ウィルフレッド・ホフマン ドイツ人社会科学者・外交官(前半)
説明: 元アルジェリア大使のドイツ人外交官による改宗記。第一部。
- より ウィルフレッド・ホフマン
- 掲載日時 31 Aug 2015
- 編集日時 06 Sep 2015
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ドイツ人の社会科学者・外交官であるホフマン博士は、ハーバード・ロー・スクールで博士号を取得し、1980年にイスラームに改宗しています。
ホフマン博士は、ドイツでカトリック教徒として1931年に生を受けました。彼はニューヨークのユニオン・カレッジを卒業後、1957年にミュンヘン大学で法学博士号を取得しました。
彼は行政手続き改革における研究職の助手となり、1960年にハーバード・ロー・スクールから法学修士号を取得しました。彼は1983〜1987年の間、ブリュッセルのNATOで情報局長を務め、1987年に駐アルジェリアのドイツ大使として任命され、次いで1990年に駐モロッコ大使を4年間務めました。また1982年にウムラ(小巡礼)を行い、1992年にハッジ(大巡礼)を行っています。
ホフマン博士によるイスラーム改宗は、いくつかの経験が転機となっています。そのうちのひとつに、ドイツ大使館の駐アルジェリア大使として任命された1961年当時、8年間に渡って繰り広げられていた、アルジェリア独立のためのフランス軍とアルジェリア国家戦線による血なまぐさいゲリラ戦が挙げられます。そこで彼は、アルジェリア国民が被った残虐な殺戮を目の当たりにしました。毎日、十数人もの人々がアラブ人だというだけで、あるいは独立を主張しただけで「至近距離からの処刑方式」で殺されていました。「私は極度の苦難におけるアルジェリア人の忍耐と適応性、ラマダーン月における圧倒的な自制心、勝利に対する自信、また惨めな状況の中での人情を目撃した。」彼らにそうさせているのは宗教に他ならないと彼は感じ、彼らの啓典であるクルアーンを研究し始めました。「私はその日以来、一日も欠かさずそれを読み続けている。」
ホフマン博士のイスラーム改宗における第二の転機はイスラーム美術でした。彼は幼い頃から芸術や美術、バレエなどに関心を示していましたが、強烈な魅力を訴えかけたイスラーム美術を知ったことにより、それらすべてへの興味を失った程でした。イスラーム美術について彼はこう言います。「その秘密は書道、アラベスク装飾、カーペット様式、モスク・家屋建築、都市設計などの芸術的表れの中に、宗教としてのイスラームが普遍的な存在感として潜んでいるように思えた。いかなる神秘主義も吹き飛ばしてしまうようなモスクの輝かしさ、建築設計の民主的精神からも考えさせられた。」
「また、内省的傾向のあるムスリム宮殿、そして日陰や噴水、小川に満ちた楽園であるとされる天国への願望、共同体の精神を育む複雑な社会的機能を持ち、熱と風を調整する古い大都市地域(マディーナ)、また市場の透明性、モスクの調和と周辺地域の福祉施設、また市場や住宅地での学校や寄宿舎の確保についても考えされられた。私は多くの場所でこの上なく素晴らしいイスラーム的経験をした。イスラーム的調和、イスラーム的人生、そしてイスラーム的な空間の概念は、心と精神に疑いの余地なき影響を与えるのだ。」
彼による真理の探求において、おそらくそれらすべてよりも大きな影響を与えたのは、キリスト教の歴史と教義についての徹底した知識でした。彼は、信心深いキリスト教徒が信じているものと、大学で歴史の教授が教えていることに大きな相違があることに気付きました。彼は特に、歴史的イエスの教えよりも、パウロが確立した教義を教会が優先して導入したことについて重大な懸念を持っていました。「イエスに一度も会ったこともなかった彼(パウロ)は、その極端なキリスト神学をもって、正しいユダヤ・キリスト教的キリスト観を書き換えたのだ。」
彼は人類が「原罪」というものを背負わされているという概念や、神が自らの被造物を救うために自らの子を拷問させ磔にさせたということを受け入れることができませんでした。「私は、神が自らの創造に失敗するということ、つまりアダムとイブが元凶とされる災難のために子をもうけ、命の犠牲という血なまぐさい方法をとることなしに何もできないということ、そして神が自ら創造した人類のために苦しむということがいかにとんでもない、冒涜的であるということに気付き始めたのだ。」
彼は神の存在という、至極基本的な疑問に立ち返りました。ウィトゲンシュタイン、パスカル、スウィンバーン、カントなどの哲学者らによる著作を分析した彼は、神の存在に対する理知的確信に至りました。その次に彼が対峙した論理的疑問は、いかに神が人類を導くために彼らと意思疎通するかということでした。それにより、彼は啓示の必要性を認識するに至ったものの、ユダヤ・キリスト教、もしくはイスラームの啓典のどちらに真理があるのかという疑問が残ります。
