や不正を受けているなら、可能な限り、心と富をもって助け合うべきなのです。このことは次の節によって叙述されています。
“あなたがたはどうして、神の道のために戦わないのか。また弱い男や女や子供たちのためにも。かれらは(祈って)言う。「主よ、この不義をなす(マッカの)住民の町から、わたしたちを救い出して下さい。そしてわたしたちに、あなたの御許から一人の保護者を立てて下さい。またわたしたちに、あなたの御許から一人の援助者を立てて下さい。」”(クルアーン4:75)
同胞愛における三番目に必要な要素は、信仰者同士の慈悲と優しさです。これには他者に対する単純な愛情だけでなく、同胞一人一人が他者の置かれた状況に心から共感することです。預言者はムスリムについて、このように説明しています。
“信仰者の持つ相互の愛情、愛着、共感は、身体として例えることができる。身体の一部が痛むのであれば、身体全体が熱や不眠として影響されるのである。”(サヒーフ・ムスリム)
同胞愛における必要な要素の最後は、奉仕です。真の同胞愛は、実践されなければなりません。それが単なるリップサービスであってはならないのです。イスラームの素晴らしく美しい要素の一つには、いかに目的を達成すればよいのかを個人の裁量に任せるような、不確定なレベルに留まらないことが挙げられます。例えば、預言者は人が同胞から期待することの出来ること、また人が同胞に対して行うことの出来る特定の行為の詳細を述べています。預言者は、奉仕における義務行為として六つの事柄に言及しています。
“ムスリムが相手に対して有する権利は六つである。相手と会ったときには挨拶をすること。食事に招待されたときには快諾すること。真摯な助言を求められたときにはそれに応じること。相手がくしゃみをして「アルハムドリッラー(神に讃えあれ)」と言ったときには「ヤルハムカッラー(神のご慈悲がありますように)」と返すこと。相手が病気のときは訪問すること。相手が死んだときには葬儀に参列すること。”(サヒーフ・ムスリム)
これら六つの実践以外にも、イスラーム法はムスリムたちが信仰者同士の愛情と親近感を育ませるものを提供します。それは法の目的そのものでもあるのです。例えば、あるムスリムが相手を神のために愛したのであれば、そのことを伝えるべきです。預言者はそうすることの理由を次のように説明しています。
“あなたがたの内の誰かが、神のために同胞を愛したのなら、その絆をより持続させ、愛情をより確立させるために、そのことを伝えるべきである。”1
また、預言者はこうも述べています。
“私の魂がその御手の中にある御方にかけて。あなたは信仰するまでは天国に入れないであろう。そしてお互いを愛するまでは信じたことにはならない。実に、そのことを確立させるものについて告げよう。あなたがたの間に平安を広めることである。”(サヒーフ・ムスリム)
このハディースは平安の挨拶を広めること、または実際に相互の平安と連帯をもたらす行為をすることのどちらも意味します。
また、預言者は贈り物をし合うことの重要性についても述べています。
“贈り物を交換し合えば、お互いに愛するようになるであろう。”(アッスユーティー)
預言者はお互いに訪問し合うことを推奨して、こう述べています。
“時にはお互いを訪問すれば、愛情は深まるであろう。”(アッタバラーニー)
これらの好ましい行為に加え、禁じられた行為を慎むのであれば、対人関係においても好ましい結果が見て取れるようになるでしょう。言い換えるなら、陰口、誹謗中傷、嘘、欺き、ストーカー・スパイ行為などをしなければ、イスラームが明確に禁じたそれらの悪行を謹んだことにより、善いことだけが結果として現れるのです。
それゆえ、ムスリム間の社会的連帯は、イスラームにおいて最も望ましい目標の一つであると結論付けることが出来ます。さらには、その目標が実行可能であるような、実践的な模範が示されています。
イスラームにおける社会的連帯(下):ムスリムと非ムスリム
説明: 信仰の相違によって摩擦と対立が引き起こされるような多元的社会において、連帯を実現させることの出来る方法とは。
- より ジャマールッディーン・ザラボゾ
- 掲載日時 03 Sep 2012
- 編集日時 10 Sep 2012
