アブラハムの物語(1/7):概観
- より IslamReligion.com
- 掲載日時 09 Jan 2012
- 編集日時 30 Jul 2023
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クルアーンにおいて最も注視を向けられている預言者の一人が、預言者アブラハムです。クルアーンでは、神に対する彼の揺るぎない信仰心が描写されています。彼はまず偶像崇拝をしていた彼の民を拒み、その後には神による数々の試練に打ち勝ってきました。
アブラハムはイスラームにおいて、人々に唯一神の崇拝を説いた、純粋かつ厳格な一神教徒として見なされています。この信仰によって彼は多大なる困難に直面し、家族や同郷の人々との関係を絶ち、様々な土地への移住を余儀なくされたのです。彼こそは、様々な試練を通して神の戒律を守り抜いた人物でした。
ノアのように、彼以前の預言者たちも同じ信仰へと呼びかけていました。それにも関わらず、アブラハムの信仰心の強さゆえに、クルアーンは唯一なる真の宗教を「アブラハムの道」と表現しています。彼による神への不断の服従により、神は彼に「寵愛を受けたしもべ」を意味する「ハリール」という特別な称号を授けました。それは彼以外の預言者には与えられなかったものです。アブラハムの卓逸性により、神は彼の子孫からイシュマエル、イサク、ヤコブ(イスラエル)、そしてモーゼといった諸預言者を選びました。
アブラハムのこうした高い地位は、ユダヤ教、キリスト教、そしてイスラームにおいて共有されています。ユダヤ教は、彼が戒律のすべてをそれらが啓示される前に守りぬいたこと、そして唯一なる真実の神の存在を最初に認識したことから、彼を徳の権化と見なしています。神は連続的な啓示を彼から開始したため、彼は選民たちの父、諸預言者の父とも見なされています。彼はキリスト教においても、すべての信仰者たちの父(ローマ人の手紙4:11)と見なされ、彼の神に対する信託と犠牲は、後世の聖人たちにとっての模範とされています(ヘブル書11)。
アブラハムがこのような重要性を与えられていることからも、彼の人生と、神が彼に与えたものの意味を学ぶ価値は十分あるはずです。
クルアーンとハディースはアブラハムの人生の詳細を記述するのではなく、注目に値する一定の事実のみを提供しています。クルアーンやバイブルに登場する他の人物同様、クルアーンとハディースは過去の宗教による間違った考えを解明するため、彼らの人生の側面を伝えると同時に、特筆されるべき信念やモラルを含む逸話を伝えるのです。
彼の名前
クルアーンにおいて、彼は「アブラハム」と同じ語源から来る「イブラーヒーム」または「イブラハーム」という名が与えられています。彼はバイブルにおいては、まずアブラムと呼ばれていましたが、神が彼の名をアブラハムに変えたとされています。クルアーンはこの件に関して肯定も否定もせず沈黙しています。近代のユダヤ・キリスト教学者たちは彼の改名の話とそれぞれの名の意味に関して疑問を呈し、「言葉遊び」であると切り捨てています。古代アッシリア研究者たちはヘブライ語の文字「ハ」は、ある方言では長母音なしで筆記され、アブラハムとアブラムの違いは単なる方言であるとしています1。同様のことが、同じ意味を持つ二つの名前であるサライとサラに関しても言えるのです2。
彼の故郷
アブラハムは、イエスよりも推定2166年早く、現在のバグダードから南東におよそ300キロ離れたメソポタミア3の都市ウル4に生誕したとされています5。バイブルでは、彼の父は偶像崇拝者であり、その名を「アーザル」「テラ」または「テラフ」とされ、ノアの長男セムの子孫でした。一部の聖書釈義学者によれば、彼がアーザルと呼ばれたのは、彼が献身していた偶像の名から来るのではないかと推測されています6。彼は紀元前三世紀頃にアラビア半島からメソポタミアに移住したセム族の子孫であるアッカド人であったとされています。
どうやらアブラハムが人々と対立する前の幼少時代、アーザルは彼の親族数人と共にハッラーンに移住したようですが、ユダヤ・キリスト教の伝承7では、後にアブラハムが故郷で拒絶された後だとしています。バイブルでは、アブラハムの兄弟の一人ハランが「彼の故郷の地(創世記11:28)」であるウルで死んだとされますが、彼はアブラハムよりも年長で、別の兄弟ナホルがハランの娘を妻として娶った(創世記11:29)とされます。またバイブルではアブラハムによるハッラーンへの移住についても言及されてはいませんが、移住の第一の戒律は、既に居住していたかの如く、ハッラーンからの移住でした(創世記12:1−5)。第一の戒律がウルからカナンへの移住であったと見なすなら、地理的に不合理であるばかりでなく、アブラハムが家族と共にハッラーンに住み、父親をそこに残してその後カナンに移動するということは意味がないように思えます(地図参照)。
クルアーンではアブラハムの移住について言及されていませんが、アブラハムが彼の父、そして部族との関係を(彼らの不信仰から)断絶した後については言及しています。その当時に彼がウルにいたのであれば、不信仰に陥ったあと部族の人々とアブラハムを拷問し、その後彼とハッラーンに行くことは合理性に欠けます。彼らが移住の決断をしたことについては、老古学的な証拠からも、ウルがアブラハムの生前に勃興・崩壊をしたため8、環境的な困難さから移住を余儀なくされたものと見なされています。つまり、彼らがハッラーンを選んだのはウルと同じ宗教を共有していたからであると予測されているのです9。
メソポタミアの宗教
アブラハムの時代にさかのぼる考古学的発見は、メソポタミアの宗教的生活がどのようなものだったかを明らかにしました。当地の住民は、それぞれの影響圏を有する神々の存在を信じていた多神教徒だったのです。アッカド人10の月の神であるシンには巨大な神殿が捧げられ、そこはウルの中心地となっていました。またハッラーンでも最高神として月が祀られていました。この神殿は、神にとっての物理的な家であると信じられていました。神殿の最高神は木製の偶像であり、そこには最高神に仕えるその他の神々の偶像が祀られていました。
神の知識
ユダヤ・キリスト教学者たちは、アブラハムが神を認識した年齢について3歳、10歳、または48歳11かで見解を異にしますが、クルアーンでは彼がいつ最初の啓示を受けたかという特定の年齢には触れられていません。しかし、クルアーンが彼を「若者」と言及しているように、どうやら彼が若い頃、父親に唯一神の崇拝を呼びかけ、彼の父にはなかった知識を自らが有していたと宣言したことから、その噂が人々に広まり、人々は彼の処刑を試みたのだということを、クルアーンは述べています(19:43)。クルアーンは、彼が啓示の下された諸預言者の一人であることを明確にしています:
“実にこれは、過去の諸啓典にあったもの。アブラハムとモーゼの諸啓典にあったもの。”(クルアーン87:18−19)
Footnotes:
1 Abraham. The Catholic Encyclopedia, Volume I. Copyright © 1907 by Robert Appleton Company. Online Edition Copyright © 2003 by K. Knight Nihil Obstat, March 1, 1907. Remy Lafort, S.T.D., Censor. Imprimatur. +John Cardinal Farley, Archbishop of New York. (http://www.newadvent.org/cathen/01051a.htm)
2 Sarah. The Catholic Encyclopedia, Volume I. Copyright © 1907 by Robert Appleton Company. Online Edition Copyright © 2003 by K. Knight Nihil Obstat, March 1, 1907. Remy Lafort, S.T.D., Censor. Imprimatur. +John Cardinal Farley, Archbishop of New York.) (Abraham. Charles J. Mendelsohn, Kaufmann Kohler, Richard Gottheil, Crawford Howell Toy. The Jewish Encyclopedia.
