元英国外交官チャールズ・ル・ガイ・イートン(2/6)

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説明: 哲学者/作家による真実の探求は、信仰と行為を調和させるための恒常的な葛藤に悩まされました。第2部:宗教組織に対する個人的ジレンマ。

  • より ガイ・イートン
  • 掲載日時 01 Oct 2012
  • 編集日時 01 Oct 2012
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「どこから知識を得ればよいのか?」私は15歳になると、哲学というものを発見し、それは(英語で)「英知への愛」を意味することを知りました。英知こそが私の探し求めていたもので、私の必要性を満たすものは賢者たちによって著された重い本の中に隠されているのだと思いました。探検家が未発見の土地を目にしたときのような、抑えきれないほどの興奮を胸に、私はデカルト、カント、ヒューム、スピノザ、ショーペンハウアー、バートランド・ラッセルなどの著書を漁りました。しかし、何かがおかしいと悟るまでにそれほど時間はかかりませんでした。この分野からは、砂を食べながら潤いを求めているようなものだったのかも知れません。というのも、彼らは何も知らなかったのです。彼らは単に、悪い頭から発想を振り絞って、憶測をしていたのです。憶測なら小学生でも出来ることです。どうして15〜16歳の子供が生意気にも西洋哲学を完全に無価値なものとして切り捨てることが出来るのかって?ザンヌ(見解)としてクルアーンが言及するものと、真の知識を区別するのに、成熟さは必要ないでしょう。同時に、母は私に対して常々、他人の見解や発言を気にしてはだめだと言い続けてきましたし、それは私自信の判断力を養いました。西洋文化はそれらの哲学者たちを偉大な人々として持ち上げ、大学生たちは彼らの著作に敬意を示しつつ学びますが、私にとってはどうでも良いこととなっていました。

その後、中等学校高等部のとき、私に興味を持った師が、当時の私には理解出来なかった奇妙なことを言いました。「私の知る限り、君は唯一の真の普遍的懐疑論者だ。」彼は宗教に特定して言及したのではありません。それは、誰もが当然のこととして捉えられている事柄に対して、私が疑問を呈しているようだという意味だったのです。私は、衣食住や配偶者を探すことにかけては卓越した理性の力が、なぜ世俗世界の外側にも適用することが出来るのかを知りたいと思っていました。私は「汝は殺すべからず」という戒律が、ユダヤ教徒・キリスト教徒でもない人々にも適用されるべきだという概念に困惑していたと同時に、世界中に美しい女性たちがいるにも関わらず、一夫一婦制が普遍的に実践されていることにも納得がいきませんでした。私は自分の存在自体をも疑うようになりました。その大分後に、中国の賢人である荘子の逸話として、ある夜に彼が自分が蝶になった夢を見て、起きたときに自分が本当に蝶になった夢をみていた荘子という人物なのか、それとも蝶が荘子になった夢を見ているのかという疑念を抱いたとされています。私は彼のジレンマを理解することが出来ました。

師がその発言をしたとき、私はさらに確かなる知識というものの鍵を発見していました。それは偶然でした(実際、偶然などというものは存在しないのですが)。私はエジプト学者であるペリー教授の「原始海洋」という本を見つけていたのです。教授は、古代エジプト人がパピルス船に乗って世界の各地に彼らの宗教・神話を広めたという確信を持ちます。この仮説を証明するために、彼は古代神話だけでなく、現代の「原始的」人々の神話やシンボルを何年にも渡って研究しました。彼が明らかにしたのは、信仰の表現としての肖像の相違にも関わらず、驚くべきほどの信仰そのものの合致でした。彼はパピルス船の説については証明していませんが、それとは全く異なるものを証明しています。どうやら肖像のタピストリーの裏には、真実性、世界と人類の創造、そして人間の経験の意味における普遍的真理があるようで、それらの真理は私たちの血や骨と同じくらい私たちの一部なのです。

現代における不信仰の主なる原因は、相互に矛盾しているように映る、諸宗教の多様化です。欧州人が自らの人種の優越性を確信し続ける限り、彼らはキリスト教が唯一の真実の信仰であるということに疑いを持つ理由はないのです。彼らが「進化の過程」における頂点だったという概念は、他のすべての宗教は根本的質問に答えを与えるための幼稚な試みであると思い込ませました。この人種的自信が傾いたとき、疑念が忍び込んできたのです。善良な神にとって、人類の大半が偽宗教への奉仕に人生を費やすことを許すのはあり得ることなのか?キリスト教徒にとって、自分たちだけが救済されると信じ続けることはこれ以上可能なのか?他者、例えばムスリムも同様の主張をしています。誰が正しく、誰が間違っているかを確信することはいかに可能なのか? 私を含む多くの人々は、ペリーの本に出会うまで、当然の結論として、皆が皆正しいことはあり得ないから、皆間違っていなければならない、というものでした。宗教とは幻想、すなわち願望的思想なのだというものです。 また他者は、「科学的真実」を宗教的「神話」に置き換えることが出来ると発見するでしょう。科学とはそもそも、決して証明することの出来ないものである理性の無謬性、また経験認識が真理であるという仮定を基礎として構築されたものであるため、私にはそれが出来ませんでした。

ペリーの本を読んだ時、私はクルアーンについては何も知りませんでした。その機会が訪れたのは大分後のことで、私がイスラームについて知っていたことは、軋轢の1000年間の歴史において蓄積された偏見によって曲解されたものでした。私が知っていれば、キリスト教の大敵への方向へと歩んでいたことでしょう。クルアーンにおいては、地球上の誰一人として神の導きと真実の教義がもたらされなかった者はなく、人々は神の使徒によって、常に彼らの特定の状況やニーズを満たすため当地の「言語」によって語りかけられていたのであることが確証されています。それらのメッセージが曲解された理由は言うまでもなく、真実が世代と共に歪められていくことについても驚くべきことではないですが、その痕跡すらもが数世紀経っても見つからないのであれば、それこそは驚愕すべきことでしょう。神話や象徴(過去の人々による「言語」)によって形を変えたそれらの痕跡が、啓示された真実に基づいたものとして最終啓示を確証するものであることは、完全にイスラームと一致するものであると私は思っています。

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