その疑問に対して、彼は次のクルアーンの章句から答えを得ました。これは彼にとって第三の重要な転機となったのです。その章句は彼の目を覚まし、ジレンマを解消する答えを与えました。それは「原罪」という概念と、聖人による「仲介」の見込みを否定し、その重荷から彼を解き放ったのです。「ムスリムは聖職者や宗教的階級が存在しない世界に住んでおり、ムスリムが祈るときはイエス、マリア、その他の聖人を介して祈るのではなく、完全に解放された信仰者として、直接神に祈るのである。そしてこの宗教は神秘といったものとは無縁である。」またホフマン博士は、「ムスリムとは自由かつ卓越した信仰者のことなのである」と述べています。
ウィルフレッド・ホフマン ドイツ人社会科学者・外交官(後半)
説明: 元アルジェリア大使のドイツ人外交官による改宗記。第二部。
- より ウィルフレッド・ホフマン
- 掲載日時 07 Sep 2015
- 編集日時 07 Sep 2015
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「唯一無二なる真実の神であり、生まれもしなければ生みもせず、何一つ似通るものなき神への混じり気のない本来の信仰として、私はイスラームの視点からそれを見るようになった。部族的な神の理神論や三位一体論の代わりに、クルアーンは最も明快かつ単刀直入、そして――少なくとも神の擬人的概念については――歴史的に最も先進的であるゆえに最も抽象的なものを示してくれた。」
「クルアーンの主張する存在論、そしてその倫理的教えは、深い真実性を帯びたものとして、私に強い印象を与えた。それは“黄金のごとく素晴らしい”ものであったため、ムハンマドによる預言者としての使命の信頼性には一片の疑いもなかった。人間性を理解する者であるなら、クルアーンの形をとって神から人間に伝達された“すべきこと・すべきでないこと”における永久の叡智を感謝せずにいることなどできるはずはないのである。」
1980年に息子の18歳の誕生日を祝うため、彼は哲学的見地から疑念の余地なく真理であるとあるとみなされる事柄を含んだ、12ページの写本を用意しました。彼はムハンマド・アフマド・ラスールという名のケルン在住のムスリム指導者に、それを見てもらいました。それを読んだ後、ラスールはもしホフマン博士が書いたことを彼自身が信じているのなら、彼はムスリムであると言いました。まさにそれが数日後の1980年9月25日、彼が「私は唯一なる真実の神以外に神はなく、ムハンマドは神の使徒であると証言する」きっかけとなりました。
ホフマン博士はムスリムになったあとも、ドイツ人外交官・NATO職員として15年間働き続けました。彼は「職場で差別を受けたことはなかった」と言っています。彼は改宗から3年半後の1984年、当時のドイツ大統領だったカール・カルステンス博士から、ドイツ連邦共和国功労勲章を受賞しました。ドイツ政府はムスリム諸国に派遣されるすべての外交使節団に、彼の著書「ドイツ人ムスリムの日記」を分析のツールとして配布しています。彼は職業の任務によって宗教の実践を妨げられることはありませんでした。
以前は赤ワインに目がなかったものの、彼は現在ではアルコールの誘いを断っています。外交官として、彼は頻繁に外国人の賓客と食事会を共にします。彼はラマダーン中であれば、そうした食事会で空の皿を前にして出席します。1995年、彼はイスラームの運動に献身するため、外交官を自ら辞任しました。
アルコールが原因で引き起こされた社会と個人への悪影響について語る際、ホフマン博士は自らに起きた事件について言及します。1951年に大学生だった彼は、アトランタからミシシッピ州に旅行していました。彼がミシシッピ州のホーリー・スプリングに着いたとき、飲酒運転による車が突然彼の車に正面衝突してきました。彼は口の損傷と、19本の歯を失うという重傷を負いました。
顎と下唇の手術を経た後、病院の外科医はこう言って彼を慰めました。「通常の状況下では、誰一人としてそのような事故を生き延びることはないのですよ。神はあなたのために何か特別なことを用意されていることでしょう。」そして後日、「つり包帯にぶら下がった腕、包帯で固定された膝、ヨウ素によって変色し、傷口の縫い跡が目立つ顔」で、足を引きずりながらホーリー・スプリングの病院を退院した彼は、外科医の言葉の意味について考えていました。
彼はだいぶ後になり、その意味を知ることになります。「遂に、その30年後、私がイスラームの信仰を証言したのと同じ日に私が生き延びたことの真の意味が明白になったのである。」
その確信について、彼はこう明言します。
「私が個人的に、疑いの余地なく確信することのできると信じる、あらゆる哲学的真理を体系的に書き記すことと、そのさらなる正確性と簡潔さを追い求めることにしばし取り組んできた。その努力の中で私は、不可知論者による一般的な姿勢は知的ではないということに気付いたのだ。それはつまり単純に、人は信じるという決断から逃れることはできないのであり、我々の周りの存在が創造されたということは明白であり、イスラームは疑いなく全体的な現実と調和するのだということである。それゆえ私は段階を踏んで、自我を忘れほとんど無意識に、自分はムスリムなのではないかと感じ初め、やがて自分がムスリムであるいうことに気づいたのだ。ただ、最後の一歩を踏み出すことだけが残っていた。正式に改宗を行うことだ。
そして今現在、私はムスリムなのだ。私はたどり着いたのだ。」
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