3 メソポタミア:チグリス川とユーフラテス川の間の沖積平野であり、過去のペルシアの一部、現在のイラクにあたります。メソポタミア文明はメソポタミアに生まれた文明を総称する呼び名で、世界最古の文明であると言われています。メソポタミアは、数多くの文明によって征服されました。それら諸文明の中には、シュメール、バビロニア(バビロン)、アッシリア、アッカド(ムロデ王国の四つの都市の一つ)、エジプト文明、ヒッタイト、そしてエラム古代王国があります(ウィキペディアより)。
4 ヘブライ人の祖先であるアブラムは、カルデア王国のウルに生まれたとされています。バビロニア南部のユーフラテス川西岸は、現在ではムガイル、またはムガイヤルと呼ばれています(Easton’s 1897 Bible Dictionary)。
5 著名なムスリムの歴史学者であるイブン・アサーキルは、この見解の信頼性を承認しており、彼がバビロン出身であると述べています。イブン・カスィール著の「カサス・アル=アンビヤー」参照。
6 Stories of the Prophets, ibn Katheer. Darussalam Publications.
7 バイブルではアブラハムの人生についての記述が非常に少ないため、彼について信じられていることはタルムードや律法学者によるその他の著書といった、ユダヤ・キリスト教のいくつかの言い伝えに基づいたものです。ユダヤ・キリスト教のバイブルや口伝における多くの記述は伝説と見なされており、それらは確証の手段のないものです。参照:(Abraham. The Catholic Encyclopedia, Volume I. Copyright © 1907 by Robert Appleton Company. Online Edition Copyright © 2003 by K. Knight Nihil Obstat, March 1, 1907. Remy Lafort, S.T.D., Censor. Imprimatur. +John Cardinal Farley, Archbishop of New York.) (Abraham. Charles J. Mendelsohn, Kaufmann Kohler, Richard Gottheil, Crawford Howell Toy. The Jewish Encyclopedia. (http://www.jewishencyclopedia.com/view.jsp?artid=360&letter=A#881)
8 (http://www.myfortress.org/archaeology.html)
9 (http://www.myfortress.org/archaeology.html)
10 アッカド:メソポタミア(現在のイラク)南部を占めるバビロニアの北半分の地域、またはそこに興った最古の帝国(ウィキペディアより引用)。
11 Gen R. xxx. Abraham. Charles J. Mendelsohn, Kaufmann Kohler, Richard Gottheil, Crawford Howell Toy. The Jewish Encyclopedia. (http://www.jewishencyclopedia.com/view.jsp?artid=360&letter=A#881).
アブラハムの物語(2/7):人々への呼びかけ
- より IslamReligion.com
- 掲載日時 09 Jan 2012
- 編集日時 28 Jan 2022
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アブラハムとその父
彼の周りの人々と同じように、アーザルも偶像を崇拝していました。バイブルの伝承1によると、彼は実際に偶像の彫刻家2であったため、アブラハムの最初の呼びかけが彼に向けられたのだとされます。アブラハムは彼に対して、誰にとっても理解出来るような明確な論理、そして良識をもって語りかけました。
“またこの啓典(クルアーン)の中で、アブラハム(の物語)について述べよ。実に彼は正直者であり預言者であった。彼が父にこう言った時を思え。「父よ、なぜあなたは見聞きの出来ない、また僅かの益をも与えないもの(木石の偶像)を崇拝なさるのでしょうか。父よ、あなたが授かっていない知識が、今、確かに私に下されました。だから私に従ってください。私はあなたを正しい道に導くことでしょう。”(クルアーン19:41−43)
彼の父は、拒絶反応を示しました。いかなる人物であれ、自分よりもはるかに年下の者から挑戦されれば、そのような反応をするのかもしれません。それは、長年に渡る伝統への挑戦でもありました。
“彼(父)は言った。「アブラハムよ、おまえは私たちの神々を拒否するのか。もしそれを止めないなら、必ずおまえを石撃ちにするであろう。さあ永久に私から離れ去れ。」”(クルアーン19:46)
アブラハムと人々
虚偽の偶像への崇拝を止めるよう促す父親への絶え間ない呼びかけの後、アブラハムは人々へ向けて警告を始めました。それは同様の単純な論理に基づいたものでした:
“アブラハムの物語を彼らに語りなさい。彼が父親と彼の人々に向かって、「あなたがたは何を崇拝するのですか。」と言った時を思い起しなさい。彼らは言った。「私たちは偶像を崇拝し、いつもこれに仕えるのです。」彼は言った。「あなたがたが祈る時かれら(偶像)は聞くのか。またかれら(偶像)は、あなたがたを益するのですか、それとも害するのですか。」彼らは言った。「いや、私たちの祖先が、こうしているのを見たのです。」彼は言った。「それならあなたがたは、あなたがたがこれまで崇拝してきたものについて考えてみたのですか。あなたがたも、昔の祖先たちも(崇拝していたものについて)。万有の主を除いては、かれらは私の敵です。かれは私を創られた方で、私を導かれ、私に食料を支給し、また飲料を授けられた御方。また病気になれば、かれは私を癒して下さいます。私を死なせ、それから生き返らせられる御方。”(クルアーン26:69−81)