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ムスリムと非ムスリム
当たり前のことながら、社会はムスリムだけによって構成されているのではなく、ムスリムと非ムスリムは非常に異なる道を歩んでいます。ムスリムの人生は、神への信仰を軸として回転しています。同様に、ムスリムによる他者への対応は、その人の神に対する態度によって決まります。神に背き、神への服従を拒否し、神への信仰を嘲笑うような者に対し、ムスリムが完全な親近感を感じることは不可能です。そのような両者に完全な愛情が育まれることは、単に不自然なことでしかありません1。しかし、そうした負の感情にも関わらず、ムスリムは非ムスリムに対して公正な態度で接しなければなりません。それはすべての非ムスリムに適用されます。多くの非ムスリムはムスリムに対して全く敵対的ではない一方、明らかに軽蔑的な態度を取る者や、憎悪を持つ者たちも多く存在しています。2
非戦闘員の非ムスリムに対する基本的処遇の原則としては、次のクルアーンの節において見出すことが出来ます。
“神は、宗教上のことであなたがたに戦いを仕掛けたり、またあなたがたを家から追放しなかった者たちに親切を尽し、公正に待遇することを禁じられない。本当に神は公正な者を御好みになられる。”(クルアーン60:8)
不信仰者に対する重要な義務とは、適切で公正な処遇です。このことは著名なイスラーム学者のシャイフ・イブン・バーズによっても述べられています。
“もし非ムスリムがイスラーム国家の市民であるか、もしくは保護の対象なのであれば、(ムスリムはそのような)他者の生命、富、名誉を脅かしてはなりません。他者の権利は尊重すべきなのです。盗みによって人の富を脅かしたり、嘘をついて騙したりしてはならないのです。彼らに虐待や殺害のような肉体的危害が加えられてもなりません。国家による保証は、彼らをそういったものから保護するのです。3”
ムスリムは、例えば売買、賃貸などにおいて非ムスリムと取引をすることが出来ます4。さらには社交的水準においても、会食などの交流が可能です。しかし、社会的慣習などの相違から、そういった交流は自然と限定的になります。ムスリムによる非ムスリムとの交流の究極的な目的は、彼らをイスラームに導き、それを通して彼ら同士の同胞愛の道を開くことだと言えるでしょう。たとえ非ムスリム側が敵対的で無礼であったとしても、その悪をはねつける方法は善行によるものであることをムスリムを知っているのです。神はこう述べています。
“善と悪とは同じではない。(人が悪をしかけても)一層善行で悪を追い払え。そうすれば、互いの間に敵意ある者でも、親しい友のようになる。”(クルアーン41:34)
イブン・バーズは要約してこのように述べています。
“ムスリムがイスラーム的礼節をもって不信仰者と接することは、彼らがムスリムに対して戦闘を仕掛けてきているのではない限りは義務行為です。ムスリムは彼らとの信頼関係を保ち、彼らに対して欺くことも、裏切ることも、嘘を付くこともしてはなりません。もし彼らとの議論や論争が巻き起こったのなら、最善の態度で臨み、公正な議論を行うべきです。このことは神の命令に従うことでもあるのです。”
“また啓典の民(ユダヤ・キリスト教徒)と議論するさいには、立派な(態度で)臨め。しかし、かれらの中不義を行う者に対しては別である。”(クルアーン29:46)
ムスリムは彼らに善を勧め、助言を与えると同時に、彼らに対して辛抱強くあり、隣人関係を築き、親切にすることが奨励されています。なぜなら、神は次のように述べているからです。
“英知と良い話し方で、(凡ての者を)あなたの主の道に招け。最善の態度でかれらと議論しなさい。”(クルアーン16:125)
また、神はこのようにも述べています。
“…人びとに善い言葉で話し…”(クルアーン2:83)5
ムスリムと全体としての社会