神こそは崇拝に価する唯一の対象であるという呼びかけを続けながらも、彼は次なる熟考に価する実例を人々に示しました。ユダヤ・キリスト教の伝承においても同様の話が伝えられていますが、そこでは彼が人々に例を示すのではなく、それらの神々の崇拝を通して3、唯一神の認識にたどり着いたことになっています。クルアーンでは、たとえ預言者としての使命を受ける前に正しい道について知らされていなかったとしても、いかなる預言者も多神崇拝を行うことなどはなかったとされています。クルアーンはアブラハムについてこう述べます:
“夜(の暗闇)が彼を覆う時、彼は一つの星を見た。彼は言った。「これが私の主です。」だが星が沈むと、彼は言った。「私は沈むものを好みません。」”(クルアーン6:76)
アブラハムは、当時の人々にとっての理解を超えた創造物である、星々の喩えを提示しました。それは人類よりも偉大なものと見なされており、様々な力が結び付けられていました。しかし、星々の沈む様子を見たアブラハムは、それらが夜以外には輝くことの出来ない無力な存在であることを悟ったのです。
次に彼はより美しく、大きく、日中であっても輝くことの出来る天体である月の喩えを提示しました。
“次いで、彼は月が昇るのを見て言った。「これが私の主です。」だがそれが沈むと、彼は言った。「私の主が私を導かれなかったら、私はきっと迷った民の仲間になったでしょう。」”(クルアーン6:77)
最終的に、彼はさらに大きなものであり、それなくしては生命の存続が不可能である、最も力強いものである太陽の喩えを提示しました。
“次いで彼は太陽が昇るのを見て言った。「これが私の主です。これは偉大です。」だがそれが沈むと、彼は言った。「私の人びとよ、私はあなたがたが崇拝するものと絶縁します。私は天と地を創られた方に私の顔を向けて、純正に信仰します。私は多神教徒の仲間ではありません。」”(クルアーン6:78−79)
アブラハムが彼らに証明したのは、偶像が象徴するものの中に全世界の王を見出すことは出来ないということ、そして彼ら自身の見て取れるもの、感じ取れるものの全ては創造されたものであるということ、そして主が崇拝されるためには目に見えるかどうかは関係ないということでした。全能の神は、この世に存在するかれの創造に定められているような限界には囚われないのです。神のメッセージは非常に明快です。
“神に仕え、かれを畏れよ。それがあなたがたのために最も良い。もしあなたがたが理解するならば。あなたがたは、神を差し置いて偶像を拝し、虚偽を捏造しているに過ぎない。あなたがたが神を差し置いて拝するものたちは、あなたがたに御恵みを与える力はない。だから、神から糧を求め、かれに仕え、感謝せよ。あなたがたはかれの御許に帰されるのである。”(クルアーン29:16−17)
彼は、彼らが先祖伝来の伝統に過ぎないものに盲目的に従うことについて、疑問を投げかけました。
“彼は言った。「実に、あなたがたとその先祖は、明白な過ちの中にあるのです。」”
アブラハムの進む道には常に、苦痛、困難、試練、抗争、苦悩が伴いました。彼の父親や人々は彼の教えを退けました。彼らは理性的であることを拒み、聞く耳を持とうともしなかったのです。
“彼らは言った。「我々に真実を見せてみよ。それともあなたは何らかの道化師なのか。」”
アブラハムはこの段階においてはまだ、将来性のある若者でした。彼は唯一の神を信仰する真実の一神教を説き、星や天体、その他の被造物からなる虚偽の神々を排除するために、自分の家族や故郷の民すらにも反対しました。彼はこの信仰のために拒絶、排除され、罰を受けましたが、すべての悪に断固として立ち向かい、迫り来るさらなる試練を覚悟していたのです。
“またアブラハムが、ある御言葉で主から試みられ、かれがそれを果たした時を思い起せ…”(クルアーン2:124)
Footnotes:
1 Gen r. xxxviii, Tanna debe Eliyahu. Ii. 25.
2 Abraham. Charles J. Mendelsohn, Kaufmann Kohler, Richard Gottheil, Crawford Howell Toy. The Jewish Encyclopedia. (http://www.jewishencyclopedia.com/view.jsp?artid=360&letter=A#881)
3 The Talmud: Selections, H. Polano. (http://www.sacred-texts.com/jud/pol/index.htm).
アブラハムの物語(3/7):偶像破壊者
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- 掲載日時 16 Jan 2012
- 編集日時 16 Jan 2012
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布教に、物理的な行動が伴わなければならない時が来ました。アブラハムは偶像崇拝に対する大胆かつ決定的な一打を計画していました。クルアーンによる記述は、アブラハムが父個人の偶像を破壊したとするユダヤ・キリスト教の伝承1とは幾分ことなるものです。クルアーンでは、アブラハムが人々によって祭壇に祀られていた偶像の数々を破壊したとしています。アブラハムは、偶像に対するこの計画を示唆していました。
“神に誓って、私はあなたがたが背を向けて去った後に、あなたがたの偶像に一つの策をめぐらそう。”(クルアーン21:57)
宗教的祝祭の時期が来ると、人々は町を離れました。アブラハムは祝祭に招待されていましたが、彼はこのように言い逃れました。
“彼は星々を一瞥し、こう言った:「ああ、私は気分が優れません!」”
人々が町を去ると、好機は訪れました。神殿には誰もいなかったため、アブラハムはそこに入り、金メッキが施された木製の偶像の数々に近づきました。それらの正面にはお供え物が置かれていました。アブラハムはそれらに対する不信仰から、このように揶揄しました。
“彼(アブラハム)は彼らの神々に向かって言った:「あなたがたはそれらを食べないのか?あなたがたは物も言えないほど苦しんでいるのか?」”
結局、自らの彫像を神々として崇拝するほど、人々を惑わせたものは何だったのでしょうか?
“そして彼はそれらを右手で叩き壊した。”
クルアーンはこう述べています。
“彼はそれらの内の最高位のものを除き、すべてを粉々にした。”
神殿に僧侶たちが戻ると、偶像が破壊されていることに気付き、慌てふためきました。こんなことをしたのは誰かと考え巡らせていると、ある者がアブラハムの名を挙げ、彼が以前、それらを批判していたことに言及しました。そして彼らがアブラハムを呼び出した時、アブラハムは彼らの愚かさを公然とさらけ出したのです。
“彼は言った:「あなたがたとあなたがたの作る物は神によって創造されたというのに、それでも自ら彫った物を崇拝するというのですか。」”
彼らの怒りの感情は高まるばかりでした。説教されることを拒否し、彼らは単刀直入にこう切り出しました。
“アブラハムよ、我々の神々にこのようなことをしたのは、お前なのか?」
アブラハムが、最高位の偶像を破壊せずに残しておいたのには、理由がありました。
“彼は言った:「それらの中のこの最高位のもの(偶像)がしたのです。それらが口が利けるものなら、聞いてみなさい。」”
アブラハムがこのような挑戦をしたとき、彼らは混乱に陥りました。彼らは偶像を守れなかったことについてお互いを責め合った後、こう言いました。
“これらが口を聞かないことを、お前はよく知っていたようだ。”
そしてアブラハムは、この問題の核心をつきました。
“彼は言った:「それなのにあなたがたは、神以外のものを崇拝するのですか? あなたがたを、少しも益せず、また損わないものを。ああ情けない。あなたがたも、あなたがたが神を差し置いて崇拝するものたちも。あなたがたは、なお悟らないのですか。」”
告発者たちは、逆に告発される側となったのです。彼らは論理の矛盾を指摘されると、アブラハムに何の反論も出来ませんでした。アブラハムの論理には反論の余地がなく、彼らの反応は憎悪と憤激に基づいたものだけでした。彼らはとうとう、アブラハムを焼き殺すという決定を下したのです。
“やつのための建物を建て、灼熱の炎のなかにやつを放り投げよ。”
町の人々は材木を集め、彼らが誰一人見たこともないような巨大な炎を焚き上げました。若いアブラハムは、万有の主が彼のために用意された運命を受け入れました。彼は信仰を失うどころか、その試練は彼をより強くしました。アブラハムはその若さでも、焼身刑に怯んだりはしませんでした。そこに入れられる前、彼は最後の言葉としてこう言いました。
“私には神だけで十分であり、かれこそは諸事の最善の執行者であられる。”(サヒーフ・ブハーリー)
ここからも、アブラハムが試練に立ち向かい、それを乗り越えた例を見て取ることが出来ます。ここで彼が試されたのは真の神への信仰であり、彼は神の呼びかけに応え、自らの存在を捧げる用意が出来ていることを証明したのです。彼の信仰は、彼の行為からその証拠を見て取ることが出来ます。
神は、これをもってアブラハムの天命と望まれたわけではありませんでした。彼には大いなる使命が待ち受けていたのです。彼は、私たちの知る偉大な預言者たちの父となることが、運命付けられていました。神はアブラハム、そして人々にとってのしるしとして、彼を救出したのです。
“われら(神)は命じた:「火よ、冷たくなれ。そしてアブラハムの平安となれ。」彼らは彼に対し策動しようとしたが、われらは彼らを酷い失敗者とした。”
こうしてアブラハムは無事に炎から逃れました。彼らは神々の復讐を企てたにも関わらず、彼らとその偶像の数々は、屈辱的な最後を迎えたのです。
アブラハムの物語(4/7):カナンへの移住
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- 掲載日時 16 Jan 2012
- 編集日時 28 Jan 2022
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近代の考古学的発見により、高位の女神官は皇帝の娘だったことが示唆されています。当然ながら、彼女は神殿を冒涜した人物の処罰を要求したでしょう。まだ若者だったアブラハム1は裁判にかけられ、国王(おそらくニムロデ王だったと推測されます)の前に一人立たされたのです。アブラハムの父親でさえ、彼の側には付きませんでした。しかし、これまで常にそうであったように、彼の側には神が付いていたのです。
王との確執
ユダヤ・キリスト教の伝承では、アブラハムがニムロデ王によって焼身刑の判決を下されたことが明確に主張されていますが、クルアーンではこの件について明言はされていません。しかしながら、アブラハムと国王との確執については言及されており、一部のムスリム学者はその人物をニムロデ王と見なしていますが、それは人々がアブラハム殺害を試みた後だったとしています2。神がアブラハムを炎から救出した後、この件が国王に報告され、国王はその思い上がりから神と競おうとしたのです。彼はアブラハムと議論を繰り広げました。神はこう述べます。
“神が彼に王権を授けられたことから、(高慢になり)主についてアブラハムと論議した者について考えてはみたか。”(クルアーン2:258)
アブラハムの論点には、否定の余地がありませんでした。
“アブラハムが「私の主は、生を授けまた死を賜う御方だ。」と言った時、彼(王)は「私も、生を授けまた死を与える。」と言った。”(クルアーン2:258)
そこで王は、死刑の宣告を受けた二人の男を連れ出しました。彼は一方を釈放し、もう一方に刑の執行を言い渡しました。王によるこの返答は文脈を無視した愚かなものでしたが、アブラハムが次の議論を持ち出すと、それは王を完全に沈黙させたのです。
“アブラハムは言った。「神は、太陽を東から昇らせられるが、あなたはそれを西から昇らせてみなさい。」そこでかの不信仰者は当惑してしまった。神は不義を行う民を御導きにはなられない。”(クルアーン2:258)
アブラハムの移住
長年に渡る呼びかけと人々による拒否の末、神はアブラハムが彼の家族と人々から決別することを命じました。
“アブラハムや彼と共にいた者たちのことで、あなたがたのため実に良い模範がある。彼らが自らの民に言ったことを思い起こせ。「本当に私たちは、あなたがたとあなたがたが神を差し置いて崇拝するものとは、何の関りもありません。あなたがたと絶縁します。私たちとあなたがたの間には、あなたがたが神だけを信じるようになるまで、永遠の敵意と憎悪があるばかりです。」”(クルアーン60:4)
幸いにも、彼の家族の中の二人だけは、彼の教えを受け入れました。彼の甥ロト、そして妻サライです。こうして、アブラハムは彼ら、そしてその他の信仰者たちと移住を決行しました。
“ロトは彼(アブラハム)を信じた。彼(アブラハム)は言った。「私は主(の御許)に移り住もう。かれこそは全能かつ英明な御方であられる。」”(クルアーン29:26)