ムスリムがある国家に居住することを了承したのであれば、彼は本質的にはその国家の法律を順守するという協定を結んだことになります。ムスリムであるから、またはそこがイスラーム国家ではないからといって、ムスリムにその国の法律を破る権利はないのです。それゆえ、この章で述べられた適切な態度の原則は、ムスリムにとっていかなる場所においても適用されるのです。現在の大半の国では、ムスリムにとって禁じられたことが合法とされています。それらの「合法」とされた物事を、ムスリムは避けなければなりません。また、彼は基本的権利を駆使し、イスラームにおいて禁じられたことを強要されないように要求しなければなりません。彼は法を順守する市民でなければならないことが大前提なのです。
それに加え、ムスリムは居住する社会にとってプラスの存在でなければなりません。彼は様々な面においての模範的市民であるべきなのです。既述されたように、彼は良き隣人であるべきですし、彼にはどこにいるのであれ、勧善懲悪の義務があります。また、彼は殺人、強盗、窃盗など、大半の社会が凶悪犯罪であると見なすものを忌避しなければなりません。さらに、彼はアルコールやドラッグの消費も禁じられており、社会に対して自らの弱さや依存性を負担とさせてはならず、他人に対しても公正で義にかなったやりとりをしなくてはならないのです。
イスラームでは、個人が自らの国家を愛し、生まれ育った土地に親近感を持つことは自然なことであると認識します。過去にムスリムたちが多神教徒の支配下にあったマッカから追い出されたとき、彼らの多くはマッカへの愛情を表明しました。それゆえ、ムスリムが居住する土地がどこであれ、そこへの愛着を持つことは、たとえそこがイスラーム国家でなくとも自然なことなのです。故郷にとって最善のことを望むのもまた、自然なことです。しかし、何が「最善」であるのかという観念は他者によって共有・評価をされないかもしれません。たとえば、ムスリムはギャンブル、売春、ポルノの撤廃を望むでしょう。それがムスリム・非ムスリムを問わず、人間にとって最善であるとムスリムは見なすからです。しかしながら、多くの非ムスリムはそうした感情を共有しないでしょう。こうしたことが難題なのです。理論上は、現代の「自由」社会において、これは問題にはならないはずなのです。非ムスリム国家の中の多数派に優勢的な文化の中で、少数派であるムスリムは他者に危害を及ぼすことなく、自分たちの価値観・習慣に基づいた生活は出来るはずなのです。もし、「自由」な国家がムスリムにそうすることを許さないのであれば、それは彼らが自分たちの理念に忠実ではないことを示します。ムスリムは彼らに危害を加えようとはしないどころか、優勢的な文化における異なったライフスタイルを取り入れつつも、善良な市民であることを心がけるだけなのです。
結論
多元的社会においてさえ、イスラームの教えは社会的連帯を訴えます。第一に、そうした連帯に対する大きな障害である人種差別と偏見が取り除かれます。第二に、イスラームを信仰する者同士の愛情と絆が結ばれます。第三に、信仰外の人々には、明確で決定的な指示により、公正で適切な態度に基づいた対応が取られます。第四に、ムスリムは周囲にいる人々に対する自らの責任を理解し、さらなる社会的連帯と良き感情を促進するため、すべての面において貢献出来るよう努力するのです。
Footnotes:
1 このことは世俗主義者たちにとっても同様の事実です。政治における左翼と右翼はお互いに対して蔑み、敵意を隠しません。
2 ムスリム国家が非ムスリム国家と戦争をするような事態も発生します。交戦状態は人類の歴史において珍しい現象ではなく、必ずしも将来的な協力関係への発展を否定するものでもありません。事実、欧州諸国はときには100年以上に渡って戦争に明け暮れましたが、現在では欧州連合として連帯しています。交戦状態は、そのようなムスリムと非ムスリムの関係に影響を与えます。しかし、それは現在の世界において一般的なケースではないゆえ、そういったケースの議論はこの論考の範囲を超えるものです。
3 Ali Abu Lauz, compiler, Answers to Common Questions from New Muslims (Ann Arbor, MI: IANA, 1995), p. 30.
4 非ムスリムの親戚や隣人に関する問題は既に取り上げられています。
5 Ali Abu Lauz, Answers, p. 42.
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