彼らは祝福された地であるカナン(シリア地方)へと移住しました。ユダヤ・キリスト教の伝承によると、アブラハムとロトは、移住先で東西に人々を振り分けたとされています3。
“われは彼とロトを、森羅万象のためにわれらが祝福した地へと救い出した。”(クルアーン21:71)
この祝福された地において、神はアブラハムの子孫を祝福することを選ばれたのです。
“われら(神)は彼に(子の)イサクを授け、またその上の賜物として(孫の)ヤコブを授けた。われはそれぞれを、正しい者とした。”(クルアーン21:72)
“これはわれらがアブラハムに授け、その民を説得するために述べた確証であった。われらは嘉する者の(英知や徳性の)階位を高める。誠にあなたの主は英明にして全知であられる。われらは彼(アブラハム)に(子)イサクと(孫)ヤコブを授けて、それぞれを導いた。先にノアも導いた。また彼(アブラハム)の子孫の中には、ダビデと、ソロモン、ヨブ、ヨセフ、モーゼ、アロンがいる。われらはこのように善い行いをする者に報いる。またザカリヤ、ヨハネ、イエスとエリヤがいる。それぞれみな正義の徒であった。またイシュマエル、エリシャ、ヨナとロトがいる。われは彼らを、皆世に秀でた者とした。また彼らの祖先と子孫と兄弟の中、われは彼ら(のある者)を選んで正しい道に導いた。これは神の導きであり、かれはそのしもベの中から、御好みになられる者を導かれる。もし彼らが(神に同位者を)並べたならば、すべての行いは彼らにとって無益なものとなろう。これらの者は、われらが啓典と識見と預言の天分を授けた者たちである。”(クルアーン6:83−89)
諸預言者は、彼らの民への導きとして選ばれたのです。
“われらは彼らを、わが命令を奉じて(人びとを)導く導師とし、彼らに善行に励み、礼拝の務めを守り、定めの喜捨をするよう啓示した。そして彼らは一生懸命にわれらに仕えた。”(クルアーン21:73)
アブラハムの物語(5/7):ハガルの立たされた苦境とその意味
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- 掲載日時 23 Jan 2012
- 編集日時 11 Nov 2013
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カナンとエジプトでのアブラハム
アブラハムはカナンで数年間に渡り、町から町へと移動しながら人々を神へといざない続けました。しかしあるとき飢饉が襲い、彼とサライはエジプトへの南下を余儀なくされました。エジプトでは独裁者ファラオが気に入った女性を強奪することで知られていました1。イスラームにおけるこの叙述は、ユダヤ・キリスト教のものとは著しく異なるものです。後者においては、アブラハムがサライを自分の妹だと偽ることにより2、ファラオの危害から逃れたとされています3。そしてファラオがサライを妻として宮廷に迎え入れることと引き換えに、アブラハムは財産を手にしました。ところが、宮廷が酷い疫病に襲われたとき、ファラオは彼女がアブラハムの妻であることに気付き、その事実を伝えなかった彼に懲罰を加え、エジプトから追放したとされているのです4。
アブラハムはサライがファラオの注意を引くことを予期していたので、彼女にはもしファラオが求めてきたら、自分をアブラハムの妹と言うように伝えてありました。彼らが王国に入ると、予想通りファラオが彼とサライの関係について尋ねてきたため、アブラハムは彼女を自分の妹であると答えました。その返答は彼の欲望を多少は抑えましたが、それにも関わらず彼は彼女を捕らえました。しかし、全能なる御方の保護によって、彼女は邪悪な策略から救われました。欲望に突き動かされたファラオが彼女を召喚した際、サライは神へと祈りを捧げました。ファラオがサライに触れようとした瞬間、彼の上半身が硬直しました。激痛の中ファラオは、サライがこの状態を癒してくれるよう祈ってくれるのであれば、解放を約束する、と彼女に懇願しました。彼女は彼のために祈りましたが、その後3度目の企ての後、彼はようやく諦めたのです。サライの特別な性質に気付いたファラオは、彼女の兄とされる人物の元に彼女を返しました。
アブラハムが祈っている最中に、サライはファラオからの贈呈品、そして彼の娘であるハガル(ユダヤ・キリスト教の伝承によれば女中5)を携えて戻ってきました。サライはファラオと多神教徒エジプト人たちに、強烈なメッセージを発したのです。
彼らがパレスチナに戻っても、神による約束にも関わらず、依然としてサライとアブラハムは子宝に恵まれませんでした。不妊の妻が子供を望む夫に対して女中を贈ることは、当時において一般的な慣行6であったため、サライはアブラハムがハガルを妾とすることを示唆しました。一部のキリスト教学者はこの出来事について、彼は実際にはハガルを妻として娶ったとしています7。いずれにせよ、ユダヤ教とバビロニアの伝承においては、妾に生まれた子供は妾の女主人によって認知され、相続権も含めて自らの子供と同じ扱いを受けるとされます8。ハガルはパレスチナで、イシュマエルを生みました。
マッカにおけるアブラハム
イシュマエルがまだ乳児だった頃、神は再びアブラハムの信仰を試し、ハガルとイシュマエルをヘブロンの南東約1000キロにある、不毛の地バッカへと連れていくことを命じました。そこは後に、マッカとして知られるようになります。彼らは子供を待ち望んでおり、跡継ぎの誕生に心から喜んでいたため、それは実に大いなる試練でした。命令は、その不毛さと過酷な環境で知られる遠く離れた地に、子供を連れて行くというものだったのです。
クルアーンでは、それはイシュマエルがまだ幼いときのアブラハムの試練であったことを主張しますが、バイブル及びユダヤ・キリスト教の伝承によると、それは乳離れした後のイシュマエルがイサクをからかったこと910に憤激したサライの、アブラハムに対するハガルとイシュマエル追放の要求だったとしています。 もしそうであったなら、ユダヤ教における乳離れの一般的な年齢は3歳11であるため、このことはイシュマエルが当時17歳12であったことになります。バイブルの記述にあるように、ハガルがこの成長した若者を抱え、パランへと何百キロも旅し、到着後「潅木の下に彼を寝かせる」13のは論理的に不可能であるかに思えます。これらの節でイシュマエルは、追放が叙述されるときとは別の言葉によって言及されています。その言葉は彼が若者ではなく、赤ん坊であった可能性を含む、非常に若かったことを示しているのです。
アブラハムは一時的にハガルとイシュマエルと滞在した後、水の革袋とナツメヤシを残して立ち去りました。アブラハムが彼らを残して歩き出すと、ハガルは心配になりました。アブラハムは後ろを振り返りませんでした。ハガルは追いかけて尋ねます。「アブラハムよ、私たちを残してどこへ行くのですか?この渓谷には誰もおらず、何もありません。」
アブラハムは歩調を速めました。最終的にハガルはこう尋ねます。「神がそうするよう求められたのですか?」
アブラハムは急に立ち止まり、言いました。「そうだ。」
その回答に、ある程度の安寧を見出したハガルは言います。「アブラハムよ、あなたは誰に私たちを委ねるのですか?」
アブラハムは答えて言いました。「神のご加護に、あなたがたを託すのだ。」
ハガルは神への服従心からこう言いました。「私は神と共にいられれば、それで満足です。」14
彼女がイシュマエルの元に戻る間、アブラハムは山間の細い道まで進み、彼らから見えなくなると、立ち止まって神へと祈りました。
“主よ、私の子孫となる者をあなたの聖殿の側の不毛な谷間に住まわせました。主よ、彼らに礼拝の務めを守らせて下さい。そうすれば人々の心を彼らに引き付けるでしょう。また彼らに実りを御授け下さい。きっと彼らは感謝するでしょう。”(クルアーン14:37)
水とナツメヤシがなくなると、ハガルは焦り始めました。喉の渇きを潤すことも、授乳することも出来なくなった彼女は水源を探し始めました。イシュマエルを木陰に残し、隣接の小高い岩山に登りました。「もしかしたら近くをキャラバンが通っているかも」と考えたのです。彼女は水と助けを求めてサファー、そしてマルワという二つの丘の間を7回に渡って駆け抜けました。この出来事はムスリムたちによって、巡礼の中で体現されることになります。疲れ果て狼狽した彼女は声を聞きましたが、それがどこから聞こえるのかは分かりませんでした。谷間の底を見渡すと、そこにイシュマエルの隣に立つ天使を目にしました。この天使は、イスラームの典拠15においてガブリエルであるとされています。ガブリエルがイシュマエルの隣をかかとで突くと、水がこんこんと湧き出てくる奇跡が起きたのです。ハガルはそのまわりに窪みを作り、革袋を満たしました16。ガブリエルは言いました。「置き去りにされたことを恐れてはなりません。ここにはこの子と彼の父によって、神の館が建てられるのですから。神は彼の民を決して疎かにはされません。17」この泉はザムザムと呼ばれるようになり、アラビア半島マッカにおいて現在なお湧き続けています。
その後間もなく、アラビア半島南部から移動していたジュルハム族が、鳥の群れがこの方向に飛んで行く珍しい光景(つまり水場が存在するという意味)を見て、マッカの渓谷を訪れました。彼らはそこに定住するようになり、イシュマエルは彼らと共に育ちました。
この泉については、バイブルの創世記21章において似通った叙述がされています。そこでは、ハガルがイシュマエルから遠ざかった理由として、助けを求めるためではなく、彼の死にゆく姿を見たくなかったからだとされています。イシュマエルが渇きから泣きじゃくり出すと、彼女はイシュマエルの死の不安を彼女から取り除くよう、神に祈りだしたとされているのです。泉の出現は、彼女の祈りからもたらされたものではなく、イシュマエルが泣きじゃくっていたことによるものだとされ、助けを求めるハガルの努力に関する報告は全く存在していません。またバイブルでは、その泉は彼らが定住することになったパランの荒野にあったとされています。ユダヤ・キリスト教学者たちは、申命記33:2におけるシナイ山の記述から、パランがシナイ半島北部のどこかにあったと言及しますが、近代バイブル考古学者たちは、実際のシナイ山は現在のサウジアラビアにあるとし、そのことはそこにパランがあったことも必然的に意味します18。
Footnotes:
1 Fath al-Bari.
2 創世記20:12によると、サライはアブラハムの異母妹であるため、その結婚は近親相姦を意味しますが、アル=ブハーリーを始めとするイスラームの典拠では、サライはあくまでも信仰上の妹なのであり、より大きな害悪を逃れるためにアブラハムが3度だけ言った嘘の内の1度なのであるとしています。
3 伝承に加え、あまり細部について述べられていない物語が、バイブルの創世記12:11−20においても言及されています。
4 Sarah. Emil G. Hirsch, Wilhelm Bacher, Jacob Zallel Lauterbach, Joseph Jacobs and Mary W. Montgomery. (http://www.jewishencyclopedia.com/view.jsp?artid=245&letter=S). Abraham. Charles J. Mendelsohn, Kaufmann Kohler, Richard Gottheil, Crawford Howell Toy. The Jewish Encyclopedia. See also Genesis: 12:14-20.
5 Sarah. Emil G. Hirsch, Wilhelm Bacher, Jacob Zallel Lauterbach, Joseph Jacobs and Mary W. Montgomery. (http://www.jewishencyclopedia.com/view.jsp?artid=245&letter=S). Abraham. Charles J. Mendelsohn, Kaufmann Kohler, Richard Gottheil, Crawford Howell Toy. The Jewish Encyclopedia.
6 Pilegesh. Emil G. Hirsch and Schulim Ochser. The Jewish Encyclopedia. (http://www.jewishencyclopedia.com/view.jsp?artid=313&letter=P&search=pilegesh).
7 (http://whosoeverwill.ca/womenscripturehagar.htm, http://www.1timothy4-13.com/files/proverbs/art15.html).
8 (http://www.studylight.org/com/acc/view.cgi?book=ge&chapter=016).
9 創世記21:9
10 Ishmael. Isidore Singer, M. Seligsohn, Richard Gottheil and Hartwig Hirschfeld. The Jewish Encyclopedia. (http://www.jewishencyclopedia.com/view.jsp?artid=277&letter=I).
11 マカバイ記二7:27、歴代誌下31:16
12 アブラハムはイシュマエルの誕生時は86歳(創世記16:16)、イサクの誕生時は100歳(創世記21:5)でした。
13 創世記21:15
14 サヒーフ・ブハーリー
15 ムスナド・アフマド
16 類似した叙述がバイブルにおいても存在しますが、詳細は大幅に異なります。参考:創世記21:16−19
17 サヒーフ・ブハーリー
18 Is Mount SINAI in the SINAI? B.A.S.E. Institute. (http://www.baseinstitute.org/Sinai_1.html).
アブラハムの物語(6/7):最大の犠牲
- より IslamReligion.com
- 掲載日時 23 Jan 2012
- 編集日時 23 Jan 2012
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アブラハムによる息子の犠牲
アブラハムが彼の妻子をマッカに残し、神の加護の元に委ねて以来10年近くが過ぎました。2ヶ月間の旅の後、マッカに到着した彼は、街の変貌ぶりに驚きました。しかし家族との再会の喜びは、彼の信仰を試す究極の試練によって直ぐに冷めてしまいます。彼は夢を通して、10年ぶりに再会した息子を犠牲に捧げるよう、神によって命じられたのです。
私たちはクルアーンから、犠牲に捧げるよう命じられた息子がイシュマエルであったことを知ります。神はアブラハムとサライにイサクの誕生についての吉報を伝える際、同時に二人の孫であるヤコブ(イスラエル)についても知らせたからです。
“…われらは彼女にイサクのこと、イサクの後、ヤコブの(産れる)吉報を伝えた。”(クルアーン11:71)
同様に、バイブルの創世記17:19においても、アブラハムは次のような約束をされています。
“あなたの妻サライがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサクと名付けなさい。わたしは彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする。”
神はサライに、アブラハムとの子孫を与えると約束しました。その神がアブラハムにイサクを犠牲に捧げるよう命じるということは、論理的にも実質的にも不可能です。なぜなら神は約束を反故にするようなことはもちろん、「混乱の著者」などでもないからです。
創世記22:2においては、犠牲として捧げられる子供がイサクであると明記されていますが、その他のバイブルの場面から見れば、それが改変であることが明確であるため、実際に犠牲が命じられたのはイシュマエルであることが分かっているのです。
「あなたの唯一の子」
創世記22章の節々では、神はアブラハムに唯一の子を犠牲に捧げるよう命じます。イスラーム、ユダヤ教、キリスト教の全ての学者たちは、イシュマエルがイサクの前に誕生したということに合意しています。このことからも、イサクがアブラハムの唯一の子と呼ばれるのは相応しくありません。
ユダヤ・キリスト教の学者間では、イシュマエルが妾の子供であるため、正当な子ではないという議論があることは事実です。しかし既述されたように、不妊の妻が夫の子孫を残すことの出来るよう、夫に妾を与えることは、ユダヤ教においても正当かつ容認された慣習であり、妾の生んだ子供は父親の正妻1が認知し、実子として相続権を含む全ての権利を有するのです。更には、たとえそういった子供が「嫌われて」いたとしても、他の子供たちの倍の分配を受けることが出来ました2。
このことに加え、バイブルではサライ自身がハガルの子を正当な相続人とみなしたことが推論されています。アブラハムの子孫がナイル川とユーフラテス川の間(創世記15:18)の土地を満たす約束されていたことを知っていたサライは、その予言が実現されるためにハガルをアブラハムに差し出したのです。彼女はこう言っています。
“主は私に子供を授けてくださいません。どうぞ、私の女中のところに入ってください。私は彼女を通して、子供を得ることが出来るかもしれません。”(創世記16:2)
これはイサクの子ヤコブの妻だったレアとラケルの場合に相似しています。彼女らは子孫繁栄のために女中たちをヤコブに差し出したのです(創世記30:3、6,7,9−13)。生まれた子供たちはダン、ニフタル、ガド、アシェルと名付けられ、ヤコブの12人の息子たちのうちの4人に含まれ、古代イスラエルの12氏族の長、つまり正当な相続者3となったのです。
ここからも、サライはハガルに生まれた子がアブラハムに与えられた予言を実現する者となり、その子が自らに生まれたものであると見なしていたと理解することが出来ます。従って、こうした事実のみからも、イシュマエルが正当な相続者であることが証明されるのです。
神はバイブルで、イシュマエルがアブラハムの「種」であると言及しているため、神自身もイシュマエルを正当な相続者であるとみなされています。創世記21:13ではこう記されています。
“そしてあの端女の息子も一つの民族の父とする。彼もあなたの種であるからだ。”
犠牲として捧げられるのを命じられたのがイサクではなく、イシュマエルだったという証拠は他にも多々ありますが、この件については別の論考が必要となるでしょう。
アブラハムは、息子が神による命令を理解したかどうか確認するため、彼の意見を聞きます。
“それでわれらは、優しい思いやりのある男児を(授けるという)吉報を伝えた。(この子が)彼と共に働く年頃になった時、彼は言った。「息子よ、私はおまえを犠牲に捧げる夢を見た。さあ、おまえはどう考えるのか。」かれは(答えて)言った。「父よ、あなたが命じられたようにして下さい。もし神が御望みならば、私が耐え忍ぶことが御分りでしょう。」”(クルアーン37:101−102)
もし父親が、夢でお前を殺せとを命じられた、と子どもに告げ知らせたのであれば、その子から良い反応を期待するのは到底無理というものでしょう。通常はその夢の内容だけでなく、そのように発言する人の正気を疑うでしょうが、イシュマエルは彼の父の地位を知っていました。敬虔な父の敬虔な息子は、神への従順さにおいて献身的でした。アブラハムは犠牲の場へと息子を連れて行き、うつ伏せに寝かせました。これにより、神は彼らを最も美しい言葉で描写されました。服従の真髄を良く表したそれらの言葉は涙ぐましいものです。
“そこで彼ら両人は(命令に)服して、彼(子供)が額を(地に付け)うつ伏せになった時。”(クルアーン37:103)
アブラハムの刃物が下りるその瞬間、声が彼を止めました。
“われらは告げた。「アブラハムよ。あなたは確かにあの夢を実践した。本当にわれらは、このように正しい行いをする者に報いる。これは明らかに試みであった。」”(クルアーン37:104−106)
それは実に、長きに渡って後継者を待ち望んだ末、老年になって遂に生まれた一人息子を犠牲にするという最も過酷な試練でした。アブラハムはあらゆる所有を犠牲に捧げることを厭いませんでした。それにより、神は彼を人類のリーダーとし、彼の子孫から諸預言者を選ぶという祝福を授けたのです。
“またアブラハムが、ある御言葉で主から試みられ、彼がそれを果たした時を思い起せ。「われはあなたを、人々の導師としよう。」と主は仰せられた。彼は「また私の子孫までもですか。」と申し上げた…”(クルアーン2:124)
イシュマエルの身代わりとして、羊が犠牲に捧げられました。
“…われらは大きな犠牲で彼を贖った。”(クルアーン37:107)
このような、服従の最たるものの体現が、ハッジの月におけるヤウム・アン=ナフル(犠牲の日)、またはイード・アル=アドハー(犠牲祭)において、毎年数億人ものムスリムたちによって執り行なわれているのです。
アブラハムがパレスチナに戻る際、天使たちが彼を訪れ、イサクの誕生の知らせを受けます。
“かれらは言った。「恐れることはない。わたしたちは利口な1人の息子が授る吉報を、あなたに齎したのだ。」”(クルアーン15:53)
彼がロトの民が破滅されたことについても知らされたのは、この時のことです。
Footnotes:
1 Pilegesh. Emil G. Hirsch and Schulim Ochser. The Jewish Encyclopedia. (http://www.jewishencyclopedia.com/view.jsp?artid=313&letter=P).
2 Deuteronomy 21:15-17. See also: Primogeniture. Emil G. Hirsch and I. M. Casanowicz. The Jewish Encyclopedia. (http://www.jewishencyclopedia.com/view.jsp?artid=527&letter=P).
3 Jacob. Emil G. Hirsch, M. Seligsohn, Solomon Schechter and Julius H. Greenstone. The Jewish Encyclopedia. (http://www.jewishencyclopedia.com/view.jsp?artid=19&letter=J).
アブラハムの物語(7/7):聖殿の建築
- より IslamReligion.com
- 掲載日時 30 Jan 2012
- 編集日時 18 Nov 2021
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アブラハムとイシュマエルによるカアバ建築
数年に渡る離別の末、父と子は再会しました。二人はこの旅において、永久なる聖殿であり、神への崇拝の場としてのカァバを、神の命によって建築したのです。そしてこの荒野は、ハガルとイシュマエルを置き去りにしたアブラハムが、彼らが偶像崇拝をせず、神の崇拝を確立するよう祈願した場所でもあったのです。
“主よ、この町を安泰にして下さい。また私と子孫を偶像崇拝から遠ざけて下さい。主よ、彼らは人々の多くを迷わせました。私(の道)に従う者は、本当に私の身内であります。私に従わない者がいたとしても、あなたは度々御許しなされる方、慈悲深い方であられます。主よ、私の子孫となる者をあなたの聖殿の側の不毛な谷間に住まわせました。主よ、彼らに礼拝の務めを守らせて下さい。そうすれば人々の心を彼らに引き付けるでしょう。また彼らに実りを御授け下さい。きっと彼らは感謝するでしょう。主よ、本当にあなたこそは、私たちが隠すことも現わすこともご存知です。また地にも天にも、神に対し何も隠されたものはありません。老年なのに、私にイシュマエルとイサクを授けられた御方、神を讃えます。本当に私の主は、祈りを御聞き届け下さる方です。主よ、私と私の子孫たちを、礼拝の務めを守る者にして下さい。主よ、私の祈りを御受け下さい。主よ、清算が確定する日には、私と両親そして(すべての)信仰者たちを、御赦し下さい。”(クルアーン14:35−41)
アブラハムは、人々が崇拝の中心として礼拝中にその方角を向き、巡礼の地としての栄誉ある神の館を建築するため、息子のイシュマエルと再会しました。クルアーンには、カアバの神聖さ、そして建築の意義を説明する多くの美しい節々があります。
“われらがアブラハムのために、(聖なる)館の位置を定め(こう言った)時のことを思いなさい。「何一つ、われと一緒に配してはならない。そしてタワーフ(周回)する者のため、また(礼拝に)立ち、立礼し跪拝する者のために、わが館を清めよ。人々に、巡礼(ハッジ)するよう呼びかけよ。彼らは歩いてあなたの許に来る。あるいは、どれも痩せこけているラクダに乗って、遠い谷間の道をはるばる来る。”(クルアーン22:26−27)
“われらが人々のため、不断に集る場所として、また平安の場として、この館(カアバ)を設けた時を思い起せ。(われらは命じた。)「アブラハムの(礼拝に)立った所を、あなたがたの礼拝の場としなさい。」またアブラハムとイシュマエルに命じた。「あなたがたはこれを周回し、御籠りし、また立礼し、跪拝する者たちのために、わが館を清めなさい。」”(クルアーン2:125)
カアバは全人類への導きと祝福として崇拝の場に制定された最初の場所でした。
“本当に人々のために最初に建立された館は、バッカのそれで、それは生けるものすべてへの祝福であり導きである。その中には、明白な印があり、アブラハムの立ち所がある。また誰でもその中に入る者には、平安が与えられる。この館への巡礼は、そこに赴ける人びとに課せられた神ヘの義務である。”(クルアーン3:96−97)
預言者ムハンマド(神の慈悲と祝福あれ)は言いました。
“実にこの場所は、神によって天地が創造されたとき以来、神聖なる場所とされ、審判の日までそうあり続けるのです。”(サヒーフ・ブハーリー、サヒーフ・ムスリム)
アブラハムの祈り
後世の人々によって聖殿とされるものの建築は、神を崇拝する者にとってはこの上なき崇拝行為でした。彼ら二人はその偉業達成の中途において、このように神へ祈っていました。
“主よ、私たちから(この奉仕を)お受け入れください。実にあなたこそは全聴にして全知であられます。主よ、私たち両人をあなたに服従し帰依する者(ムスリム)として下さい。また私たちの子孫をも、あなたに服従し帰依する民(ウンマ)として下さい。私たちに儀礼を示し、慈悲を御向けください。あなたこそは度々赦される御方、慈悲深き御方であられます。”(クルアーン2:127−128)
“アブラハムが(祈って)言った。「主よ、ここを平安の町として下さい。そしてその住民の中の神と最後の日を信じる者たちのために実りをお授けください。”(クルアーン2:126)
またアブラハムは、カナンの地に住むことになるイサクの子孫ではなく、この地に住むイシュマエルの子孫から一人の預言者が選ばれるよう祈りました。
“彼らにあなたの印を朗誦し、啓典と英知を教え、彼らを清める一使徒を彼らの中から遣わしてください。実にあなたこそは偉大にして英明なる御方であられます。”(クルアーン2:129)
アブラハムによる祈りは、預言者ムハンマドが(イシュマエルの民である)アラブ人として預言者となったこと、そしてマッカが全人類のための聖殿としてだけでなく、マッカ出身の預言者が全人類に対して遣わされることになったことにより、数千年の後になって実現しました。
いかなる民族や人種にも囚われない、全人類にとっての唯一なる真実の神の崇拝の場を構\築する目的を果たしたことは、アブラハムの人生における絶頂でした。この聖殿の確立によって、彼が呼びかけ、犠牲を捧げ続けた神は、いかなる神々をも同位者として並べられることなく永久に崇拝されることとなりました。実に、このことはいかなる人間の上にも恵まれることのなかった偉大なる恩寵なのです。
アブラハムとハッジの巡礼
毎年一回、世界中のムスリムたちは老若男女を問わず、アブラハムの祈りでもある巡礼の呼びかけに応えます。その儀礼はハッジと呼ばれ、神の寵愛を受けたしもべであるアブラハムと、その家族に起きた出来事を記念する行事です。ムスリムはカアバを周回した後、アブラハムがカアバ建築の際に足場とした石である、アブラハムの足場後方で礼拝を捧げます。礼拝の後、ムスリムはアブラハムとハガルの祈りによってイシュマエルとハガルの乾きを癒すため湧きでてきただけでなく、その後も今日に至るまで土地の人々を潤し続けてきたザムザムの泉から水を飲みます。サファーとマルワの間を巡回する儀礼は、一人孤独に赤ん坊を助けようとしたハガルによる必死の探求を記念したものです。ハッジ中、ミナーにおいてだけでなく、世界各地のムスリムたちによって動物を犠牲として捧げる儀礼は、神のため自らの子さえも犠牲に捧げることを厭わなかったアブラハムの行いから来るものです。そして、ミナーの柱への投石の儀は、イシュマエルの犠牲を諦めさせようと囁いた悪魔の誘惑を拒絶したアブラハムを模倣するものなのです。
“われはあなたを人々の導師としよう”1と神が述べられた「神の寵愛を受けたしもべ」は、パレスチナへ戻り、その地で逝去しました。
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